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円覚寺 (那覇市)

日本の沖縄県那覇市の寺院
円覚寺跡(総門・放生池・放生橋)
円覚寺 (那覇市)の位置(那覇市内)
円覚寺
円覚寺
那覇港
那覇港
那覇空港
那覇空港
円覚寺の位置(那覇市)
地図

円覚寺(えんかくじ、琉球語:ウフティラ[1])は、沖縄県那覇市首里城北面にかつて存在した臨済宗仏教寺院

歴史編集

第二尚氏菩提寺として弘治7年(1494年)、第二尚氏王統の尚真王が、鎌倉円覚寺を模して建立した。開基京都南禅寺から初めて琉球に臨済宗を伝えた芥隠承琥。第二尚氏の支援を受けて繁栄し、寺前にある円鑑池では、中国からの冊封使を招いて宴が開かれるなど、琉球王朝史の中で極めて重要な位置を占めていた。

明治時代琉球処分後、仏殿、三門、方丈などの寺の伽藍昭和8年(1933年)国宝に指定されたが、沖縄戦で放生橋(ほうじょうばし)を残して全て焼失した。跡地は戦後、昭和23年(1948年)に琉球大学の教員宿舎が、昭和40年(1965年)頃に同大学のグラウンドが建設され、基壇や石畳などの遺構は破壊もしくは地下に埋め込まれた。昭和43年(1968年)に総門が復元され、放生池の修復が行われた。昭和59年(1984年)に琉球大学の移転が完了し、遺構の全容解明と復元整備が進められている。旧・琉球大学跡地を除く残りの敷地は、現在沖縄県立芸術大学の一部となっている。

円覚寺にはかつて第二尚氏歴代の肖像画(御後絵)が保管されていたが、全て戦災で焼失している。戦前に鎌倉芳太郎によって撮影されたモノクロ写真によって画像は残っており、現在の首里城に展示されている。当時の肖像画の色彩は今でも不明のままになっているが、残された写真及び中国側の資料などを元に復元が試みられ、1996年佐藤文彦アクリル絵の具などを用いて10点を復元。2012年には、第18代尚育王の御後絵が東京芸術大学により復元された[2]

再建された建造物が総門のみの為、参考写真のように放生橋(放生池)越しに総門を奥にした構図が多く、誤解されがちであるが、三門、仏殿などの伽藍は池の手前側にあった。

かつて沖縄戦で焼失した三門を復元することが沖縄県から発表された。2015年度中には設計して、2018年には復元する予定であった[3][4]。復元を実現するのは1968年の総門以来50年ぶりである。しかし、2019年現在進展はない。

平成26年(2014年)10月には、沖縄戦で焼失した仏殿什器の一部で行方が分からなかったとされる2つの牌(はい)が沖縄県立博物館・美術館内に保管されていたことが14日に明らかとなり、文化財の美術工芸品のクラスの貴重な資料となる[5]

平成27年(2015年)4月に、戦前の図面が公開された。図面は沖縄美ら島財団収蔵の森政三1895年-1981年)のコレクションに含まれており、貴重な史料である[6]

阿吽二体一対の仁王像も、残された破片から復元が取り組まれている[7]

往時の円覚寺編集

  • ※ 『琉球建築』より、田辺泰編、座右宝刊行会、復刻1972年、初版1937年

文化財編集

重要文化財編集

  • 放生橋 - 室町時代、中国の石工の作になる石造桁橋。高欄に弘治戊午歳(弘治11年・1498年)の銘がある。沖縄返還後の昭和47年(1972年)、国の重要文化財に指定された。前後の参道、池周囲の石積・石畳が附(つけたり)指定となっている。現在は沖縄県の所有。
  • 梵鐘(旧円覚寺楼鐘)・梵鐘(旧円覚寺殿前鐘)・梵鐘(旧円覚寺殿中鐘) - 沖縄県立博物館・美術館に所在

沖縄県指定有形文化財編集

 
総門
  • 総門
  • 円覚寺放生池石橋勾欄

史跡編集

  • 円覚寺跡

末寺編集

崇元寺、祥雲寺、桃林寺、照大寺、西来院、長寿寺、広厳寺、東禅寺、清泰寺、興禅寺、報恩寺、樹昌院、来光院、福寿院、紫雲軒。

アクセス編集

モノレール編集

路線バス編集

各路線の概要、経由地、運行本数等は、系統名の右のバス会社を参照。

県立芸大前バス停編集

首里城公園入口バス停編集

  • 1番(首里識名線) 那覇バス
  • 8番(首里城下町線) 沖縄バス
  • 17番(石嶺線) 那覇バス
  • 46番(糸満西原(鳥堀)線) 那覇バス

関連書籍編集

脚注編集

関連項目編集

外部リンク編集