加納久周
加納 久周(かのう ひさのり)は、江戸時代後期の大名。伊勢八田藩第3代藩主。上総一宮藩加納家3代。伏見奉行などを務めた。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 宝暦元年(1751年) |
死没 | 文化8年6月2日(1811年7月21日) |
改名 | 久弥(幼名)、久周 |
官位 | 従五位下・備中国守、遠江守 |
幕府 |
江戸幕府 大番頭、側衆、若年寄並、 伏見奉行 |
藩 | 伊勢国八田藩主 |
氏族 | 大岡氏→加納氏 |
父母 | 父:大岡忠光、養父:加納久堅 |
兄弟 |
大岡忠喜、久周、巨勢至方、 長君(牧野忠寛室)、女子(横田以松室) |
妻 | 禎(加納久堅の養女、松平信礼の娘) |
子 |
久慎、有馬久保、大岡忠正、 本多忠和(四男)、大岡忠固、 延姫(松平信順継室)、娘(稲葉正武継室) |
経歴
編集宝暦元年(1751年)、上総勝浦藩主・大岡忠光[1]の次男として生まれる。幼名は久弥と称した。
明和9年(1772年)伊勢八田藩第2代藩主・加納久堅の実子・久致が夭折したため、久堅の養女(松平信礼の娘)を娶り、久堅の養子として迎えられて加納久周と名乗る。同年、第10代将軍徳川家治に拝謁し、従五位下・備中守に叙任された。
天明6年(1786年)、久堅が死去したため家督を相続し、第3代藩主となる。陸奥白河藩主松平定信の信任が厚く、翌年に定信が老中首座となると、側衆となって定信を補佐して寛政の改革の推進に貢献した。
同年、大番頭を兼務し、遠江守に転任となり、寛政5年(1793年)、若年寄並に異動となる。3年後の寛政8年(1796年)、改革の功により、上野国の新田郡と佐位郡の両郡に3000石を加増され、石高は1万3000石を知行した。
翌寛政9年(1797年)、若年寄並を辞す。寛政12年12月28日(1800年)、伏見奉行に就任。文化4年(1807年)、伏見奉行を辞す。翌文化5年(1808年)、嫡男の久慎に家督を譲り、隠居した。その3年後、文化8年(1811年)に死去。享年59。
年表
編集系譜
編集父母
正室
子女