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冷泉 元豊(れいぜい もととよ)は、戦国時代武将大内氏毛利氏の家臣。父は大内氏家臣・冷泉隆豊

 
冷泉元豊
時代 戦国時代
生誕 天文7年(1538年
死没 永禄5年10月13日1562年11月19日
別名 通称:五郎
主君 大内義隆毛利元就
氏族 多々良姓大内流冷泉氏
父母 父:冷泉隆豊、母:平賀氏平賀弘保又は平賀玄信女)
兄弟 元豊元満
桂元澄の娘[1]
なし

目次

出自編集

冷泉氏大内氏の支流。祖父・冷泉興豊が母方の冷泉家の家号を称して冷泉氏を名乗った。

生涯編集

天文7年(1538年)、大内氏家臣である冷泉隆豊の子として生まれる。

天文20年(1551年9月1日、父・隆豊が大寧寺の変において大内義隆に最期まで付き従って戦死した。元豊はまだ年少であったため、弟の四郎(のちの元満)と共に叔父(隆豊の実弟)である吉安豊英に連れられて安芸国国人であった平賀氏の前当主・平賀弘保の許へと逃亡した。その後、弘治元年(1555年)から始まる毛利元就防長経略の際に毛利氏に仕え始め、元服の際には元就より「元」の偏諱を受けて元豊と名乗った。

防長経略の後、毛利氏は北九州へと進出して豊前国北部を占領。元豊は関門海峡を臨む門司城の城代を任されたが、永禄5年(1562年10月13日桂元親赤川元吉と共に豊前国大里・柳浦の戦いにおいて立花道雪率いる大友氏と交戦し戦死した。享年25。元豊には男子がいなかったため、家督は弟の元満が継ぎ、毛利氏が門司城を奪回した後に門司城代となった。

脚注編集

参考文献編集

  • 萩藩閥閲録』巻102「冷泉五郎」
  • 『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社山口支社編、三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。全国書誌番号:73004060NCID BN07835639OCLC 703821998 国立国会図書館デジタルコレクション