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Fuyuzuki.jpg
艦歴
計画 1941年度(マル急計画
起工 1943年5月8日
進水 1944年1月20日
竣工 1944年5月25日
除籍 1945年11月20日
その後 戦後工作艦任務
1948年5月一部解体
船体は北九州若松港の防波堤
要目(計画)
排水量 基準:2,701英トン
公試:3,470トン
全長 134.2m
全幅 11.6m
吃水 4.15m
機関 ロ号艦本式缶3基
艦本式タービン2基
2軸 52,000馬力
速力 33.0ノット
航続距離 18ノットで8,000海里
燃料 重油:1,080トン
乗員 263名/307名[1]/343名[2]
兵装
(1944年[3]
65口径10cm連装高角砲 4基8門
九六式25mm機銃 3連装5基
同単装12挺
61cm4連装魚雷発射管 1基4門
九三式魚雷8本)
九四式爆雷投射器2基
九五式爆雷 54個
電探
(1944年[3]
21号電探1基
13号電探1基[4]
水測兵装 九三式探信儀1基
九三式水中聴音機1基[5]
1945年4月7日、天号作戦での冬月。後部高角砲発砲の瞬間。後方は戦艦大和。アメリカ軍撮影。

冬月(ふゆつき)[6][7]は、日本海軍太平洋戦争後半で運用した駆逐艦[8]秋月型駆逐艦の8番艦である[9]

秋月型は、この冬月以降で船体各部形状の簡略化・艦橋の大型化などの変更が加えられたため[10]冬月型として区分する分類法もある[11][12]。 艦名は片桐大自の研究によれば「[13]。 艦名は海上自衛隊の護衛艦「ふゆづき」に継承された。

目次

概要編集

一等駆逐艦冬月(ふゆつき)は[7]、日本海軍が舞鶴海軍工廠で建造した秋月型駆逐艦[9][14]1943年(昭和18年)5月8日、起工[14]1944年(昭和19年)5月25日に竣工して[14]、訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属した[8]。 6月末から7月初旬にかけて[8]第五艦隊各艦とともに小笠原諸島および硫黄島方面への緊急輸送作戦に従事した[15][16]。 7月中旬には[8]、軽巡洋艦長良や練習巡洋艦鹿島等とともに、沖縄方面輸送作戦に従事した[17][18]

7月15日、日本海軍は秋月型駆逐艦2隻(冬月、霜月)で第41駆逐隊を編制する[19][20]。 8月10日、第41駆逐隊は空母雲龍、軽巡洋艦五十鈴と共に東京湾方面の警戒任務に従事した[21]

10月中旬、第41駆逐隊は軽巡大淀の横須賀~内海西部回航を護衛するが[22]、10月12日にアメリカ潜水艦トレパンに襲撃され[23]、被雷した冬月は艦首に損傷を受けた[24]。10月17日には姉妹艦の涼月もアメリカ潜水艦の雷撃で艦首を損傷し[24]、2隻ともレイテ沖海戦に参加できなくなった[25]。またレイテ島増援作戦(多号作戦)支援のため第二遊撃部隊に編入されていたが、戦闘には参加していない[26]

11月15日、第61駆逐隊の解隊により、姉妹艦涼月が第41駆逐隊に編入される[27][28]。 また空母機動部隊と第十戦隊の解隊により[29]、第41駆逐隊も第二艦隊麾下の第二水雷戦隊に所属した[30]。 本艦の修理は11月18日に完成した[24]。 修理後、冬月と涼月は空母隼鷹のフィリピン輸送作戦を護衛する[31][32]。戦艦榛名と駆逐艦を加えた内地への帰路ではアメリカ潜水艦の集団に襲われ、隼鷹と槇が被雷して損傷した[8][33]

1945年(昭和20年)4月上旬、第41駆逐隊は第二艦隊〔司令長官伊藤整一中将、第一航空戦隊(戦艦大和)、第二水雷戦隊〕の沖縄水上特攻作戦に参加する[34][35]4月7日の戦闘で冬月の損傷は軽微だったが[36]、涼月が大破する[37]坊ノ岬沖海戦[34][38]。 4月20日、第二水雷戦隊の解隊にともない、第41駆逐隊は第三十一戦隊に編入される[39]。また第二艦隊の解隊により、第三十一戦隊も連合艦隊附属になった[39][40]。 5月20日、第三十一戦隊は新編の海上挺進部隊に編入された[40]。 冬月は小規模な対空戦闘に参加したあと、終戦の日を迎える[8]

8月20日、門司港で機雷により損傷[14][41]、艦尾を切断する[25]特別輸送艦に指定されたが復員航海には従事せず、工作艦として掃海作戦を支援した[25][41]。 任務終了後、佐世保に回航され上部構造物を撤去する[25]1948年(昭和23年)5月より、秋月型の冬月と涼月、桃型)は北九州市若松区若松港の防波堤として利用された(軍艦防波堤[42]

艦歴編集

建造経緯編集

1941年(昭和16年)度計画(マル急計画)による乙型一等駆逐艦の第361号艦[43][44]舞鶴海軍工廠1943年(昭和18年)5月8日に起工した[44][45]。当初は三菱長崎造船所で建造される予定であったが、艦型変更と線表改訂により舞鶴での建造に変更された[46]。舞鶴海軍工廠が建造した秋月型駆逐艦は4隻(秋月初月、冬月、花月)である[47]

また当時の舞鶴海軍工廠は夕雲型駆逐艦の複数隻の建造(第345号艦は早霜)や、損傷艦船(不知火初春巻波名取木曾等)の修理を抱えていた[48][49]。 10月1日、第361号艦は正式に「冬月」と命名された[7]。同日附で秋月型駆逐艦に類別された[9]

1944年(昭和19年)1月20日、進水する[49][44]。同日附で横須賀鎮守府に入籍[50]。4月21日附で、横田保輝少佐(駆逐艦太刀風沈没時の駆逐艦長)が冬月臨時艤装員長に任命される[51]。 4月28日、舞鶴海軍工廠では、冬月に先駆けて松型駆逐艦「」が竣工していた(松は昭和18年8月8日起工、昭和19年2月3日進水)[52]。 5月5日、横田少佐は冬月艤装員長の職務を解かれた(5月15日附で陽炎型駆逐艦浦風駆逐艦長へ転出、浦風の沈没時に戦死)[53]。 後任の冬月艤装員長として作間英邇中佐(海兵50期)[54]が着任した[55]。作間は吹雪型駆逐艦綾波第三次ソロモン海戦で沈没[56]した時の同艦駆逐艦長で、その後は夕雲型駆逐艦玉波艦長等を歴任していた[57]。 冬月は同年5月25日に竣工した[58][59]。同日附で、作間中佐は正式に冬月初代駆逐艦長となる[60]

第十一水雷戦隊編集

就役後、冬月は訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完海軍少将海軍兵学校41期〉、前年4月1日新編)[61]に編入された。当時の旗艦は、長良型軽巡洋艦長良[注釈 1]あった[63][64]。冬月は瀬戸内海に回航され訓練に従事する。 6月11日以降、米軍の機動部隊はマリアナ諸島に大空襲を敢行、13日以降は大艦隊がサイパン島テニアン島を包囲した[65]。15日、米軍はサイパン島に上陸を開始した(サイパン島地上戦[66]。6月17日夜、大本営陸軍部(参謀総長東条英機陸軍大将)はサイパン島の地上兵力を支援するため、第五艦隊と輸送艦によるサイパン島強行輸送作戦を決定、これを「イ号作戦」と呼称した[67][68]。 18日、東條参謀総長の指導下であらためてサイパン島奪還作戦が立案され、確保任務を「イ号作戦」(第五艦隊担当)、7月上旬予定のサイパン島地上総攻撃を「ワ号作戦」、全作戦を「Y号作戦」と呼称することになった(派遣陸軍兵団長要員として長勇陸軍少将を内定)[69][70]。その骨子は、扶桑型戦艦山城第五艦隊(司令長官志摩清英中将)を基幹とする艦艇群でサイパン島周辺の米艦隊を突破し、陸軍増援部隊を同島へ強行輸送するというものだった[70][71]。冬月は小発動艇2隻搭載可能と判定され、横須賀海軍工廠での改造工事を下令される(横工廠の担当駆逐艦は、曙、潮、不知火、薄雲、霞、皐月、初春、若葉、冬月、清霜、旗風、松)[71]。だが6月19日~20日のマリアナ沖海戦で日本海軍は大敗する[72][73]。大本営では激論が起きたが[74]、最終的にサイパン島奪還作戦は中止された[75][76]

