前田利同

日本の江戸時代後期~大正時代の大名・伯爵・外務省及び宮内省官僚。加賀藩12代藩主前田斉泰の子で、越中富山藩12代藩主前田利聲養子。富山藩13代(最後)の藩主。従四位下淡路守

前田 利同(まえだ としあつ)は、幕末大名で、越中富山藩の第13代(最後)の藩主、官僚。のち伯爵

 
前田 利同
時代 江戸時代末期(幕末) - 大正時代
生誕 安政3年6月27日1856年7月28日
死没 大正10年(1921年12月23日
改名 茂松・稠松(幼名)利同
墓所 東京都文京区大塚
護国寺共葬墓地
官位 従四位下、淡路
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜
越中富山藩
氏族 加賀前田氏
父母 父:前田斉泰、母:こと(賀古氏)
養父:前田利聲
兄弟 慶寧利義池田慶栄利行利鬯直会利同利武、ほか
正室:松平輝聴の娘・
鞍子(前田利男正室)、鞭子(山縣有道室)、韁子(久松定孝室)
養子:利男利乗
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生涯 編集

安政3年(1856年)6月27日、加賀藩主・前田斉泰の十一男として江戸で生まれる。富山藩では第12代藩主・前田利聲隠居していた父の利保が改革をめぐって対立していたが、その争いは利保に斉泰が味方したことで利保の勝利に終わり、利聲は富山藩の藩主の座を追われて強制隠居処分となった。代わって斉泰の息子である利同が安政6年(1859年)11月22日に富山藩主となった。しかし幼少のため、実権は実父の斉泰が掌握し、富山藩は本家である加賀藩の影響下に置かれ、加賀藩から津田正行らが派遣されて藩政を監督された。

明治2年(1869年)6月の版籍奉還で富山藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官される。その後、東京へ移った。明治4年(1871年)10月、明治政府からフランス留学を許可される。最初はフランス・パリ、次いでイギリス・ロンドンへ留学した。明治6年(1873年)12月、帰国した。

明治15年(1882年)4月、フランス公使館書記生から外務省御用掛となる。その後、宮内省の式部官となる。明治17年(1884年)、伯爵となる。明治21年(1888年)10月、宮内省の式部官から外務省の公使館書記官となる。明治26年(1893年)3月、免官となる。大正10年(1921年)12月23日、脳溢血により東京市下谷の自宅にて死去した[1]。享年66。

前田伯爵家を継承した養子の前田利男は、伯爵溝口直正の子である。

栄典 編集

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

家族 編集

脚注 編集

  1. ^ 富山市役所編 『富山市史』第2巻p369 1980年 富山市役所
  2. ^ 『官報』第7512号「叙任及辞令」1908年7月11日。
  3. ^ 『官報』第2820号「叙任及辞令」1921年12月24日。
  4. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  5. ^ 『官報』第610号「賞勲叙任」1885年7月14日。
  6. ^ 『官報』第7600号「叙任及辞令」1908年10月24日。
日本の爵位
先代
叙爵
伯爵
富山前田家初代
1884年 - 1921年
次代
前田利男