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概要編集

昭和史の起点となった五・一五事件から二・二六事件までの風雲急を告げる時を背景に、寡黙な青年将校とその妻の生きざまと愛を描く[3][4]。脚本は『英霊たちの応援歌 最後の早慶戦』の山田信夫、監督は『聖職の碑』の森谷司郎、撮影は『天使の欲望』の仲沢半次郎がそれぞれ担当[5]

あらすじ編集

キャスト編集

スタッフ編集

製作編集

企画編集

企画は現在の東映会長で、当時フリーのプロデューサーだった岡田裕介[6]。ただ本作で岡田裕介と共にプロデューサーを務めた坂上順は「『動乱』は岡田茂社長自らの企画」と述べている[7]。岡田裕介の東映での初プロデュース作は、1978年の『宇宙からのメッセージ』だが[8]、『宇宙からのメッセージ』は途中からの参加であるため[9]、自身が1から企画した作品としては本作が東映での初プロデュース作[8][9]。『宇宙からのメッセージ』に参加する少し前に、父親の岡田茂東映社長から「東映もブロックブッキングを考えないといけないので、東映イメージに囚われないでいいから何か企画を考えろといわれた」と話している[9][10]。岡田は、父親の標榜する「"不良性感度"は得意でないし、自分は東宝青春映画育ちでもあるし、デヴィッド・リーン作品に最も影響を受けていて、大作志向で10年に1本自分が作りたい映画を製作したい。それなら従来の東映カラーを破るものとして、生と死と愛、大きなドラマと取り組みたい」と考えた[6][9]。恩師でもある森谷司郎と飲み、「自身が一番こだわりのある二・二六事件を題材に映画を作りたい」という話をした[10][11]。女性がたくさん登場する原作を探し[12]澤地久枝原作の『妻たちの二・二六事件』(1972年)の映画化を最初に考えた[9][10][12]。『妻たちの二・二六事件』は群像のドキュメントで、決起した青年将校らの妻たちを作家が訪ね歩き、その肉声を記録したもの[13]。しかし、その人たちの多くは当時存命であったため、肖像権プライバシーその他の問題でご破算になった[10][13]。出演者の中には、この『妻たちの二・二六事件』原作なら、と出演を承諾した者もいたといわれる[14]

このため二・二六事件を題材に脚本を書いて欲しいと山田信夫に依頼[10]。「舞台は昭和初期であっても、現代の青春映画。時代背景として大きな事件を借りたが、狙いはリアリティのある女性もの」として企画した[10]プロットとして「現代は人々の生きざまが非常に多様になっているが、究極のテーマとしては、生きる、死ぬ、女を愛す、男を愛す、そういう感情以外にはない」その感情を象徴する日本人の一つのパターンとして、二・二六事件に絡むひと組の男女を選び、それを演じる役者として、お客さんに信用のある高倉健吉永小百合を絞り込んだ[9][15]。岡田は昔から高倉と吉永の大ファンでもあり、企画として考えた時、二・二六事件の暗い素材を考えると、二人の初共演という組み合わせでないと描き切れないと思い、二人が出演OKしなければ、企画は流すつもりでいた[9][10]。先に吉永に出演OKをもらったが[10][16]、「高倉さんが駄目と言ったら企画は流します」と吉永に伝えた[17]。森谷にも企画が成立したら監督を引き受けると了解も取り[10]、山田にも「高倉健・吉永小百合をイメージして脚本を書いて下さい。二人のピンチヒッターは考えていません」と伝えた[10]。しかし当時の高倉は1977年の『八甲田山』『幸福の黄色いハンカチ』の各映画賞の独占で、テレビドラマも含め、映画各社"高倉もの"という企画が目白押しで、出演オファーが殺到していた状態[11][18][19]。また高倉は『八甲田山』の撮影を終えたばかりで、「こういう悲劇的な作品に続けて出るのは気が進まない。死ぬのはつらい」などと言われ[12]、高倉がなかなかOKしてくれず、何度も足を運び、実現するまで二年待った[17][20]。自分が断われば、企画が流れるとあって根負けし出演を承諾した[12]

脚本編集

『妻たちの二・二六事件』は使えず[13]山田信夫のオリジナル脚本となった[9]。登場人物は大半が架空の人物[11]。設定その他、フィクション部分も多い[11][21]。とはいえ、『妻たちの二・二六事件』に書かれたエピソードも使用されており[14]、高倉健演じる宮城啓介と吉永小百合演じる溝口薫の下敷きになったのは磯部浅一、登美子夫妻と見られる[14]