日本軍は、サイパン島向けに準備されていた兵力を[77]、小笠原諸島・硫黄島・南西諸島・台湾に転用することに決定した[76][78]。まず「イ」号作戦部隊として横浜に待機していた歩兵第145連隊・各種砲兵隊・戦車第26連隊等が小笠原兵団に編入された(大陸命第1038号)[76][79]。これら陸軍兵力を、第十一水雷戦隊と第五艦隊(多摩、木曾など)が硫黄島方面に輸送する[77][80]。硫黄島方面作戦を「伊号作戦輸送/い号輸送作戦」と称し(6月25日命名)、高間少将(第十一水雷戦隊司令官)が指揮官となった[16][81]。 作戦実施前の6月22日、冬月は第4号輸送艦第104号輸送艦とともにを出撃して横須賀に向かう[82]。同地で機銃増備工事を受けた[83][84]。 第十一水雷戦隊旗艦の軽巡長良[62]、駆逐艦2隻(冬月、松)、第4号輸送艦で第一輸送隊を編成し[85]、6月29日に横須賀を出撃した[86]父島で輸送物件や部隊を揚陸後、7月1日に駆逐艦清霜など共に輸送艦を護衛して父島を出港し[87][88]、7月3日に横須賀へ帰投した[83]。同日附で、豊田副武連合艦隊司令長官は伊号輸送部隊の編成を解いた[16]。本作戦で、陸軍部隊の大部分は父島に、一部は直接硫黄島に進出した[16][89]。父島に上陸した部隊は、機帆船で硫黄島に移動した[16]

「冬月」は長良や清霜とともに東京湾で短期間訓練を行った後[90]、7月9日に横須賀を出港して7月11日に呉に到着した[91]

第四十一駆逐隊編集

1944年(昭和19年)7月15日附で、秋月型駆逐艦2隻(霜月、冬月[92])により第41駆逐隊が、松型駆逐艦4隻(、松、)により第43駆逐隊が、それぞれ編制される[19][93]。第41駆逐隊司令には、駆逐艦雪風駆逐艦長や第21駆逐隊司令等を務めた脇田喜一郎大佐[54]、第43駆逐隊司令には菅間良吉大佐が任命された[94]。脇田は第41駆逐隊司令駆逐艦を「冬月」に指定した[20]

同時期、日本海軍は南西諸島やフィリピン方面に増援輸送作戦を実施していた[95]。 7月中旬、第十一水雷戦隊(司令官高間完少将)は軽巡長良[96]、重巡摩耶[97]、練習巡洋艦鹿島[98]、駆逐艦5隻(浦風型駆逐艦[99]浦風清霜朝雲〉、松型〈竹〉[100]、秋月型〈冬月〉)という艦艇で[101][102]、陸軍諸部隊(第28師団の歩兵3個大隊、砲兵1個大隊、速射砲1個大隊、高射砲1個大隊、工兵、その他)の沖縄方面輸送作戦「ろ号作戦」を実施する(大海指第421号)[77][103]。 出撃時の輸送部隊は、高間少将(十一水戦司令官)直率の主隊(長良、摩耶、鹿島)と冬月艦長指揮の警戒隊(冬月、清霜、竹、朝雲、浦風)という編成である[104]。小発動艇2隻を積んでいた冬月には[98]、兵員約250の搭載が見込まれた[99]

北九州門司に集結したろ号輸送部隊(長良、摩耶、鹿島[105]、冬月、清霜、朝雲、浦風、竹)は、7月15日に中津湾を出港する[103][106]。17日に沖縄島南東部中城湾へ到着した[103][107]。ここで、先行した第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)と、第三輸送隊(冬月、清霜、竹)に分離する[103][108]。第三輸送隊は南大東島への緊急輸送を行った[103]宮古島に向かった第二輸送隊は内地に帰投せず[103]、そのままリンガ泊地へ向かった[109][110]。 第三輸送部隊は、輸送任務を終えて18日夜に中城湾へ帰投した[103][111]。 19日[103]、残りの輸送部隊は沖縄を出発する[98][112]。帰路、冬月の機関故障があったが[113]、翌日の内地帰投をもってろ号輸送部隊は解散した[114][115]。帰投後、冬月ではディーゼル発電機のクランクシャフト折損が判明する[116]。しかし、翌23日には出動訓練に加わった[117]

同時期、アメリカ軍機動部隊が硫黄島や小笠原諸島に空襲を敢行していた[118][119]。これに対処するため連合艦隊は空母「雲龍[注釈 2]を基幹とする急襲部隊(指揮官小西要人雲龍艦長)を編成した[122][121]。 空母雲龍、長良型軽巡五十鈴、第41駆逐隊(霜月、冬月)という戦力である[122][123][124]。 急襲部隊は第三航空艦隊(長官吉良俊一中将)[125]の指揮下に入り、雲龍は東京湾に進出した[122]。冬月も8月11日に呉を出港し、8月13日に横須賀に到着した[84]。当時シンガポール方面にいた霜月も内地に戻り合流、それぞれ訓練に従事した。連合艦隊旗艦の軽巡大淀も東京湾におり[126]、大淀の水上偵察機は急襲部隊の対空射撃訓練に協力した[127]。 雲龍が出動する事態は生起せず、9月下旬には機動部隊に復帰命令が出される[128][129]。冬月は9月21日から25日の間に横須賀海軍工廠に入渠した[130]。9月26日横須賀を出発、瀬戸内海に回航される[120][128]。翌日、3隻(雲龍、霜月、冬月)は呉に到着した[120][131]

10月6日、第41駆逐隊(冬月、霜月)は横須賀に向かう[132]。横須賀海軍工廠では大淀の修理と整備が終わり[126]、同艦は第三艦隊(小沢機動部隊)に編入されていた[133]。10月12日、第41駆逐隊は軽巡大淀を護衛して横須賀を出港し、大分に向かう[134][135]。同日夕刻、御前崎の173度80海里の遠州灘に差し掛かったところで[134]アメリカの潜水艦トレパン (USS Trepang, SS-412) の魚雷攻撃を受けた[136][137]。トレパンは相手を2隻の扶桑型戦艦と2隻の秋月型駆逐艦と判断し、魚雷を6本発射して戦艦と駆逐艦に1本ずつ命中させたと判定した[138]。続いて艦尾発射管から軽巡大淀に対して魚雷4本を発射したが[139]、この攻撃は失敗した[140]。魚雷は冬月の艦首に命中し、18番フレームより先が折損して垂下した[141][142]。戦死者1名[143]。沈没には至らなかったが[144]、発揮可能速力14ノットに低下する[132]。自力航行で内海西部へ移動、大淀とわかれる[145]。冬月は呉に入港し、呉海軍工廠にて修理が行われた[24][142]。 脇田喜一郎大佐(41駆司令)は司令駆逐艦を冬月から霜月に変更した[146]。冬月はレイテ沖海戦には参加できなかった[25][137]。また修理の際、艦首形状は直線型に改められた[132]

