劉 鼎(りゆう てい、大定22年(1182年) - 太宗4年1月29日1232年2月21日))は、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。字は漢宝。済南府章丘県の出身。

元史』には立伝されていないが『雪楼集』巻19彭城郡献穆侯劉府君神道碑銘にその事蹟が記され、『新元史』には彭城郡献穆侯劉府君神道碑銘を元にした列伝が記されている。

概要 編集

「彭城郡献穆侯劉府君神道碑銘」によると、劉鼎は美しい鬚髯と鐘のような声、博覧強記で知られた人物であった[1]

金末、モンゴルの侵攻によって華北が荒廃すると、劉鼎は祖父が明昌年間の飢饉や泰和年間の大雪の際に食糧を分け与えて民を救ったことを想起し、私財を投じて人々の餓えを救った。また、金朝の行政機構に伴って盗賊が多発しており、これを防ぐために郷里の壮士50人を従え自衛するようになった[2]

ある時、とある盗賊は歴城を拠点としたため、郡邑も手出しができず民は苦しめられた。そこで劉鼎は僅か数人を連れて城壁を登り盗賊を説得したところ、劉鼎の大胆さを恐れた盗賊は降り、この功績によって劉鼎は忠顕校尉・歴城令の地位を授けられた。また、地元の豪民が遥墻濼と呼ばれる大沢を拠点に悪事をなすと、劉鼎は再び単身遥墻濼を訪れ、相手が油断したところで事前に伏せておいた配下の者に首領の李を捕らえさせたという[3]

モンゴルによって金朝が滅ぼされると、旧金朝領華北はモンゴルの諸王・功臣に投下領として分配されたが(丙申年分撥)、実際の統治は漢人世侯と呼ばれる軍閥が担っていた。済南を拠点とする世侯の張栄は劉鼎の事を知るとこれを招き、広武将軍・益都総判・兼安撫済南淄徳軍民勧農使・行左右司郎中事の地位を授けられた[4]

ある時益都を拠点とする軍閥の李全が3道に分かれて済南を攻めようとすると、張栄は激怒してこれを正面から撃退しようとした。この頃病を患っていた劉鼎は兵力差から正面から戦えば勝ち目はないと諭し、また老夫を張栄と偽り李全に使者を派遣することで油断を誘い、果たして李全はこれにより出兵を控えた[5]

それから間もなく、1232年(壬辰)正月29日に51歳にして亡くなった[6]。劉景石という息子がおり、更にその息子の劉敏中大元ウルスに仕えて著名となった。

脚注 編集

  1. ^ 『雪楼集』巻19彭城郡献穆侯劉府君神道碑銘,「公諱鼎、字漢宝、姓劉氏。済南章丘人。美鬚髯、有器度、語音如鐘、博聞強記、不事挙子業、臨機制変才智捷出、時人方之管楽云。公生有異質、方歳許、母欲立之地弗下席焉、乃下再試復然、人亦奇之。年十五、父当之官、顧公曰『汝了家事否』、公対曰『第去勿憂也』。及父代帰貲産倍去、時郷人為之語曰『劉五郎可謂男児、十五奪父志矣』」
  2. ^ 『雪楼集』巻19彭城郡献穆侯劉府君神道碑銘,「金季喪乱、民多失業、公慨然曰『明昌初歳大旱、吾大父発廩以済民。泰和間、自冬至春大雪、吾父日為粥于門、以食過者。祖父遺我、以厚吾可独薄乎、且緩急人之所常有也、坐而視之、仁者不為』。乃推財発廩賑乏食饑、遠近疎戚皆頼焉。已而寇盗四起、骨肉不相保、有壮士五十人来従。公願為守衛問之、乃嘗所賙恤者、故終喪乱之世家無一日之憂者、五十人力也」
  3. ^ 『雪楼集』巻19彭城郡献穆侯劉府君神道碑銘,「頃有盗柵歴城、南山中為民患、郡邑不能制。公独従一二人、直登其柵、喩以福禍、賊歓従公降、以功授忠顕校尉・歴城令。境有大沢、号遥墻濼、豪民李拠其地為姦、徴令不行。公一日往濼中、伏壮士道傍、以一老蹩者自随至其門。門者識公趨入、公随以入、李方袒跣臥堂上、使一女子扇見、公愕然。公徐曰『適以公事過此、故来相訪』。李喜起迎労命酒、酒飲設食、食尽極歓而罷、握手以出語、且行公屡顧示将密語者、李麾左右去復行至前、伏起執之以帰、杖殺之」
  4. ^ 『雪楼集』巻19彭城郡献穆侯劉府君神道碑銘,「金之亡、諸侯分制各郡、済南張侯聞公賢、召以自佐及帰国朝。侯行省山東、公授広武将軍・益都総判・兼安撫済南淄徳軍民勧農使・行左右司郎中事。時庶務草創、翕張施置、一以倚公泛応曲当動為成式」
  5. ^ 『雪楼集』巻19彭城郡献穆侯劉府君神道碑銘,「益都李全聴讒、分三道挙兵攻済南、侯大怒、謀悉師拒之。公方久疾、曰『彼衆我寡、将若何扶憊入見』。侯曰『侯毋怒、侯第入、老夫為侯却之』。公立遣四使、致書李全及其三帥、三帥得書勒兵待命。全発書、撫掌大笑曰『我固言之矣、此老在何益』。趣罷兵、脩好如故」
  6. ^ 『雪楼集』巻19彭城郡献穆侯劉府君神道碑銘,「壬辰正月二十九日、以疾卒、春秋五十一」

参考文献 編集