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劉 武周(りゅう ぶしゅう)は、初に割拠した群雄の一人。

定楊可汗 劉武周
定楊
皇帝
王朝 定楊
在位期間 617年 - 621年
都城 馬邑
姓・諱 劉武周
生年 武平4年(573年
没年 武徳4年(621年
劉匡
趙氏
后妃 沮皇后
年号 天興 : 617年 - 620年

生涯編集

劉匡と趙氏の間の子として、瀛州景城県(現在の河北省滄州市滄県の西部)に生まれた。父の劉匡の代に雲州馬邑に移住していた。

武周は騎射をよくし、豪傑と交友した。兄の劉山伯は「おまえは付き合う相手を選ばないと、わが一族を滅ぼすことになるぞ」と武周を非難したといわれる。武周は洛陽にいたり、隋の太僕の楊義臣の麾下に入った。高句麗遠征に従って功績を挙げ、建節校尉に任ぜられた。馬邑に帰還すると、鷹揚府校尉となった。馬邑郡太守の王仁恭に重用されたが、大業13年(617年)に張万歳らとともに王仁恭を斬り、官倉を開いて食糧を振る舞い、馬邑郡の属県に檄を飛ばして兵一万あまりを得て、馬邑太守を自称し、突厥に遣使して従属した。

雁門郡丞の陳孝意と虎賁郎将の王智弁が桑乾鎮を包囲すると、武周は突厥と合流して王智弁を撃破した。陳孝意は雁門に逃れて、雁門の人に殺され、雁門は武周に帰順した。武周は楼煩を襲撃して破り、汾陽宮に進軍して拠った。突厥は武周を立てて定楊可汗とした。武周は皇帝を称し、妻の沮氏を皇后とし、天興と建元した。衛士の楊伏念を左僕射とし、妹婿の苑君璋を内史令とした。また上谷の宋金剛が帰順してくると、宋王に封じて武周の妹をとつがせた。宋金剛は武周に晋陽を取って天下を争うように進言し、武周は宋金剛を西南道大行台に任じた。

天興3年(619年)、総勢2万の兵を率いての北辺に進攻し、楡次を落とし、介州を抜き、太原を囲んだ。唐の裴寂を撃破し、斉王李元吉を遁走させて、武周は太原に入城した。宋金剛を派遣して晋州を攻め落とし、劉弘基を捕え、澮州に進軍させた。夏県呂崇茂が県令を殺して魏王を号し、武周に呼応した。また隋の河東の守将の王行本も武周と連合した。

唐の高祖李淵は、秦王李世民に兵を率いさせて柏壁に駐屯させた。唐の永安王李孝基于筠独孤懐恩唐倹の四将が夏県を攻撃すると、武周の部将である尉遅恭が李孝基の軍を破り、四将を捕らえた。しかし尉遅恭は美良川で李世民に敗れ、王行本蒲州でまた敗れた。宋金剛は絳州を囲み、武周は浩州を攻めたが、勝てなかった。宋金剛の軍が食糧不足となって撤退をはじめたところ、李世民は追撃して雀鼠谷で日中八戦、宋金剛は大敗して介州に逃れた。唐軍が迫ると、宋金剛は残軍2万を西門から出して、城を背にして陣を布いた。しかし、決戦は敗れ、宋金剛は軽騎で逃げ去り、尉遅恭・尋相・張万歳らは唐に降った。武周は太原を捨てて突厥に逃れた。宋金剛は突厥に叛いて上谷に帰ろうとしたが、追っ手に斬られた。武周もまた馬邑に帰ろうとして、計画が露見し、突厥の軍隊に殺害された。享年49。

伝記資料編集

  • 旧唐書』巻55 列伝第5「劉武周伝」
  • 新唐書』巻86 列伝第11「劉武周伝」