冬月被雷から5日後の10月18日、レイテ方面輸送作戦に関連して九州沿岸を南下中の姉妹艦涼月も、アメリカ潜水艦の雷撃で艦首を喪失した[24]。冬月と涼月は呉軍港に並んで艦首を修理することになった[143]。修理中に第41駆逐隊と第61駆逐隊は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)に編入されレイテ島増援輸送作戦(多号作戦)に加わることになったが[26]、修理中の2隻は参加できなかった[147]

第二水雷戦隊編集

冬月修理中の11月15日、日本海軍は第一機動艦隊および第三艦隊を解隊する[30]第一海上護衛隊の空母海鷹神鷹以外の航空母艦[注釈 3]は、第一航空戦隊(連合艦隊附属)[148]にまとめられた[30][149]。 機動部隊の護衛をになっていた第十戦隊も解隊された[150][30](十戦隊司令官木村進少将免職[151]。この措置により、第41駆逐隊は第二艦隊麾下の第二水雷戦隊[注釈 4]に編入された[154][30]。 同日附で第61駆逐隊が解隊され、第41駆逐隊に秋月型2隻(涼月若月)が編入される[28][93]。ただし、若月は11月11日にレイテ島オルモック湾で島風などと共に沈没しており[155][154](第三次多号作戦)[24][152]、第41駆逐隊への編入は書類上の事である[156]。第二水雷戦隊は軽巡洋艦矢矧(内地待機)、第2駆逐隊、第17駆逐隊、第41駆逐隊となった[30]

冬月の修理は11月18日頃に終わった[24][157]。 11月20日、第一水雷戦隊の解隊と二水戦統合に伴い[150]、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将は第二水雷戦隊司令官に任命される[153][158]。 11月23日、第41駆逐隊(冬月、涼月)はマニラ方面への『緊急輸送作戦』に従事する空母隼鷹第一航空戦隊)を護衛して呉を出撃した[147][159]

冬月航海中の11月25日、姉妹艦の霜月(第三十一戦隊旗艦)[160]がアメリカの潜水艦カヴァラ (USS Cavalla, SS/SSK/AGSS-244)の雷撃で撃沈された[161][162]。脇田大佐(41駆司令)も戦死[163]、第三十一戦隊司令官の江戸兵太郎少将[注釈 5]含め第三十一戦隊司令部も全滅した[164]。 霜月の除籍にともない、第41駆逐隊は秋月型2隻(冬月、涼月)となる[154][165]

隼鷹隊は11月30日にマニラに到着して軍需品を陸揚げしたあと、12月3日に馬公に到着した[147]。ここで、日本に戻る途中の金剛型戦艦榛名[注釈 6][166]や松型駆逐艦と合流する[147][167]。 12月6日、榛名艦長重永主計大佐の指揮下で馬公を出港する[147]佐世保入港直前の12月9日未明、部隊は野母崎沖でアメリカ潜水艦のウルフパックに発見された[168]レッドフィッシュ (USS Redfish, SS-395) の魚雷が命中した隼鷹は[168]、中破したが佐世保に帰投できた[169][170]。続いて槇がシーデビル (USS Seadevil, SS-400)[171]プライス (USS Plaice, SS-390)[172] の雷撃で損傷した[173][174]。この輸送作戦の際、涼月ともども荒天に見舞われた際に船体にシワが発生した[175]

当時、連合艦隊と第一航空戦隊は航空母艦から発進する特別攻撃隊について準備をすすめていた(12月初旬時点)[149][176]。最初の構想時点では龍鳳を母艦に想定していたが、雲龍型航空母艦に変更される[149]。第一航空戦隊では神武特別攻撃隊と呼称しており、一航戦司令官古村啓蔵少将は雲龍型2隻(天城、雲龍)と秋月型駆逐艦4隻(当時、就役艦〈冬月、涼月〉。他は未就役)による機動部隊の出撃を連合艦隊に意見具申した(12月8日申請、翌年1月中旬以降作戦可能の見込み)[149]。しかし一航戦の意見具申の段階で、連合艦隊はすでに神武特別攻撃隊の母艦運用を断念していたとみられる[149]。 12月10日、第一航空戦隊司令官は古村啓蔵少将から大林末雄少将に交代した[177]豊田副武連合艦隊司令長官は、神武特別攻撃隊を基地航空隊としてフィリピン戦線に投入する(12日、GF電令作第493号)[149]。雲龍にも、特攻兵器桜花30基をマニラに輸送する任務が与えられた[178][179]。だが、雲龍はフィリピンへ向け移動中の12月19日、アメリカの潜水艦レッドフィッシュから雷撃され、桜花や便乗中の陸軍空挺部隊もろとも東シナ海で沈没した[178][180]

冬月の修理は呉海軍工廠でおこなわれ12月27日までに終了、その後は瀬戸内海で訓練を行った[132]。艦長が酔ったまま操艦し、座礁する一幕もあったという[181]。この頃、艦橋左右に機銃台を設置し、25mm3連装機銃2基を増設、全体で7基となった。電探も22号電探が1基、13号電探が2基となった。

1945年(昭和20年)1月3日、第二水雷戦隊司令官は木村少将から古村啓蔵少将へ交代した[182][183]。 1月10日、第41駆逐隊から霜月と若月が除籍され、同隊は冬月と涼月の2隻になった[154][165]。日本海軍は空母機動部隊の再建を断念し、大和型戦艦1番艦大和第一航空戦隊に編入する(一航戦司令部を廃止し、第二艦隊司令長官直率)[184]。また大和を含め第二艦隊の特攻的運用についても検討がおこなわれた[184][185]

3月1日附で作間大佐(冬月駆逐艦長)は第43駆逐隊司令へ転出[57]山名寛雄中佐(海兵55期。当時、満潮型駆逐艦駆逐艦長)[186]が冬月二代目駆逐艦長に任命された[54][187]。また第41駆逐隊司令として、夕雲型駆逐艦風雲初代艦長等を歴任した吉田正義大佐(海兵50期)が着任する[54][187]。吉田司令は冬月に将旗を掲げた[188]

3月19日、呉軍港空襲[189][190]で対空戦闘を行った[191]。3月23日から27日まで呉海軍工廠第四船渠に入渠する[192]。出渠後は(第一航空戦隊)を中心とする海上特攻隊(指揮官伊藤整一中将・海兵39期)とともに三田尻沖に移動した[193]。事前の研究会で、大和を護る能力を持つ艦は長十cm高射砲を装備する秋月型2隻(冬月、涼月)しかなく、輪形陣の防空に大きな期待をかけることは出来ないことが確認されたが[193]、輪形陣の半径を1.5〜2kmとする以上の妙案はでなかった[194]。対空戦闘に備え砲塔の外周をロープでかこむなどの準備を行う[195]。29日、大和と冬月は紫電改第三四三海軍航空隊所属)を敵機と間違えて誤射した[196]

坊ノ岬沖海戦編集

1945年(昭和20年)4月上旬、第二水雷戦隊(司令官古村啓蔵少将:軽巡〈矢矧〉、第17駆逐隊〈磯風雪風浜風[197]、第21駆逐隊〈朝霜初霜〉、第41駆逐隊〈冬月、涼月〉)は、菊水作戦にともなう第二艦隊(司令長官伊藤整一中将:旗艦大和)の海上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加する[154][35][198]。出撃前の燃料・弾薬補給で、冬月と涼月は花月より各艦魚雷2本を受け取った[199][200]。 4月6日、水上特攻部隊は徳山沖を出撃した[38][201]。 第二艦隊は連合艦隊(司令長官豊田副武大将)より4月8日朝の沖縄突入を艦隊の航路と通過時刻付きで命令されており[202]、作戦の説明を受けた冬月の吉田司令は、僅か8隻の駆逐艦で白昼に敵の大艦隊に飛び込んでも潰されるだけなのに、「これは中央の命令だからしょうがない」と言われ、「ああ、そうかい、そうかい。それじゃあ行って潰れりゃあいいんだな」と最初から諦めていたという[203]

