劉 六符(りゅう りくふ、生没年不詳)は、(契丹)の政治家本貫河間郡

経歴 編集

劉慎行の六男として生まれた。文章を得意とし、進士に及第した。重熙元年(1032年)、政事舎人に転じ、翰林学士に抜擢された。重熙3年(1034年)、耶律庶徴・耶律睦らとともに正月を祝う使者として北宋に赴いた。重熙7年(1038年)、参知政事となった。重熙11年(1042年)、北院宣徽使の蕭特末とともに北宋への使者に立ち、晋陽と瓦橋以南の10県の地を割譲するよう求めた。帰国すると漢人行宮副部署となった。北宋は10県の代わりに、歳幣を銀10万両と絹10十万疋増額することを申し出てきた。そこで耶律仁先耶律瓌引の子)とともに再び北宋への使者に立ち、歳幣を「進貢」と呼ぶよう求めると、北宋はこれに難色を示した。劉六符は契丹軍の南進をほのめかして北宋を脅迫した。北宋の朝廷はやむなく契丹側の要求を呑み、歳幣を「貢」と称した。劉六符は帰国すると、同中書門下平章事の位を加えられた。北宋の歳貢がやってくると、劉六符は三司使となって接受にあたった。

劉六符は参知政事の杜防と険悪で、北宋からの賄賂を受け取ったと杜防に告発され、重熙12年(1043年)に長寧軍節度使として出向させられた。まもなく三司使として召還された。

重熙24年(1055年)、道宗が即位して大冊礼を挙行するにあたり、北院枢密使の蕭革は「大礼を行うには広い土地を選ぶ必要があり、黄川で行うべきだ」と主張した。対して劉六符は「礼儀は国の大体であり、帝王の楽は野で奏するものではない。要所である中京大定府で行うべきである」と主張した。道宗は劉六符の意見に従った。劉六符はほどなく病没した。

伝記資料 編集