剱持松二
日本の将棋棋士
剱持 松二(けんもち しょうじ、1934年7月21日 - 2016年1月7日)は、将棋棋士。東京府(現:東京都)出身。荒巻三之九段門下。棋士番号73。2000年3月引退。「松寿」を名乗っていた頃もある[1]。
剱持松二 九段 | |
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名前 | 剱持松二 |
生年月日 | 1934年7月21日 |
没年月日 | 2016年1月7日(81歳没) |
プロ入り年月日 | 1956年10月1日(22歳) |
引退年月日 | 2000年3月31日(65歳) |
棋士番号 | 73 |
出身地 | 東京府(現:東京都) |
所属 | 日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 荒巻三之九段 |
弟子 | 加藤一二三九段 |
段位 | 九段 |
棋士DB | 剱持松二 |
戦績 | |
一般棋戦優勝回数 | 1回 |
通算成績 | 399勝660敗(.377) |
順位戦最高クラス | B級2組(19期) |
2017年8月24日現在 |
経歴編集
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1961年度は東西対抗勝継戦で優勝し、また、1962年・1963年には順位戦連続昇級し、現役プロとしてのピークを迎えた。七段から八段へ昇段するのに19年間を要したが、その昇段祝賀会には150人もの参加者が詰めかけた。
順位戦において、降級点取得回数11回(B級2組で5回、C級1組で4回、C級2組で2回)・抹消5回(B級2組で3回、C級1組で2回)の珍記録を有している。
引退間際でも若手棋士にたびたび勝つ事から、「若手潰し」として恐れられた。例えば1988年度順位戦C級1組で、直後に竜王位を獲得する羽生善治に勝ち、結果として頭ハネで昇級を阻止している。
2016年1月7日、心不全のため死去[2]。
人物編集
- その人柄から、大山康晴からも升田幸三からもかわいがられた。また、連盟の裏方として、スポンサー集め、募金集めに東奔西走した。特に三菱電機との関係が深かったとのことで、将棋会館建設時や早指し将棋選手権の開始時などは同社から多額の寄付金を引き出しているという[3]。またプロレス好きの剱持は、三菱電機が当時日本プロレス中継のスポンサーだったため、同社を通じて力道山との親交があり、力道山が将棋好きということもあって、アマチュア三段の免状を贈呈したこともある[4]。
経歴編集
戦績編集
通算成績 399勝660敗
門下編集
脚注編集
- ^ 『中原誠実戦集 第1巻』 P.161
- ^ “訃報 剱持松二九段|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月24日閲覧。
- ^ a b c 剱持松二四段(当時)と力道山アマ三段 - 将棋ペンクラブログ・2013年5月7日
- ^ a b 剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(1) - 将棋ペンクラブログ・2010年5月13日
- ^ プロ入りは加藤が1954年、剱持が1956年である。
- ^ 剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(最終回) - 将棋ペンクラブログ・2010年5月15日
- ^ “2013年4月1日付昇級・昇段者|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟. 2017年8月24日閲覧。