翌4月7日、海上特攻隊はアメリカ第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)の艦載機による空襲を受けた[204]。本格的な戦闘になる前、機関故障により落伍していた朝霜[205](第21駆逐隊司令駆逐艦)[206][207]が集中攻撃を受けて撃沈されていた[208][209]。第二水雷戦隊の戦闘詳報には「冬月三〇度方向ニ朝霜交戦中ラシキ砲煙ヲ認ム」と記録されている[210]。8隻となった第二水雷戦隊は、軽巡〈旗艦〉矢矧が輪形陣の先頭に立ち、大和の右舷後方(左舷後方)に冬月(涼月)が占位した[211]。だが回避行動を優先するため、輪形陣はすぐに崩れ、個艦での対処を余儀なくされる[212][213]。 護衛艦は次々に被弾し、矢矧と霞が航行不能、浜風は轟沈、磯風は矢矧救援中に至近弾で機関室浸水[214](速力低下、その後に航行不能)[215]、涼月も被弾により大火災となった[210][216][217]。一方、冬月は戦闘開始からまもなく戦闘機F4Uコルセアが発射したロケット弾2発を受けたがいずれも不発ですみ[25][218]、主砲発令所(戦死1名)と第一缶室(戦傷者なし)に被害が出た[219][220]ジャイロコンパスも破損している[186]。被弾以降、冬月では長10cm高角砲の統一射撃ができなくなり、各砲塔の独自照準となった[221]。戦闘詳報では冬月の戦死者12名・負傷者12名と記録されているが[222][223]、佐世保帰投後に20名が死亡したとされる[224]。また魚雷1本(5本とも)[186]が艦底を通過しており[221]、冬月を重巡洋艦と間違えて魚雷深度を5-6m(「冬月」の吃水は4m)に調整した為とみられる[225]

米軍機動部隊艦載機・第二派攻撃隊によれば、午後1時30分時の水上特攻部隊は、大和と直衛4隻(冬月、初霜、雪風、霞)、孤立した軽巡洋艦(涼月)と駆逐艦(艦名不詳、浜風は既に沈没)、損傷した軽巡(矢矧)と随伴駆逐艦(磯風)の三群にわかれていた[226]。 冬月は大和の左舷に位置してアメリカ軍機と交戦したが、午後2時すぎになると大和の沈没は時間の問題となった[227]。吉田司令によれば、大和が戦闘不能の場合、冬月が横付けして乗組員を救助する取り決めだったが、大和転覆が近いと見た吉田は様子を見る事にしたと回想している[219]。冬月は惰性で進む大和の後方を航行し、大和の転覆と爆沈を見届けた[228][229]

14時23分に大和が沈没すると[216][230]、吉田司令(冬月座乗)は「1141ヨリ数次ニ亙ル敵艦上機大編隊ノ攻撃ヲ受ケ、大和、矢矧、磯風沈没 濱風、涼月、霞航行不能、其ノ他各艦、多少ノ損害アリ 冬月、初霜、雪風ヲ以テ生存者ヲ救助ノ後再起ヲ計ラントス」(1445)と発信した[38][231]。 古村二水戦司令官はこの時点で漂流中のため、吉田大佐(第41駆逐隊司令)が冬月より遊撃部隊の指揮をとった[38][232]。 連合艦隊司令部から特攻作戦中止の命令が届いたのは約3時間後の17時50分で、この時点で作戦は中止されていなかった[233]。 雪風では寺内艦長が生存者の救助を始めようとした先任仕官を「負傷兵を乗せたまま沖縄には行けぬ。彼らはここにいればまだ救助される機会がある。まず本艦が遺憾なく全力発揮できる体制を整えよ」と留めると[234]、残存艦のみで沖縄突入を促すよう冬月に意見具申した[235][236]。 第二水雷戦隊戦時日誌、第十七駆逐隊戦闘詳報、寺内艦長の証言によると、雪風からの「此レカラ如何ニサルル決心ナリヤ」の通信に対し、冬月は「極力生存者ヲ救助セヨ 人員救助シ再擧ヲ計ラントス」と返信。雪風は冬月に「速カニ行動ヲ起サレテハ如何」と再度通信し、沖縄突入を促した[237]。 雪風の砲術長によると「(寺内艦長は)特攻作戦で死を覚悟して来ているのだから当然、という面持ちだった」と言う[238]。 吉田司令はこのやり取りについて「雪風の艦長が「人員はこのままにして沖縄に突入すべし」と意見具申してきたので「人員を救え」と信号で叱った 」と語っている[239]。 その一方で、初霜に救助された古村二水戦司令官は作戦続行を決意し、「我残存駆逐艦を率い沖縄に突入せんとす」という電報を起案。初霜の艦長に打電するよう準備させている[240]。 生存者を救助せよとの命令が下されると、寺内艦長は「そうと決まれば最後の一人まで救え」と雪風を救援作業に従事させたが[241]、「こんなだらしのない水雷戦隊を見たことがない。魚雷が残っているのに何事だ」と憤激していたともいう[236]。 初霜から作戦続行の電文が発信される前に連合艦隊司令長官から「作戦中止 損傷艦を救助し佐世保に回航せよ」の命令が届き、沖縄突入は断念された[242]

PBYカタリナ飛行艇2機が着水してアメリカ軍墜落機の救助を始めると、これに対し冬月が発砲する一幕もあった[243][244]。冬月に救助された大和副電測士も冬月の米飛行艇への発砲を目撃しているが、対空戦闘が続けられていたという認識である[245]。また「救助作業はお互い様だ」とする吉田司令の命令により発砲は禁じられていたとの証言もある[246]。アメリカ側では、PBYに救助されたパイロットの証言に「日本の駆逐艦は射撃しつつ近づいてきた」とあり、PBY搭乗者の証言に「日本の駆逐艦の主砲弾は海上の味方パイロットの200ヤード以内に落ちていた」とある。2機のPBYは味方パイロット1名のみ急いで救助し、そのパイロットの部下2名は発見できないまま飛び去ったが[247]、帰り際、大破炎上し航行不能状態の涼月へ機銃掃射を浴びせた。このPBYの報復行為は雪風艦上から確認されていたが、雪風は更なる報復を行わず味方の救助のみ行った[248]

冬月は装載艇を降ろして森下信衛第二艦隊参謀長や吉田満少尉以下、大和生存者約100名を救助した[249]。つづいて航行不能の霞の救援に向かい、冬月は霞に接舷して乗員を救助後[250]、同艦を雷撃で処分した[186][251]。山名(冬月)艦長は3ヶ月前まで霞駆逐艦長だった[252]。 さらに健在3隻(冬月、初霜、雪風)は矢矧の沈没地点へ向かい、乗組員を救助した[253][254]。17時20分、二水戦司令官古村啓蔵少将は初霜に救助され[243][255]、遊撃部隊の旗艦は冬月(吉田41駆司令)から初霜(古村二水戦司令官)に移った[232][256]。古村少将は初霜より冬月に「涼月ヲ護衛シ至急佐世保ニ回航セヨ」と命ずるが、同時に「状況ニ依リテハ涼月ヲ処分シテ差支ナシ」とも通達している[257][258]。冬月は涼月を発見できぬまま佐世保へ向かった[186][232]。 また、雪風は磯風の曳航準備を進めていたが[259][260]、古村司令官(初霜)からの命令により磯風を自沈処分にした[261][262]。記録によれば、冬月は大和、矢矧、霞の乗組員合計約600名以上を救助した[263]

