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劉 殷(りゅう いん、? - 312年)は、中国五胡十六国時代の漢(後の前趙)の官吏。は長盛。新興郡の人。後漢光禄大夫劉陵の玄孫で、姫姓)の頃王の王子である姫季子ことの康公の末裔といわれている。『晋書』に伝がある。

目次

生涯編集

俗気がなく、さっぱりした性格であり、世を救う志を持っていた。

7歳の時に父を亡くし、尋常ではない悲しみぶりを見せた。3年に服し、その間礼の限りを尽くし、歯を見せて笑うことは一度もなかった。

20歳になると学に励んで儒学の経典や歴史書に精通し、それぞれの内容を総合的にまとめた。書物やで読まないものはなかった。常人を超えた才能を有し、世を救う志を有していた。倹約に努め、言動や行動に卑しさはなく、清く慎ましく生活を送った。協調性もあり、年配の者には恭順に振る舞ったため、郷里の人や親族はみな彼を称賛した。郡からは主簿として、州からは従事としてそれぞれ勧誘を受けたが、家中を扶養する者がいないことを理由にいずれも断った。さらに、司空・斉王の司馬攸からは掾に、征南将軍の羊祜からは参軍事に任じられたが、これも病と称して断った。

同郡の張宣子は并州の大豪族で、多くの財産を持っており、また達見の士で評判だった。彼は劉殷を招集し、仕官を受けるよう勧めた。劉殷は「今、二公(司馬攸・羊祜)が晋の柱であり、私は彼らのように垂木となることを望んでいる。だから、この機会を頼らずして栄達はないことなど、とうにわかっている。だが今、わが家には曾祖母の王氏が健在であり、もし今仕官を受ければ臣の礼を尽くさねばならず、曾祖母の面倒を見ることが叶わなくなる。かつて子輿(孟子の字)が斉の大夫を辞退したのも、親の気持ちを汲んだからであろう」と述べた。張宣子は「あなたの言葉は、凡人たる私には納得しがたいものがある。もし仕官が叶わぬなら、今後は私の先生となっていただきたい」と言い、自分の娘を劉殷に嫁がせた。

太傅楊駿が執政していた時、劉殷へ贈り物を用意して招いたが、彼は年老いた母の世話を理由に固辞した。楊駿は劉殷の志を称賛し、母親への孝道を遂げさせることを許した。地方に命じて、彼の家へ衣食を供えるようにし、租税を免除した。また、絹200匹と穀物500斛を下賜した。

301年、趙王司馬倫は帝位を簒奪した。側近の孫秀は、劉殷の名望を以前より尊重しており、彼を招集して散騎常侍に任じようとした。だが劉殷はこれを拒絶し、雁門へ逃走した。

斉王司馬冏が執政するようになると、劉殷を大司馬軍諮祭酒に任じ、劉殷はこれを受け入れた。彼が入朝すると、司馬冏は、「先王(司馬攸)は何度も君を招集したが、君は来なかったな。今、私は君を呼んだが、なぜ引き受けてくれたのか」と尋ねた。劉殷は「世祖(司馬炎)は大聖をもって天命に応え、先王は高い徳行をもってこれを助けました。これはが君主の時代に后稷殷契がこれを補佐したのと同じです。故に、この殷は一人の男として生きることを望み、仕官を拒んで来ました。幸運にも唐虞(堯・舜)の世に生まれたので、刑死の罰など恐れる必要は無かったのです。今、殿下は勇ましさと聡明さを併せ持ち、暴徒を除いて帝を復位させました。しかしながら、その行跡はやや粗く、その厳威によりますます周囲は静まり返っております。私は再び政変が起こることを恐れ、これを伝えたく思いました。そのため、仕官せずにはいられませんでした」と答えた。司馬冏は彼のことをただ者では無いと感じ、新興郡太守に任じた。

