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前野 忠康(まえの ただやす)は、安土桃山時代武将黄母衣十三人若江八人衆の一人。初め前野 兵庫と呼ばれる、一般的には舞兵庫(まいひょうご)の名で知られている。

 
前野忠康
時代 安土桃山時代
生誕 永禄3年(1560年
死没 慶長5年9月15日1600年10月21日)?
別名 舞兵庫、舞野兵庫助
主君 豊臣秀長石田三成
氏族 前野氏舞野氏
前野長康娘
男子
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経歴編集

室は豊臣氏の家臣・前野長康(坪内光景)の娘とされる。初めは豊臣秀長に仕え、黄母衣十三人の一人となる。 秀次事件がおこると舅の前野長康などは事件に連座し切腹させられたが、石田三成は兵庫を密かに匿い、 折を見て秀吉に勘気をといてもらうように嘆願し、その結果、赦されて大場土佐と共に五千石で招し抱えられたという[1]

慶長5年(1600年)8月23日の合渡川の合戦では兵一千を率いて、黒田・田中隊と闘ったが、敗れて杉江勘兵衛を殿軍として退却した。関ヶ原の戦いでは小池村の二重柵の前に陣列し、戦闘に臨んだが、その生没は不明である(『常山紀談』『関原軍記大成』)[1]

脚注編集

  1. ^ a b 安藤英男; 齋藤司、「石田三成家臣団事典―三成をめぐる九十二名―」、安藤英男編 『石田三成のすべて』 新人物往来社、1985年、211頁。