4月8日朝、冬月は各隊に単独帰投中の涼月の掩護を要請した[264]。3隻(初霜、雪風、冬月)は同日午前中に佐世保に帰投した[186][257]。午後、涼月は単艦で佐世保に帰投した[265][266]。冬月の修理は4月10日から16日まで佐世保海軍工廠で行われた[267]。 第二水雷戦隊の戦闘詳報において冬月は「大豆油は問題なく使用できた」と報告している[268][269]。また各艦含めて戦訓がまとめられたが、水中爆傷を防ぐため腹巻の有効性も確認された[270][269]

第三十一戦隊編集

1945年(昭和20年)4月20日、大本営は第二水雷戦隊解隊を解隊し、残存駆逐艦[注釈 7]第三十一戦隊(司令官鶴岡信道少将・海兵43期、旗艦花月)に編入した[39][271]。また第二艦隊の解隊により、第三十一戦隊と第十一水雷戦隊は連合艦隊附属となる[39]。連合艦隊は第三十一戦隊もしくは十一水戦による突入作戦を計画中であったという[39]

5月20日、小沢治三郎中将(海軍総司令長官、連合艦隊司令長官兼務)は第三十一戦隊、秋月型駆逐艦夏月、軽巡北上、駆逐艦波風海上挺進部隊(略号、KTB)を編成した[40]。海上挺進部隊司令官は鶴岡信道少将(第三十一戦隊司令官)[40]。内海西部に配置された海上挺進部隊の任務は、邀撃奇襲作戦と作戦輸送であった(GB電令作第41号)[40]。ただし、第17駆逐隊(第三十一戦隊所属)は海軍砲術学校の練習艦任務のため舞鶴鎮守府部隊に編入されており、海上挺進部隊とは別行動である[40]。 同日附で第41駆逐隊に秋月型の10番艦宵月が編入された[272]。 5月25日には秋月型の11番艦夏月が第41駆逐隊に編入された[273]。 同日附で第41駆逐隊は第七艦隊(司令長官岸福治中将・海兵40期)の指揮下に入り、関門海峡対馬海峡方面の哨戒に任じた[274]。6月1日に門司港に回航され、係留される[25]。B-29の機雷封鎖戦術飢餓作戦)により冬月の行動も制限され、冬月が航行した後に爆発した機雷もあったという[275]。 7月5日、涼月は第41駆逐隊から除籍され予備艦となった[25][276]。 7月23日夜、冬月は関門海峡への機雷投下作戦で飛来したB-29 の編隊に対して対空射撃を行い、そのうちの1機を撃墜した[277]。夜間対空戦闘で1機を撃墜、1名を捕虜にしたとされる[278]

8月15日、終戦の日に第17駆逐隊は解隊され、同隊所属だった陽炎型駆逐艦雪風が第41駆逐隊に編入された[279]。冬月は玉音放送を門司港で迎えた[280]。8月20日、呉へ移動を命じられ、門司を出港する[281]。曳船で埠頭から離れたたところ、直後に触雷して5名が戦死、負傷者多数[281]。後部兵員室より後方を亡失し、航行不能となった[41][282]。 9月20日付で第四予備艦となり[132]、11月20日に除籍[283][284]

1946年(昭和21年)2月25日、冬月は特別輸送艦に指定された[285]が復員輸送に従事せず工作設備を搭載して工作艦となり、掃海部隊の支援任務に就いた[41][286]。同港は機雷掃海艦の一大拠点だった[41]。 任務終了後の1947年(昭和22年)秋頃、冬月は佐世保へ回航されて[25]、その後は同地で涼月と共に係留された[287]。10月15日、防波堤沈設のため払下げの通達が出される[25]1948年(昭和23年)3月1日から5月3日にかけて[25]、旧佐世保海軍工廠の佐世保船舶工業で一部を解体後(上部構造物を撤去)、冬月の船体は涼月・柳(桃型駆逐艦)とともに福岡県北九州市若松区若松港の防波堤として利用された[288]。現地では軍艦防波堤と呼ばれたが、その後埋められた[289]。現在は響灘臨海工業団地内の若松運河出口付近に、柳の船体の一部と案内板を見ることができる。一方で、冬月・涼月の船体は完全に埋め立てられていて、確認することは出来ない[289]

歴代艦長編集

※脚注なき限り『艦長たちの軍艦史』358頁による。

艤装員長編集

  1. (臨時)横田保輝 少佐:1944年4月21日[51] - 1944年5月5日[55](本職:第十戦隊司令部附)
  2. 作間英邇 中佐:1944年5月5日[55] - 1944年5月25日[60]

駆逐艦長編集

(注)1945年12月20日以降は「艦長」[290]

  1. 作間英邇 中佐:1944年5月25日[60] - 1945年3月1日[187]
  2. 山名寛雄 中佐:1945年3月1日[187] - 1945年9月21日[291]、以後1946年3月1日まで艦長を置かず。
  3. 山根灌 第二復員官/第二復員事務官:1946年3月1日[292] - 1946年4月16日[293]
  4. 玉井吉秋 第二復員事務官:1946年4月16日[293] - 1946年4月26日[294]
  5. 平山敏夫 第二復員事務官:1946年4月26日[294] - 1946年5月12日[295]
  6. (兼)由川周吉 第二復員事務官/復員事務官:1946年5月12日[295] - 1946年12月23日[296] (本職:博多上陸地連絡所長→博多運航部長)

参考文献編集

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    • 当時「秋月級」設計主務者・海軍技術大佐松本喜太郎『私はこうして愛児「秋月級」を誕生させた 防空専用艦誕生にいたる背景や苦労を主任設計者が回想する建艦秘話
    • 当時「涼月」機関長・海軍大尉原田周三『「涼月」機関長奇跡の後進航法に生きる 直撃弾により満身創痍となりながらも後進で帰投した不眠不休の戦い
    • 当時「涼月」砲術長・海軍少佐倉橋友二郎『防空駆逐艦「涼月」砲術長の沖縄水上特攻 四十一駆逐隊の若月、霜月すでになく冬月と共に戦った対空戦闘記
    • 戦史研究家落合康夫『艦名別 秋月型駆逐艦十二隻の生涯』
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  • 吉田満、原勝洋(編)『日米全調査戦艦大和』文藝春秋、1975年。
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  • 歴史群像編集部編『秋月型駆逐艦 対空戦に威力を発揮した空母直衛艦の勇姿』第23巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1999年10月。ISBN 4-05-602063-9
    • (158-168頁)文・作図=岡田幸和 特別企画1 損傷と応急対策『日本駆逐艦の戦闘被害調査 太平洋戦争で被害を受けた駆逐艦129隻の中から29隻を抽出し、魚雷・爆撃・砲撃・機雷の被害別に損傷を検証し応急対策等に言及する。
    • (173-181頁)雨倉孝之『人物抄伝 太平洋戦争の群像「秋月型駆逐艦」の戦士たち』
  • 歴史群像編集部編『軽巡球磨・長良・川内型 八八艦隊計画の一翼を担った5500トン型軽巡の変遷』第32巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2001年8月。ISBN 4-05-601918-5
    • (172-178頁)文・雨倉孝之「戦闘ドキュメント5500トン型軽巡の太平洋戦争 「球磨」型5隻、「長良」型6隻、「川内」型3隻の5500トン型巡洋艦の軌跡をその時々の軍隊区分

