唐物肩衝茶入 銘初花(重要文化財)、公益財団法人徳川記念財団所蔵。

初花(はつはな)は、楢柴肩衝新田肩衝と並んで天下三肩衝と呼ばれた茶器の一。一般的には初花肩衝と呼ばれる。徳川将軍家伝来の陶製茶入である。古来「大名物」として名高い茶入で、中国南宋または時代の作と推定され、戦国時代日本に渡来した。初花という命名は室町幕府8代将軍足利義政とされ、その形状釉色が優美婉麗で春の先駆けする初番の名花に似るためだという[1]重要文化財指定名称は、唐物肩衝茶入 銘初花(からものかたつきちゃいれ めいはつはな)で、現在は東京徳川記念財団が所蔵している[2]

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概要編集

陶製、高さ8.8cm。「肩衝」とは器の肩部が水平に張った茶入のこと。肩から底部にかけて茶褐色の釉が流れて景色をつくっている。均整のとれた優美な作ぶりである。

伝来編集

日本に伝来する以前は楊貴妃の油壺であったとも。足利義政から村田珠光の門人の鳥居引拙の所持となり、の大文字屋疋田宗観を経て、永禄12年(1569年)4月頃織田信長に進上された。元亀2年(1571年)と天正2年(1574年)信長の茶会で使用されたことが確認できる。当時、初花肩衝は新田肩衝に次ぐ「天下二」の肩衝と評価されていたという。天正5年(1577年)12月28日、信長は嫡男の信忠が三位中将に昇進した祝いと家督相続の印として他10種の茶道具とともに初花を譲るが、天正10年(1582年)に本能寺の変により流出。具体的な経緯は不明だが松平親宅(法名・念誓)が所有した。その後、徳川家康に献上され、親宅はこの功績によって倉役・酒役など一切の諸役を免許状が与えられた[3]

天正11年(1583年)6月までに賤ヶ岳の戦いの戦勝祝いに羽柴秀吉へ贈られる。このことは千宗易島井宗室へ宛てた書状に書いている[4]。初花を手に入れた秀吉は大坂城初の茶会を始め、たびたび大茶会にこれを飾った。これは秀吉は初花を使用して見せることで、自分が信長-信忠-秀吉と続く織田政権の後継者と周囲に示そうとしたものと考えられる[5]。なお、天正15年(1587年)、九州征伐により楢柴肩衝秋月種実から秀吉の手に渡り、天下三肩衝が秀吉の元に揃う。

秀吉の死後、宇喜多秀家へ相続されるが、秀家が関ヶ原の戦いに敗れたため再び家康の手に渡る。家康は大坂の陣で戦功のあった孫・松平忠直結城秀康の子)に、恩賞として与えられた。しかし、忠直は褒美に領地を貰えなかった事に不満を持ち初花を打ち砕いたという話もあるが、初花が現存しているので作り話と考えられる。忠直改易後は長子の松平光長が相続したが、光長が越後騒動で改易されると、姪の女二の宮(光長妹・亀姫次女)が預かる。光長放免後は再び光長に戻されるが、元禄11年(1689年)光長の養嗣子・長矩津山藩主になると、同年12月実質その御礼として江戸幕府に献上された[6]

忠昌が打ち砕いたとされる茶壷は修復され、「初花の茶壷」として福井市立郷土歴史博物館に保管されている。「初花の茶入」と「初花の茶壷」は、よく混同されるので注意が必要である。[7]

脚注編集

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  1. ^ 桑田忠親編 『茶道辞典』 東京堂出版、1956年。
  2. ^ 唐物肩衝茶入〈銘初花/〉 - 国指定文化財等データベース(文化庁)、2018年6月24日閲覧
  3. ^ 上越市史』別編五藩政史料一、上越市、1999年、406号史料。
  4. ^ 千宗易(利休)書状(福岡市美術館蔵、福岡市博物館 Facata(博物館だより) 所蔵品紹介63 千宗易(利休)書状
  5. ^ 竹本千鶴 『織豊期の茶会と政治』 思文閣出版、2006年10月、p.359、ISBN 978-4-7842-1318-4
  6. ^ 浅倉(2015)。
  7. ^ 鞍掛伍郎「戦国お城番付 No.87 福井城」『漫画ゴラク』2011年10月7日号

参考文献編集

  • 浅倉有子 「「初花肩衝」のゆくえ」『日本歴史』第810号、2015年11月号、吉川弘文館、pp.67-76

関連項目編集

外部リンク編集