前野忠康

安土桃山時代の武将

前野 忠康(まえの ただやす、永禄3年(1560年)〜慶長5年9月15日1600年10月21日))は、安土桃山時代武将黄母衣十三人若江八人衆の一人。初め前野 兵庫と呼ばれる。一般的には舞兵庫まいひょうごの名で知られている。

 
前野 忠康
時代 戦国時代安土桃山時代
生誕 永禄3年(1560年
死没 慶長5年9月15日1600年10月21日
改名 前野小助→前野兵庫助忠康→舞野兵庫助忠康
別名 通称:兵庫助、兵庫、舞兵庫
幼名:小助 / 別名:舞野兵庫助、前野兵庫、前野忠泰
主君 前野長康豊臣秀長石田三成
氏族 良岑氏前野氏舞野氏
父母 前野勝長 佐々政元
武功夜話上の父:前野忠勝 山内氏
養父前野長康
兄弟 前野忠康前野吉康坪内三左衛門坪内喜兵衛前野自勝
武功夜話上の兄弟:於弥(前野為定(自唯)室)、 前野宗高前野忠康前野時之
前野長康娘(加弥)
前野三七郎前野長蔵前野亮恵前野自性前野助左衛門、於台(前野助左衛門/自性正室)
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経歴編集

 
『関ケ原合戦屏風』(江戸時代後期)
前野忠康(画像右下の赤い旗の騎馬武者)
 
前野忠康が使用した家紋
丸に違い鷹の羽

室は豊臣秀次の筆頭宿老前野長康(坪内光景)の娘とされる。初めは松永久秀の家臣であったともいわれている。豊臣秀長(当時羽柴秀長)に仕え、豊臣秀吉(当時羽柴秀吉)播磨出陣の際には、前野長康軍の後備えとして兵三百五十八人を率いた。後に、黄母衣十三人・若江八人衆の一人となり、各地を転戦し武勇をあげて活躍した。

文禄3年(1593年)、秀次事件がおこると、秀次の家老である前野景定は命令により切腹し、景定の父で兵庫のである前野長康などは、責任を感じ景定切腹の3日後に前野清助介錯のもと切腹した。石田三成は兵庫を密かに匿い、折を見て豊臣秀吉に勘気をといてもらうように嘆願した。その結果、赦されて大場土佐と共に5千石で招し抱えられ[1]島左近清興に次ぐ二番家老となった。

慶長4年(1599年)、加藤清正福島正則黒田長政細川忠興浅野幸長池田輝政加藤嘉明らの七将が三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件)が起きた際には嫡男の前野三七郎とともに三成の護衛にあたった。三成挙兵の際に兵庫は三成の命を受け、羽黒山伏姿の使者を越後に送り、斎藤利実長尾景延越後国土豪達を蜂起させた。また、家康との合戦に向けた武芸の稽古の際も家臣らの指導を担当した。

関ヶ原合戦時の忠康編集

慶長5年(1600年8月23日関ヶ原の戦い前哨戦である合渡川の戦いでは、東軍の進軍を止めるべく、三成の命で兵1千を率いて森九兵衛らとともに合渡川畔に陣取った。兵庫や九兵衛らが兵に朝食を取らせている最中、黒田・田中隊の奇襲をうけ応戦したが、不利と見て梅野村まで退き再び敵を押し返すべく戦った。だがこの時点で戦える状態にある兵士は600人余にまで減っており、敗れて杉江勘兵衛を殿軍として大垣城まで退却した。この際勘兵衛は討ち死にする。同年9月15日の関ヶ原の戦いでは小池村の二重柵の前に陣列し、石田三成軍第二番隊大将として中島宗左衛門、大場土佐、大田伯耆香築間蔵人三田村織部町野介之丞馬渡外記川崎五郎左衛門らを率いて戦闘に臨み、嫡男の三七郎らとともに討ち死にしたと伝わるが、遺体などが見つかっておらず、その生没は不明である(『常山紀談』『関原軍記大成』)[1]司馬遼太郎の歴史小説『関ヶ原』にも舞兵庫として登場する。

舞野姓の由来編集

忠康が名乗った舞野姓は、前野家の古儀(古くからの儀式)が「舞」であったことからついた名であるといわれる。また舞という名の妻がいたともいわれている。

脚注編集

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  1. ^ a b 安藤英男; 齋藤司 著「石田三成家臣団事典―三成をめぐる九十二名―」、安藤英男 編 『石田三成のすべて』新人物往来社、1985年、211頁。 

登場作品編集

小説編集

  • 『関ヶ原』司馬遼太郎

映画編集