キャスティング編集

高倉健は前述のように出演オファーが殺到する状況であったが[18]、「ちょうど男と女の話にグンとウエイトがかかっているものをやってみたい」と思っていたこともあり[21]、吉永小百合との初共演ということもありで本作の出演を決めた[21]。高倉のギャラは日本映画では当時の最高額といわれた2500万円[22][注 1]。8ヵ月に及ぶ長期間の撮影ということもあり高額になった[22]。とかくゼニカネにシビアといわれ[22][23]、契約交渉のたびに揉めていた[22]高倉の長年のギャラ闘争が実った形となった[22]

吉永小百合は脚本を読み、「以前からやりたかったイメージの役」と出演オファーを受けた[24][25]。吉永は東映初出演「東映撮影所はヤクザ映画イメージが強くてコワそう」とビビっていたが[25]、スタッフともすっかり溶け合い、以降、東映付いた[24]。吉永のギャラは50日間の撮影にも関わらず、600万円[22]、吉永は自分の気に入った役柄以外はお断りと表明していたため[22]、人気のわりにギャラは安かった[22]。また当時の映画会社には「主役が女優では客が来ない」という考えがあり[22]、男優に比べて女優は全体的にギャラは安かった[22]。しかし女優は男優よりテレビドラマやが多かったため[22]、人気女優になれば、収入はあまり男優と変わらなかった[22]

ナレーター佐藤慶は岡田裕介プロデューサーのキャスティング[26]。佐藤は初めてナレーターを務めた[26]

主題歌編集

主題歌を担当した小椋佳は、小椋のファーストアルバム『青春~砂漠の少年』で、岡田裕介が語りとジャケット写真を担当してからの縁[27]

製作記者会見編集

1979年3月5日、赤坂プリンスホテルグリーンホールで製作発表記者会見が行われた[28]。高倉健、吉永小百合、森谷司郎監督、岡田茂東映社長、福島シナノ企画代表取締役、岡田裕介プロデューサー、多賀英典音楽プロデューサー等が出席[28]。 

提携編集

会見で岡田裕介プロデューサーは、提携シナノ企画を意識して「良心的な作品にしたい」と話した[28]。岡田茂東映社長は「東映はヤクザな会社だと思われていたらしいが今度やっと提携してもらえた」と声を弾ませた[28]。シナノ企画の観客動員力は実証ずみ[14][28][29]。岡田茂は「最高の動員体制を敷ける作品になる」と話した[30]。岡田は1973年東宝創価学会と提携して『人間革命』を製作して大ヒットさせた[14][31][32]ことに驚き[33]、これを"公明党方式"と名付け[34]前売り券を組織にまとめ買いさせる商法を積極的に推進していった[33][35][36]。このビジネスモデルは今日の東映作品にも引き継がれている[36]深作欣二が岡田に『柳生一族の陰謀』(1978年)の企画を持ち込んだとき[37]、「主役は萬屋錦之介でいける。何よりあそこは後援会がしっかりしてる」と即断し[37]、まだ前売り券を大量に捌く手法が確立されていない時代に「萬屋の後援会が引き受けてくれたら、勝負はもらった」と閃いたことが「会社のトップとして大したもの」と深作を感心させた[37]。岡田は『柳生一族の陰謀』の成功で、大作路線に舵をきった[38][39]。岡田は1979年1月の『映画ジャーナル』のインタビューで「映画界はこれから配給中心に回る。製作意欲のあるプロデューサー、それが企業内であろうと社外の独立プロデューサーであろうと配給・宣伝が組んで興行力のある作品を作ってゆくユナイト方式になる」と述べている[40]。高倉健・吉永小百合の初共演で、最初から興行的レベルが高かったが[41]、シナノ企画との提携を得られ、公開前から興行保障を実現させた[14][28]

製作費編集

直接製作費[注 2]2億8000万円[42]、間接製作費2億5000万円で[注 3]、計5億3000万円[42]。宣伝費は含まれない[42]。約9億円と書かれた文献もある[28]。岡田裕介は10億円と話している[9]。 

撮影編集

撮影は1979年2月から断続的に10月までの約8ヵ月[21][43]。主たる撮影は6月中に終わり、同じ高倉が主演する松竹山田洋次監督『遙かなる山の呼び声』が北海道で、1979年6月初旬にクランクイン[20][21]、以降、秋、冬とあり、夏と秋に少し撮影が重なる時期があった[21][44]。両作とも、四季を通じての撮影で、季節の変化をきっちり捉えて、撮影期間をたっぷり取り、製作費も充分に継ぎ込んだ[16][44][45]。吉永も一年かけて映画を撮るのは初体験で[16]、四季を追うため、何度か休みがあり、気持ちを引っ張っていくのが難しかったと述べている[46]。二・二六事件を扱うため、冗談を言いながらワイワイガヤガヤ作っていく性質の映画でなく、高倉も撮影は相当しんどかったと話した[20]。森谷監督も並行して『漂流』の準備を行った[47]