作戦任務を踏まえながら綴る全14隻の戦闘ドキュメント

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    • 『自昭和19年1月 至昭和19年7月内令/昭和19年1月(4)』。Ref.C12070194100。
    • 『自昭和19年1月 至昭和19年7月内令/昭和19年7月』。Ref.C12070195500。
    • 『昭和19年9月~12月秘海軍公報号外/11月(3)』。Ref.C12070497900。
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/1月(2)』。Ref.C12070503600。
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/5月(4)』。Ref.C12070505100。
    • 『自昭和20年1月.至昭和20年8月秘海軍公報/秘海軍公報昭和20年7月(3)』。Ref.C12070505700。
    • 『昭和20年1月2日 昭和20年8月30日秘海軍公報/昭和20年8月(2)』。Ref.C12070530000。
    • 『昭和18年6月1日~昭和18年6月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030356400。
    • 『昭和19年1月1日~昭和19年1月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030359900。
    • 『昭和19年2月1日~昭和19年2月29日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030360000。
    • 『昭和19年3月1日~昭和19年3月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030357500。
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年4月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030357600。
    • 『昭和19年5月1日~昭和19年5月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。Ref.C08030357700。
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030127400。
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030127500。
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030127600。
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030050500。
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030086800。
    • 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(4)』。Ref.C08030329600。
    • 『昭和19年3月1日~昭和19年11月15日 第1機動艦隊戦時日誌』。Ref.C08030036200。
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030050800。
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030050900。
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030051000。
    • 『昭和19年11月20日~昭和19年12月30日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030102400。
    • Ref.C08030147800『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(9)』。
    • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年五月一日至昭和十九年五月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第11水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127100
    • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年六月一日至昭和十九年六月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日〜昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127400
    • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年七月一日至昭和十九年七月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日〜昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127500
    • 第十一水雷戦隊司令部『ろ号作戦輸送部隊任務報告 門司-中城湾宮古島南大東島間作戦輸送 自昭和十九年七月十四日 至昭和十九年七月二十日』(昭和19年4月1日〜昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(5)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030086800
    • 軍艦大淀『自昭和十九年十月一日至昭和十九年十月三十一日 軍艦大淀戦時日誌』(昭和19年10月1日〜昭和19年11月5日 捷号作戦戦時日誌(4)軍艦大淀・軍艦鈴谷) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030038300
    • 第十戦隊司令部『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月十五日 第十戦隊戦時日誌』(昭和19年7月1日〜昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030051000
    • 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日〜昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127700
    • 第二水雷戦隊司令部『自昭和二十年二月一日至昭和二十年二月二十八日 第二水雷戦隊戦時日誌』『自昭和二十年三月一日至昭和二十年四月二十日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030103000
    • 第二水雷戦隊司令部『天一号作戦海上特攻隊1YB主力(大和2sd)戦闘詳報 自昭和二十年四月六日至昭和二十年四月八日沖縄島突入作戦』(昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030103100、C08030103200
    • 第三十一戦隊司令部『自昭和二十年四月一日至昭和二十年四月三十日 第三十一戦隊戦時日誌』(昭和19年12月22日〜昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030074900
    • 第七艦隊司令部『自昭和二十年五月一日至昭和二十年五月三十一日 第七艦隊戦時日誌』(昭和20年4月10日〜昭和20年6月30日 第7艦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030022100

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 軽巡長良は1943年12月5日にクェゼリン環礁で空襲を受け損傷[62]。内地帰投後、中部太平洋方面艦隊附属を経て、1944年5月15日附で第11水雷戦隊に編入。
  2. ^ 雲龍型航空母艦の「雲龍」は横須賀海軍工廠で建造され、1944年8月6日に竣工[120]。同日、第一航空戦隊編入[121]
  3. ^ 空母信濃天城雲龍葛城隼鷹龍鳳第六〇一海軍航空隊
  4. ^ レイテ沖海戦時の第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(海兵44期)は11月11日の島風沈没時に戦死[152]、11月15日時点では司令官不在。後任の木村昌福少将(海兵41期)は11月20日[153]任命。
  5. ^ 戦死した江戸少将の後任として、鶴岡信道少将が第三十一戦隊司令官に任命された。
  6. ^ 榛名は11月22日にリンガ泊地で座礁[147]、艦底に損傷を受けていた。
  7. ^ 昭和20年4月20日時点の駆逐隊編制は、第7駆逐隊(潮、響)、第17駆逐隊(雪風、初霜)、第41駆逐隊(冬月、涼月)