彼は赴任すると、刑罰を行うときはしっかりと明察を行い、善行を積む者へは手厚く称した。こうして大いに治績を挙げ、周囲から称賛された。

永嘉の乱が起こると、新興へも劉淵の軍勢が到来し、劉殷はその手中に落ちた。劉淵の子劉聡は彼を高く評価し、抜擢を受けて侍中となった。漢が建てられた際には、その謀略に与った。

305年劉琨晋陽に拠って劉淵と対峙するようになると、劉殷は「殿下(劉淵)が挙兵してから1年が経過しましたが、その成果は辺境の地をいくつか占拠しただけであり、いまだ威望は震っていません。もし殿下が将兵を四方に派遣させたならば、機を見て劉琨と大胆に決戦を行い彼を討ち、河東を平定した後に皇帝位に即位し、南に大軍で進出し長安を落として我らの都とし、さらに再び関中の兵を動員して洛陽を席巻することも全て容易に可能となるでしょう。これは漢の高祖が大業を興し、強大なを滅ぼしたのと同じ手法です。」と進言した。劉淵は深く喜び「あなたの言葉は私の考えと合致する」と答え、これに従った。その後、左光禄大夫に任じられた。

310年7月、劉淵が重病で床に伏せるようになると、劉殷は左僕射となり後事を託された。同年8月、劉聡が即位すると、劉殷は大いに重用された。10月には大司徒に昇り、さらに録尚書事太保を歴任し、大昌公に封じられた。

劉殷が皇帝に対して強く諫言をすることは滅多になかったが、事の状況に応じて適切な進言を行ったため、国家の発展を大いに促した。劉聡が朝議を開いた際、劉殷は劉聡の意見に直接反対することなく、群臣が退出した後に、理を尽くして説得した。そのため劉聡は劉殷を信用し、毎度その進言に耳を傾けたという。朝廷にあっても、彼は公卿らと慎み深く付き合い、決して自分の顔色を表に出すことはなかった。また、品行の悪い士人とは付き合わず、彼の門下に決して入れなかった。

民からも大いに慕われ、冤罪を役所へ訴えられずに劉殷に助けをもとめた者は、その数百人に上った。

劉殷は子や孫へ向けて「君主に仕える者というのは、遠回しに忠言を為すべきである。凡人が相手でも正面から非難してはならないし、ましてや相手が諸侯であるならなおさらである。主上の怒りを買い災いを招く原因は、その過失を言い立てるような行為にある。常に主を敬っているならば、道理を用いて討議をするのが当然である。かつて鮑勛が龍顔(天皇の顔)を犯して誅罰を受けたことをよく考えるのだ」と常々言いきかせていたという。

後に劉殷は、劉聡より「剣履上殿(剣と靴を身に着けたまま殿に登ることを許される)」「入朝不趨(入朝時に小走りにならなくとも咎められない)」「乗輿入殿(輿に乗ったまま入殿することを認められる)」という、3つの特権を与えられた。

311年11月、劉殷の娘2人は劉聡により宮中に迎えられ、左右の貴嬪となって昭儀より上位に置かれた。また、孫娘4人も貴人となり、貴嬪に次ぐ位となった。

312年、劉聡が遊猟に耽るようになると、中軍の王彰は固く諫めた。大怒した劉聡は彼を処刑しようとしたが、劉殷は諸公卿列侯100人余りと共に劉聡の下へ赴くと、冠を外して涙を流しながら固く諫めた。これを受けて、ようやく劉聡は怒りを収めて王彰を許した。劉聡は謝罪し、劉殷を始め全員に帛100匹を下賜した。

