劉 兆玄(りゅう ちょうげん)は、中華民国台湾)の政治家中国国民党所属)。元行政院長(首相)。外省人

劉 兆玄
生年月日 (1943-05-10) 1943年5月10日(81歳)
出生地 中華民国の旗 中華民国 四川省成都県中国語版
(現:成都市
所属政党 中国国民党

中華民国の旗 第22代 行政院長
在任期間 2008年5月20日 - 2009年9月10日
総統 馬英九

中華民国の旗 第23-24代 行政院副院長
内閣 蕭万長内閣
在任期間 1997年12月11日 - 2000年5月20日
総統 李登輝

中華民国の旗 第15代 交通部長
内閣 連戦内閣
在任期間 1993年2月27日 - 1996年6月10日
総統 李登輝
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劉 兆玄
職業: 政治家
籍貫地 湖南省衡陽県
各種表記
繁体字 劉 兆玄
簡体字 刘 兆玄
拼音 Líu Zhàoxuán
和名表記: りゅう ちょうげん
発音転記: リュウ ヂャオシュエン
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経歴

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少年時代には兄弟とともに「上官鼎」というペンネームで武侠小説を出版している。台湾大学卒業後、トロント大学で博士号(化学)を取得し、国立清華大学教授に就任。同大学学長を6年間務め、台湾トップレベルの総合大学としての地位を確立した。

1980年代には行政院国家科学委員会で行政経験を積み、李登輝総統連戦内閣で交通部長(1993年-1996年)、蕭万長内閣で行政院副院長(1997年-2000年)を歴任。1999年台湾大地震の際には全国救災執行長として第一線で救援活動を指揮。2000年中国国民党が下野すると、連戦が設立したシンクタンク「国家政策研究基金会」副理事長に就任。2004年には私学の東呉大学の学長になった。

2008年5月20日馬英九総統の任命により行政院長に就任した。就任後まもなく、中国産乳製品有害物質(メラニン)混入事件や経済情勢の悪化などを受けて、劉兆玄内閣の支持率は2008年11月時点で34%と低迷している(国民党寄りの新聞聯合報の世論調査による)。

2009年8月8日に発生し、台湾南部を中心に約700人の死者・行方不明者を出した台風8号への対応の遅れに批判が集中し、内閣支持率が10%台に急落。同年9月10日、行政院長を辞任し、内閣総辞職をした[注釈 1]

日本との関連

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日本では、2008年6月に尖閣諸島近海で台湾漁船が海上保安庁巡視船に衝突され沈没した事件(聯合号事件)をめぐり、日本との開戦の可能性を排除しないという見解を示し、日本に対する宣戦布告ではないかと波紋を引き起こした人物として知られる。しかし、実際には、好戦的な国民党立法委員に「開戦の可能性は排除しないか」と執拗に質問されてやむを得ず「そのとおり(是)」と答弁したようであり、真意は平和的解決の強調にあったとされる。実際、その日の晩に行政院は、行政院長の発言の趣旨について、外交処理を優先し、日本と開戦するとは言っていないとする見解を出している[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ ただし、閣僚25名は後継の呉敦義内閣で再任されている。

出典

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  1. ^ 浅野和生 「国民党馬英九政権の対日政策」『問題と研究』2008年10・11・12月号、『聨合報』2008年6月14日
  中華民国
先代
郭南宏
国科会主任
1996年 - 1998年
次代
黄鎮台
先代
張俊雄
行政院長
2008年 - 2009年
次代
呉敦義
先代
章孝嚴
行政院副院長
1997年 - 2000年
次代
游錫堃
先代
簡又新
交通部長
1993年 - 1996年
次代
蔡兆陽