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刑部卿局

浅井長政の娘、千姫の乳母

刑部卿局(ぎょうぶきょうのつぼね、元亀元年(1570年) - 万治4年(1661年))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。千姫乳母満徳寺住職。号は俊澄尼

目次

生涯編集

元亀元年(1570年)に浅井長政の娘として誕生する[1]

慶長2年(1597年)、徳川秀忠正室で異母妹の江(崇源院)が妊娠した際、乳母となる。当時江の侍女だった民部卿局と共に上臈として仕えていた。

慶長8年(1603年)、千姫が7歳で豊臣秀頼と結婚すると、侍女の松坂局とともに大坂城に入る。千姫には教育係として京風作法も教えた。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では徳川家康の命により松坂局、千姫侍女・早尾と共に千姫を守り、逃げた。『柳営婦女伝系』では当時の様子を、大野治長に「千姫を逃がし、秀忠と家康に淀殿と秀頼の助命嘆願をして欲しい」といわれ淀殿のところへ行くと淀殿は千姫の着物の袖を自分の膝の下に敷き懐剣を握り、何かあれば刺し殺しかねない様子だった。その時、刑部卿局が機転を効かせて「秀頼様、御自害」と叫んだので、淀殿は驚いて秀頼のもとへ走って行った。その隙に侍女たちは千姫を蒲団で巻いて外へ出した、という。

しかしこれは後世の創作と思われる。

千姫は淀殿の指示で用意された輿に乗り、刑部卿局、松坂局など侍女たちは徳川家の家臣の馬の後ろに乗って逃げたとされる。

元和2年(1616年)、千姫が本多忠刻に再嫁する前、千姫は満徳寺に入寺し、秀頼との縁を切った。その時に代理として松坂局が訪れ、身代わりに刑部卿局が俊澄尼と号して住職となった。

寛永3年(1626年)、千姫の嫁いだ本多忠刻、姑の熊姫が次々と亡くなった。その為千姫は江戸へ帰らされる。俊澄と号した刑部卿局、松坂局もそれに伴う。

寛永20年(1643年)、鎌倉東慶寺伽藍を千姫が再建する。

正保元年(1644年)、迷信を避ける為に江戸城から移った千姫は千姫の弟、3代将軍徳川家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の三男・徳川綱重と暮らすようになる。その時、松坂局は綱重の乳母となり刑部卿局は前のように竹橋御殿の女性達を統括した。

明暦3年(1657年)、明暦の大火で竹橋御殿が焼失した時には、紀州徳川家の屋敷に千姫やほかの女性達と共に一時寄留する。

万治4年(1661年)、江戸で死去。享年92。

異説編集

大阪城落城の際に、千姫に秀頼とともに自害をすすめた。そこで周囲の侍女たちは千姫を逃がすために刑部卿局を斬り殺したという。彼女は死に際に「この恨み晴らさぬわけには参らん」と言った。その後は本多幸千代、忠刻、熊姫、江らが急逝し、千姫には不幸が続いたため刑部卿局の呪いだと恐れた。

しかし、刑部卿局が後に千姫の身代わりとして満徳寺にて出家したという記録など、刑部卿局がその後も千姫の側近くに仕えていたことがわかるためこれは間違いである。

登場作品編集

脚注編集

  1. ^ 『時衆教団の地方展開』、『緣切寺』より。また、満徳寺由緒書には「中興開山俊澄比丘尼ハ浅井長政之娘二テ徳川家二仕へ刑部局ト申候」とある。

出典編集

  • 緣切寺
  • 時衆教団の地方展開
  • 日本女性人名辞典
  • 柳営婦女伝系
  • カラー版徹底図解大奥(新星出版社)