前野長康
前野 長康(まえの ながやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣。但馬国出石城主。
時代 | 戦国時代、安土桃山時代 |
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生誕 | 未詳 |
死没 | 文禄4年8月19日(1595年9月22日) |
別名 | 喜太郎[1]、後に小太郎(幼名)、将右衛門(通称)、坪内光景(実名) |
戒名 | 義道空心大禅定門 |
墓所 | |
官位 | 従五位下、但馬守 |
主君 | 豊臣秀吉→秀次 |
氏族 | 坪内氏後に前野を称す |
父母 | 父:坪内勝定、母:前野長義の娘、武功夜話上の父:前野宗康 |
兄弟 |
武功夜話上の兄:小坂雄吉(上条城主) 実弟:坪内利定 義兄弟:蜂須賀正勝 |
子 | 景定、娘(前野忠康室) |
名称について編集
本名は坪内 光景。[注 1]
通称は将右衛門。元は尾張国松倉城の領主である坪内氏の当主・坪内勝定の嫡男で、別名を坪内長康とも言われている。その出自は『武功夜話』では勝定の娘婿としている。定説や『寛政重修諸家譜』には勝定の嫡男であり、実名は坪内光景である。[注 2][注 3]
生涯編集
羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣である。俗に言う秀吉の墨俣一夜城築城に協力したといわれている。
信長没後、秀吉が天下人に上る過程の天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い[2]、天正13年(1585年)の四国攻めに参加して武功を挙げたため、同年閏8月に秀吉から播磨国三木から但馬国出石に5万3,000石で加増移封された。
豊臣政権下では聚楽第造営の奉行を務め、天正16年(1588年)の後陽成天皇行幸の際には、その饗応役を務めた。天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)の文禄の役にも参加して武功を挙げ、11万石に加増されている。
豊臣秀次付の家老となった後、文禄4年(1595年)に秀次が謀反の罪により秀吉に自害させられると、長康も秀次を弁護したことから連座として罪に問われて中村一氏に身柄を預けられ、自害を命じられた。数歳享年68(満66か67)歳。
武功夜話編集
昭和62年(1987年)に新人物往来社から刊行された『武功夜話』のうち、五宗記は長康の日記であり、従来の学説を根本的に覆す歴史的にみても非常に貴重な史料と一時は注目された。しかし、使用されている語彙の一部が現代人に容易にわかるものがあり、五宗記部分の信憑性は立証されていない。
前野長康を主題とする作品編集
- 書籍
脚注編集
注釈編集
- ^ 坪内家に伝わる「富樫庶流旗本坪内家一統系図並由緒」(各務原市歴史民俗資料館編)の系図では、ほとんどが長康として記され、光景は1点のみである。
- ^ 『寛政重修諸家譜』では勝定の長男は「某」とされ、加えて「勝右衛門 但馬守 従五位下 今の呈普光景に作る」とあり、さらに但し書きに「前野某が家を継、豊臣太閤に仕へ、但馬国出石の城主たり」とある。坪内「某」が「前野某」の家を継いだと解釈される。
- ^ 坪内系図では勝定は永正13年(1516年)生まれ。長康は前野系図では大永8年(1528年)生まれ。これによると二人は12歳差で、実の親子とは考えにくい。但し、生没年、親子関係等、今後の確実な研究を必要とする。
出典編集
- ^ 「野史」、「尊卑分脈」
- ^ 賤ケ岳合戦:黒田官兵衛も参戦していた…秀吉の古文書発見(毎日新聞2013年5月10日)