同年6月、劉殷はこの世を去った。文献公とされた。常に謙虚に振る舞い、慎重に行動したため、乱世でも富貴と名声を守って天寿を全うすることができたという。

家族編集

夫人編集

劉殷の妻・張氏は性格が穏やかであったという。彼女が劉殷の下に嫁いだ時、母は怒り、「私の娘はまだ14歳です。容貌・才知に優れておりますが公侯の妃となるのはまだ早いとは思いませんか。なぜこんなに急いで嫁がせようとするのです」と、張宣子を詰った。張宣子は、「それはおまえが考えることではない」と言い、娘へ向けて、「劉殷の考は冥神をも感動させるものだ。また、その才識は世を超越しさらに磨きをかけている。きっと、成長を重ねると当世の名公となるであろう。おまえはよく彼の世話をして、支えてやるのだ」と言った。

劉殷へ嫁いだ後、曾祖母の王氏を奉り、孝行を尽くすことで評判となった。劉殷へも父親の如くその補佐に当たった。王氏が亡くなると、劉殷は大いに嘆き悲しんだ。張氏も彼と同じように悲観し、度が過ぎたため2人揃って体を崩し、命の危機に瀕したという。王氏の棺は家中に置かれたが、ある時西隣の家で失火が起こった。風の勢いが凄まじかったため、火は強まり劉殷の家をも飲み込まんとしていた。劉殷と張氏は棺の前で跪き、泣き叫んだ。すると、火は彼らの家を飛び超え、東隣の家へ移った。そのため、劉殷たちは無傷であった。この火事の直後、2羽の白い鳩が家の庭にある樹に巣を築いた。そのため、周囲の人からは彼らの名誉がさらに顕れて見えたという。

息子編集

劉殷には息子が7人いた。彼はそのうち5人の息子にはそれぞれ五経のうちの一経を教え、1人には太史公を教え、1人には『漢書』を教えた。一家の中で7つの科目は大いに発展し、彼らをきっかけとして北方の学問は隆盛を極めたという。

編集

劉殷には劉英劉娥という2人の娘がいた.。共に劉聡の貴嬪となり、その寵愛は国を傾ける要因にもなった。劉聡が政務を顧みなくなると、国事は全て中黄門が上奏して、左貴嬪となった劉英がこれを認可していたという。劉英の死後には劉娥は皇后に立てられた。

逸話編集

  • 真冬のある日、劉殷の曾祖母の王氏はを食べたがったが、それを口に出さなかった。彼女は10日間あまり食事を取らなくなり、劉殷は奇妙に思い彼女に尋ねると、王氏は理由を答えた。当時9歳であった劉殷は、湖沼に向かうと菫を探し回ったが、この季節菫は成長を終えて既に枯れており見つからなかった。劉殷はひどく嘆いて、「私は罪深く、父母の喪に遭う罰を受けた。また、曾祖母が健在にもかかわらず、10日間も孝行をしなかった。私は所詮人の子であり、各地を探し回ったが何も得ることが出来ていない。天地の神が私に同情することを願う」と言った。半日あまり泣きわめいていたが、その時突然「止めなさい。泣くのを止めなさい」と人の声らしきものが聞こえた。劉殷は泣くのを止めてあたりを窺うと、すぐに菫が生えているのが見えた。劉殷はこれを摘んでから帰宅し、王氏へ供した。その菫は奇妙であり、食べても食べても減っているように見えなかったという。
  • 劉殷はかつて夜に夢を見た。ある人が彼に「西の籬(竹や木などで出来た低く目のあらい垣)には、穀物があるぞ」と言った。目が覚めた後、劉殷は堀りに行き、15時間かけて大量の穀物を得た。上面には銘文が書かれており、「100石の穀物7年分を、孝子である劉殷に与えましょう」とあった。その時より穀物を食べ始め、7年かけてようやく食べ終わった。当時の人は、神霊と感応できる彼の資質を褒めたたえた。そして、先を争って劉殷へ米や穀物・絹糸を捧げた。劉殷はそれを全て受け取り、礼を述べなかった。ただ、富貴を得た後に必ずこれに報いなくてはならないな、と呟いた。

参考文献編集

  • 晋書』巻101・載記第1
  • 『晋書』巻102・載記第2
  • 資治通鑑』巻86 巻87 巻88