(ちから)は、大日本帝国海軍練習用滑空機(軍用グライダー)。機体製造は日本小型飛行機(日本小型)による。日本小型社内では「K-12」とも呼ばれた。

経緯 編集

十六試特殊輸送機(MXY5)の乗員訓練を目的として海軍航空技術廠(空技廠)が計画した機体。試作は1941年昭和16年)9月に日本小型に命じられ、機体の設計は同社の宮原旭技師が担当している。試作機は3機が1941年11月中旬に完成し、霞ヶ浦飛行場で研究審査を受け良好な成績を見せた。なお、「力」という名称は日本小型側によって開発中に命名されたもので、当初は仮称だったがのちに正式なものとして扱われるようになっている。

MXY5が試作のみに終わったため、力も一時生産中止になりかけたが、MXY5の代わりに運用されることになった四式特殊輸送機用の練習機として富士滑空機などで約5機が生産され、霞ヶ浦海軍航空隊の石岡分遣隊(のち同第3飛行隊)で運用された。また、これとは別に日本小型でも秋水の乗員訓練用として生産が開始されたが、太平洋戦争の終戦を受けて3機が完成した時点で生産は打ち切られた。

また、桜花の乗員用の練習機として、力に小型火薬ロケットエンジンを搭載した練習用特攻機若桜」も試作されたが、生産は行われずに終戦を迎えている。なお、若桜自体が爆装して特攻に用いられる予定だったとする説もある[1]

設計 編集

力は特に高速度曳航訓練を重視するとともに、無制限曲技飛行が可能な機体となっており、また、当時の無制限曲技機としては珍しくタンデム複座の操縦席を採用している。機体構造は木製骨組みに合板整形羽布張りで、飛行特性をMXY5のものに近づけるため、主翼の翼断面型アスペクト比がMXY5に近似したものになっているほか、曲技飛行のためのカンバーチェンジ・フラップを主翼に装備している。また、操縦席周辺の機首部の構造を堅牢にする反面、胴体後部には不時着時に破壊されることを前提とした「当然破壊箇所」が設けられている。降着装置は半埋め込み式の単車輪と鼻橇。曳航機には九三式中間練習機九七式艦上攻撃機が用いられており、九七式艦攻を用いた場合は1機で力2機の曳航が可能だった。

諸元 編集

  • 全長:8.8 m
  • 全幅:11.25 m
  • 翼面積:18.0 m2
  • 自重:326 kg
  • 全備重量:516 kg
  • 最良滑空速度:100 km/h
  • 乗員:2名

脚注 編集

  1. ^ 『日本陸海軍試作/計画機 1924〜45』 193頁。

参考文献 編集

  • 佐藤博『日本グライダー史』海鳥社、1999年、101,227頁。ISBN 978-4874152720 
  • 野沢正『日本航空機辞典 明治43年〜昭和20年』モデルアート、1989年、263頁。 
  • 航空遺産継承基金 平成19年11月活動記録 - 日本航空協会公式サイト、2007年11月。
  • 秋本実「日本の軍用滑空機 その3」『航空ファン』第42巻第3号(1993年3月号)、文林堂、1993年3月、164頁。 
  • 野原茂『日本陸海軍試作/計画機 1924〜45』グリーンアロー出版社、1999年、193頁。ISBN 978-4-7663-3292-6