出典編集

  1. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127100, pp.53
  2. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.8
  3. ^ a b 機銃、電探数は『日本駆逐艦物語』281ページの「あ号作戦後の駆逐艦兵装状況一覧表」による。1944年8月7日の調査。
  4. ^ 終戦時は22号電探1基、13号電探2基。
  5. ^ 秋月型駆逐艦では水中聴音機は後日装備とされたが、秋月が1943年10月末までに装備していることが確認されているので冬月は竣工時から装備済であると推定できる。『秋月型駆逐艦』39ページ・98〜99ページ、『日本の軍艦11』158ページによる。
  6. ^ 海軍公報「10月(1)」pp.1 (「昭和18年10月1日付 海軍大臣達第235号)。片桐はその著書p.356にて読みを「ふゆづき」としているが、その根拠は示していない。
  7. ^ a b c #達昭和18年10月(1)、pp.1-2「達第二百三十五號 昭和十七年度及昭和十八年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦一隻、潜水艦二隻、海防艦一隻、掃海艇二隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス|昭和十八年十月一日 海軍大臣嶋田繁太郎|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 冬月(フユツキ)|川崎重工業株式會社ニ於テ建造 伊號第十三潜水艦|三井造船株式會社ニ於テ建造 呂號第五十潜水艦|日本鋼管株式會社鶴見造船所ニ於テ建造 海防艦 草垣(クサガキ)|株式會社藤永田造船所ニ於テ建造 第三十八號掃海艇 第四十一號掃海艇|函館船渠株式會社ニ於テ建造 第五十五號驅潜艇」
  8. ^ a b c d e f 陽炎型(2014)、328-329頁「冬月(ふゆづき)」
  9. ^ a b c #内令昭和18年10月(1)、p.1〔 内令第二千二十六號 艦艇類別等級表中左ノ通改正ス|昭和十八年十月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等秋月型ノ項中「霜月」ノ下ニ「、冬月」ヲ加フ|潜水艦、一等伊十型ノ項中「伊號第十二」ノ下ニ「、伊號第十三」ヲ加フ|同二等呂三十五型ノ項中「呂號第四十九」ノ下ニ「、呂號第五十」ヲ加フ|海防艦、御蔵型ノ項中「千振」ノ下ニ「、草垣」ヲ加フ|掃海艇、第十九號型ノ項中「第三十三號」ノ下ニ「、第三十八號、第四十一號」ヲ加フ|驅潜艇、第十四號型ノ項中「第五十四號、」ノ下ニ「第五十五號、」ヲ加フ〕
  10. ^ 歴群23、秋月型 1999, p. 11写真欄外解説より。
  11. ^ 歴群23、秋月型 1999, p. 10第361号艦型〔冬月型〕361号艦「冬月」
  12. ^ 歴群23、秋月型 1999, p. 144乙型駆逐艦概観
  13. ^ 片桐, 356ページ
  14. ^ a b c d 福井1993、日本駆逐艦物語205頁「第6表 秋月型(乙型)一覧表」
  15. ^ 戦史叢書17巻、49頁「「伊」号作戦輸送」
  16. ^ a b c d e 戦史叢書45巻、55-56頁「サイパン増援予定兵力を硫黄島へ」
  17. ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 539a-540ロ号輸送の鹿島(八月)
  18. ^ 戦史叢書17巻、48-49頁「海軍艦艇をもってする兵力展開輸送」
  19. ^ a b #内令昭和19年7月、p.21〔内令第八百六十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和十九年七月十五日 海軍大臣|第三十二驅逐隊ノ項ノ次ニ左ノ二項ヲ加フ |第四十一驅逐隊|霜月、冬月|・|第四十三驅逐隊|梅、竹、松、桃| 〕
  20. ^ a b 昭和19年8月4日 海軍公報 第4759号 p.12』 アジア歴史資料センター Ref.C12070501700 「○司令驅逐艦指定 第四十一驅逐隊司令ハ七月二十二日司令驅逐艦ヲ驅逐艦冬月ニ指定セリ」
  21. ^ 日本空母戦史 1977, pp. 680-682雲竜の急襲部隊編入(八月〜九月)
  22. ^ 佐藤和正 1993, p. 192.
  23. ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 454a-455大淀、危うし(十月)
  24. ^ a b c d e f g 戦史叢書93巻、30-34頁「大本営海軍部の水上兵力整頓の基本方針」
  25. ^ a b c d e f g h i j k 歴群23、秋月型 1999, p. 35a.
  26. ^ a b 戦史叢書54巻、450-453頁「フィリピン沖海戦直後の水上部隊」
  27. ^ 歴群23、秋月型 1999, pp. 179-181平山「凉月」艦長と山名「冬月」艦長
  28. ^ a b #秘海軍公報昭和19年11月(3)、pp.4-5〔内令第一二七一號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十九年十一月十五日海軍大臣|第二驅逐隊ノ項中「清霜」ノ下ニ「朝霜」ヲ加フ|第七驅逐隊ノ項中「潮」ノ下ニ「、霞」ヲ加フ|第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル|第二十一驅逐隊ノ項中「初春、初霜、若葉」ヲ「初春、初霜、時雨」ニ改ム|第三十一驅逐隊ノ項中「長波、朝霜、岸波、沖波」ヲ「長波、岸波、沖波、濱波」ニ改ム|第三十二驅逐隊ノ項ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月」ノ下ニ「、涼月、若月」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項ノニ左ノ一項ヲ加フ||第五十二驅逐隊 桑、檜、桐、杉、樫||第六十一驅逐隊ノ項ヲ削ル〕
  29. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 578a-579編成変と対潜作戦
  30. ^ a b c d e f 戦史叢書93巻、34-36頁「第一機動艦隊、第三艦隊の解隊(十一月十五日)」
  31. ^ 日本空母戦史 1977, pp. 795-800隼鷹の第二次輸送作戦(十一月~十二月)
  32. ^ 陽炎型(2014)、325-326頁「涼月(すずつき)」
  33. ^ 陽炎型(2014)、333頁「槇(まき)」
  34. ^ a b 戦史叢書17巻、6-7頁「航空及び海上作戦の経過」
  35. ^ a b 戦史叢書93巻、277-278頁「海上特攻隊の編制と出撃準備」
  36. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌C08030103200』p.38「(ハ)ロケット彈ヲ併用セリ 冬月ニ 二彈命中セリ(盲彈)」」
  37. ^ 歴群23、秋月型 1999, pp. 35c、179-180.
  38. ^ a b c d 戦史叢書93巻、279-292頁「海上特攻隊、突入に失敗」
  39. ^ a b c d e 戦史叢書93巻、283-284頁「第二艦隊、第二水雷戦隊の解隊」
  40. ^ a b c d e f 戦史叢書93巻、396-397頁「海上挺進部隊の編成」
  41. ^ a b c d e #終戦と帝国艦艇97頁「駆逐艦"冬月"」
  42. ^ 歴群23、秋月型 1999, pp. 35b-38a文・写真提供 上農達生〔防波堤となった「涼月」と「冬月」〕
  43. ^ 福井1993、日本駆逐艦物語、290頁「日本海軍駆逐艦艦名一覧/冬月 Fuyuzuki」
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  45. ^ #S1806舞鎮日誌p.5「(二)造修(1)新造艦船工事 早波、濱波 艤装工事豫定通進捗中/沖波 船臺ニ在リテ罐及主機械積込中/第三四五號艦 船臺ニ在リテ建造工事豫定通進捗中/第三六一號艦 五月八日起工目下船臺ニ在リテ船殻工事中」
  46. ^ 遠藤, 213、214ページ
  47. ^ 岡本幸太郎 2014, pp. 202-203「帝国海軍駆逐艦・水雷艇建造小史(6)・空母直衛駆逐艦―秋月型(乙型)」
  48. ^ #S1806舞鎮日誌p.5「(2)修理工事(a)損傷復舊工事/霞 損傷復舊工事ニ併セ重油タンク加熱装置施行三十日完成/不知火、初春 船渠内ニ於テ損失部結合工事中/巻波、太刀風 概ネ予定通工事進捗中/名取 六月一日入港工事中ナルモ資材入手ノ関係上明年五月末完成ノ見込」
  49. ^ a b #S1901舞鎮日誌p.9「(a)新造艦船 早霜 艤装中/冬月 一月二十日進水艤装中(略)|(b)損傷艦船 名取(一九.五末)木曾(一九.二末)何レモ附記期日完成豫定ヲ以テ復舊工事極力促進中/長良 二十六日入港損傷復舊工事中|(c)霞十八日、呂四〇潜二十日整備完了出撃ス」
  50. ^ #内令昭和19年1月(4)p.39「内令第百七十五號 驅逐艦 冬月 右本籍ヲ横須賀鎮守府ト定メラル 昭和十九年一月二十日 海軍大臣嶋田繁太郎」
  51. ^ a b 昭和19年4月21日(発令4月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1436号 p.27』 アジア歴史資料センター Ref.C13072097400 
  52. ^ #S1904舞鎮日誌p.8「(a)新造艦船 松 兵装艤装竝ニ諸公試完了四月二十八日引渡ヲ了ス/冬月 艤装中/桃 同/第三六六號艦 第五四八八號艦}船臺ニ在リテ船殻工事中/第二四三一號艦四月一日、第五四九二號艦四月十日起工(以下略)」
  53. ^ 昭和19年5月15日(発令5月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1471号 p.8』 アジア歴史資料センター Ref.C13072098200 
  54. ^ a b c d 歴群23、秋月型 1999, p. 175表1、防空駆逐隊の司令と艦長
  55. ^ a b c 昭和19年5月5日(発令5月5日付)海軍辞令公報(部内限)第1461号 p.3』 アジア歴史資料センター Ref.C13072098100 
  56. ^ 歴群18、水雷戦隊I 1998, p. 88綾波(あやなみ)
  57. ^ a b 歴群18、水雷戦隊I 1998, pp. 182-183.
  58. ^ #秋月型(潮2015)81頁
  59. ^ #S1905舞鎮日誌pp.7-8「(a)新造艦船 冬月 兵装艤装竝ニ諸公試完了五月二十五日引渡ヲ了ス/桃 艤装中/第三六六號艦 第五四八八號艦 第二四二一號艦}船臺ニ在リテ船殻工事中(以下略)」
