劉梁(りゅうりょう)は、中国の人物。

  • 長沙定王の劉発の後裔で、舂陵孝侯の劉仁の子。の時代に挙兵したが、にわかに病没した。
  • の官吏。進士に及第した。
  • 下記の本項で述べる。

劉 梁(りゅう りょう、生没年不詳)は、後漢官僚文人は曼山。またの名は岑[1]本貫東平国寧陽県

略歴 編集

前漢の梁孝王劉武の末裔であったが、若くして父を失って貧窮し、書を市で売って日銭を稼いだ。社会が利権で結びつき、よこしまな人々が党派を作っている世情を憎んで、「破群論」を著した。また「弁和同之論」を著した。

桓帝のとき、孝廉に察挙され、北新城県令に任じられた。講舎を作って、生徒数百人を集め、儒教にもとづく教育を推し進めた。

特別に召し出されて入朝し、尚書郎に任じられた。後に野王県令とされたが、赴任しなかった。光和年間に病没した。文集3巻があった[2]

孫の劉楨がやはり文才で名を知られた[3]

脚注 編集

  1. ^ 范曄の『後漢書』文苑伝下による。『三国志』魏書王衛二劉伝裴注所引『文士伝』は「一名恭」とする。
  2. ^ 隋書』経籍志四に「後漢野王令劉梁集三巻」とあり、『旧唐書』経籍志下および『新唐書』芸文志四に「劉梁集二巻」とある。
  3. ^ 『後漢書』文苑伝下による。『三国志』魏書王衛二劉伝裴注所引『文士伝』は劉楨の父を劉梁とする。

伝記資料 編集

  • 『後漢書』巻80下 列伝第70下