  60. ^ a b c 昭和19年5月28日(発令5月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1486号 p.17』 アジア歴史資料センター Ref.C13072098300 
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  78. ^ 戦史叢書6巻、485-486頁「奪還作戦部隊の転用と後方要域の強化」
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  87. ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 536b.
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  91. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.62
  92. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 471c木俣滋郎『日本水雷戦史』471頁では「冬月は第61駆逐隊」とするが、第41駆逐隊の誤記。
  93. ^ a b 歴群23、秋月型 1999, pp. 174-175防空駆逐隊―司令と艦長
  94. ^ 昭和19年7月21日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1541号 p.7』 アジア歴史資料センター Ref.C13072100100 
  95. ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 471a-473続いてロ号輸送(八月)
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  98. ^ a b c 日本軽巡戦史 1989, p. 539b.
  99. ^ a b #ろ号作戦p.26「(イ)艦艇ノ搭載量標準ニ関シ 艦艇ヲ以テスル作戰輸送時ニ於ケル搭載量ノ決定ハ中々至難ニシテ特ニ陸軍ノ場合圓滑ナル作戰實施ノ一障害ヲナスヲ以テ速ニ現艦艇ノ搭載量標準ヲ規定スルノ要アリ 之ニ関聯シ今回實施セル作戰輸送時當司令部ニテ決定セル各艦ノ搭載標準ハ左表ノ通ニシテ作戰輸送トシテノ各艦ノ畧限度ナリト認ム」-「摩耶|人員(数)一〇〇〇|物件(噸)一七〇/長良|六〇〇|三〇/鹿島|七〇〇|一〇〇/浦風型|二〇〇|四〇/冬月|二五〇|五〇/竹|/|三〇」
  100. ^ 南海の死闘 1994, pp. 86-87「竹」の初陣
  101. ^ 日本水雷戦史 1986, p. 471b.
  102. ^ #S1906十一水戦(2)pp.5-6「(四)麾下艦船部隊竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動」
  103. ^ a b c d e f g h 戦史叢書17巻、49-50頁「「呂」号作戦輸送」
  104. ^ #ろ号作戦pp.29-30「(イ)第一軍隊区分」
  105. ^ 写真日本の軍艦9巻、軽巡II、187頁「軽巡洋艦『香取、鹿島、香椎』行動年表 ◆鹿島◆」
  106. ^ #ろ号作戦p.6「十五|中津湾|(天候略)|〇八三〇摩耶入港/〇九〇〇輸送作戰打合セ/一八〇〇中津湾出撃」
  107. ^ #ろ号作戦p.7「十七(天候略)一八〇二長良冬月霜月竹鹿島中城湾着/二三〇〇冬月清霜竹南大東島ニ向ケ中城湾発輸送物件人員陸揚」
  108. ^ #ろ号作戦p.30「(ロ)第二軍隊区分」
  109. ^ #S1907十戦隊日誌(1)p.5「(2)朝雲 月頭ヨリ呉ニ於テ整備補給ニ従事中ノ所四日附属部隊ニ編入十日附第十駆逐隊解隊ニ伴ヒ第四駆逐隊ニ編入十四日浦風ト共ニ同地発即日門司着「ロ」號作戰輸送部隊第二輸送隊トシテ陸軍部隊竝ニ物件搭載ノ上同地発中津沖及中城湾ヲ経テ十八日宮古島着陸軍部隊竝ニ物件ノ揚陸ヲ終了「ロ」號作戰輸送部隊ノ編制ヲ解カレ即日同地発二十日「マニラ」着補給ノ上二十三日同地発二十六日「リンガ」着…」
  110. ^ #S1907十戦隊日誌(1)p.37「一八(天候略)〇七二一朝雲〇九五二浦風宮古着/〇八四五雪風因島船渠出渠/〇九二五朝雲一〇三〇浦風摩耶護衛「マニラ」ニ向ケ宮古発」
  111. ^ #ろ号作戦p.7「十八|中城湾|(天候略)|〇八〇〇冬月清霜竹南大東島着輸送物件人員陸揚終了/一〇三〇中将湾ニ向ケ南大東島発/二〇〇〇中城湾着」
  112. ^ #ろ号作戦p.8「十九(天候略)|〇一〇〇長良鹿島冬月清霜竹中城湾発/〇七〇〇清霜七六二空搭乗員救助作業ノ爲解列」
  113. ^ #ろ号作戦p.8「二〇(天候略)|一六〇六冬月機械故障ノ為列外ニ出ル/一六二七舵故障復旧列ニ入ル/二三〇二長良冬月竹八島着 呂号作戰部隊ノ編成ヲ解ク」
  114. ^ #S1904呉鎮日誌(4)p.39「十九日一八一四GF|十九日二二五〇鹿島 11sd(呉鎮)(外)|GF電令作第三一八號 「ロ」號作戰輸送部隊ノ内海西部着以後同部隊ノ編制ヲ解ク 11sdハ内海西部ニ於テ訓練整備ニ從事シ鹿島ハ原隊ニ復歸スベシ」
  115. ^ #S1907十戦隊日誌(1)p.8「(2)冬月 十五日附霜月ト共ニ第四十一駆逐隊ニ編入南西諸島方面陸軍部隊輸送ニ従事中ノ所二十一日右任務終了内地着二十二日司令駆逐艦トナリ爾後月末迄内海西部ニ於テ諸訓練ニ従事ス」
  116. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.46
  117. ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127500, pp.64
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  123. ^ 戦史叢書45巻の67頁など、連合艦隊参謀長発「基地航空兵力ノ使用ニ当リテ 基地転進不如意ナルガ如キ場合 空母搭載移動ヲ以テ攻撃ニ指向セントスル企図ニ基クモノナルヲ以テ飛行機搭載竝ニ発艦訓練等ニ関シ計畫準備シ置カレ度」
  124. ^ #S1907十戦隊(2)p.4「(ハ)第四十一駆逐隊 冬月内地方面霜月「リンガ」方面ニアリテ夫々訓練警戒待機ニ從事中ノ所霜月四日「リンガ」発昭南着ヒ七〇船團護衛五日同地発横須賀ニ回航同隊十日附第七基地航空部隊ニ編入爾後ノ経過當司令部ト別動中ニ付詳細不明(同艦戰時日誌参照)」
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  194. ^ 倉橋友二郎 1967, pp. 163、213冬月砲術長は集団防御について否定的で、個艦防御優先を主張した。
  195. ^ 最後の水兵 2014, p. 52.
  196. ^ 最後の水兵 2014, p. 53同著53頁では「誤射により紫電改撃墜」としているが、2機が損傷して高度を落とした。紫電改は遠方から見るとF6Fヘルキャットと似ている。
  197. ^ 磯風、特年兵 2011, pp. 360-363沖縄海上特攻発動まで
  198. ^ 戦史叢書17巻、382-383頁「大和部隊(第一遊撃部隊)の沖繩突入作戦」
  199. ^ 駆逐艦入門 2006, pp. 367-368.
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  256. ^ #S1911第17駆日誌(9)p.33「初霜→071805雪風冬月|艦船番號順序ヲ初霜、冬月、雪風トス」
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  259. ^ ドキュメント戦艦大和 1986, pp. 315-316.
  260. ^ #S1911第17駆日誌(9)p.33「(将旗)17dg071900→雪風初霜|我航行不能被曳航準備完成」
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  262. ^ 神風電探戦記 2011, pp. 151-153.
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  264. ^ #S1911第17駆日誌(9)p.34「080932(将旗)41dg→(将旗)2sd軍令部次長指宿(飛行場)|凉月佐多岬ノ262度140浬ヨリ鹿児島又ハ佐世保ニ向ケ航行中同艦警戒ニ関シ配慮ヲ得度」
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  270. ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌、C08030103200』p.52「九.医務(略)(ハ)水中爆症二名アリタリ水中爆症ニハ腹巻ハ有効ナリ」
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  272. ^ #秘海軍公報昭和20年5月(4)、p.22〔内令第四四七號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月二十日 海軍大臣|第四十一驅逐隊ノ項中「冬月、」ノ下ニ「宵月、」ヲ加フ|第四十三驅逐隊ノ項中「榧、」ノ下ニ「椎、」ヲ加フ|第五十二驅逐隊ノ項中「楓、」ノ下ニ「梨、萩、」ヲ加フ〕
  273. ^ #秘海軍公報昭和20年5月(4)、p.29〔内令第四百六十四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル|昭和二十年五月二十五日 海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項中「磯風、」ヲ削ル|第四十一驅逐隊ノ項中「宵月、」ノ下ニ「夏月、」ヲ加フ〕
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  276. ^ #秘海軍公報昭和20年7月(3)、p.1〔内令第六〇〇號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年七月五日 海軍大臣|第四十一驅逐隊ノ項中「、涼月」ヲ削ル〕
  277. ^ 遠藤, 215ページ、木俣『日本水雷戦史』646、647ページ。ただし、青森空襲を記録する会 本土空襲墜落機調査には記載がない
  278. ^ 最後の水兵 2014, p. 64b.
  279. ^ #秘海軍公報昭和20年8月(2)p.28〔内令第七三四號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和二十年八月十五日海軍大臣|第十七驅逐隊ノ項ヲ削ル 第四十一驅逐隊ノ項中「夏月」ノ下ニ「、雪風」ヲ加フ〕
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関連項目編集