ロケ記録編集

1979年2月北海道[24][48]。1979年3月、吉永が参加し、北海道サロベツ原野ロケ[49][50][51][52]気温氷点下8℃。ここで吉永が自殺を謀るが果たせず、みせしめのため処刑されるシーンの撮影が行われた[50][52][53]。吉永は長襦袢一枚を纏い、4時間ロープで木に吊るされ、仮死寸前だったといわれたが[50]、このシーンはカットされた[52]。北海道は他に旧旭川偕行社[54]豊富温泉などでロケ[48]。その後北海道で雪のシーンを撮り、1979年4月半ばから5月下旬か6月まで東映東京撮影所でセット撮影[52]。朝鮮国境守備隊や朝鮮料亭で高倉と吉永が再会するシーンなど[52]。5月下旬、桜田淳子が撮影に加わりセットのムードが華やかになる[52]。夏、静岡県大井川鐵道浜岡砂丘でロケ[52]SL列車が走る大井川鐵道新金谷駅山陰本線八木駅に見立てて撮影[52]。線路脇に見物人が押しかける。静岡ロケの後、東京撮影所でセット撮影に戻る[52]。1979年10月、東北ロケ[16]。第二部の冒頭シーン[55]。シナリオでは東京近郊だったが「日本ならではの美しい秋の絵をいくつか重ねて主人公が登場する。抜けるような空と、燃えるような紅葉が必要」とする森谷監督の意向[55]。当初十和田湖半を予定していたが、狙い通りの紅葉がなく、八幡平赤川温泉に変更された[52]。俳優参加の撮影は10月半ばでクランクアップ[21][52]。その後撮影隊は千葉県の海岸に向かい実景撮影。

興行編集

トラック野郎シリーズ」第10弾『トラック野郎・故郷特急便』の成績があまりよくなく[56][57]、4日早めて公開を繰り上げた[56][57]

作品の評価編集

興行成績編集

配給収入9億5000万円[1]。1980年配給収入ベストテン10位。

後の作品への影響編集

吉永小百合は日活の看板女優として活躍後、松竹東宝に出演していたが、日活のイメージがあり、監督の森谷司郎も東宝イメージのため[58]、日本映画の大作化で会社のカラーを無くしたハシリの映画でもあった[58]。また角川映画の影響が大きいが、1970年代の後半から岡田茂社長が「外部を起用しろ」と強い指示を出したため[58]、東映は本作も含め、1978年の『宇宙からのメッセージ』以降、宣伝も外部発注するようになり、増々会社のカラーは失われた[58]

吉永は本作で映画は約90本を重ね、継続して人気を保ってきたが、自分では「22歳から35歳くらいまでは何をやってもダメで、ずっとしんどかった」と話している[51][59]。本作の森谷監督と高倉が24時間映画の話しかしない事にビックリ。「こういう人たちがまだ映画界に残ってたのか」と二人の映画に賭ける情熱に感銘を受け、「もう一度、心を込めて一つずつ、映画をきちっとやってみようという気になった」と話している[12][51][60]

高倉は本作以降、1999年公開の『鉄道員(ぽっぽや)』まで、19年の間、東映映画に出演しなかった[61]

批評家レビュー編集

  • 東映は本作公開と同じ1980年の夏、『二百三高地』を公開し、1982年に『大日本帝国』と『FUTURE WAR 198X年』を公開、戦争映画右傾化が大きな問題になった[62]山田和夫は、右傾化戦争映画の始まりとして『動乱』を挙げ、「戦争映画といえないかも知れませんが『動乱』は高倉健、吉永小百合という人気スターを主役にして、戦争に向かう日本の歴史というものを大きく歪めた映画として登場してきました。つまり、日本全体を侵略戦争に突っ走らせようとした軍国主義者ファシストの行動を美化し、愛国者であるかのごとく描いたわけです。それはその年屈指の大作として作られ、愛のドラマとして大宣伝されました。そのため、従来その手の軍隊ものとか戦争映画には寄り付かなかった若い女性層も集めることに成功しました。『動乱』は若い世代の人たちが現代史についての知識に乏しく、学校でもほとんど教えられていない現状に付け込み、誤った歴史の見方を持ち込んできたのです。作り方、宣伝の仕方、歴史の知らない若い年齢層をターゲットにしていることなど、色々な意味で『動乱』はその後の流れを典型的に打ち出した最初の作品といえます」などと論じている[62]
  • 藤原彰は、「『動乱』は映画の中で戦争を美化し、歴史を偽造しようとすることが本格的にすすめられるようになった最初の映画だと思います。しかもそのやり方は、かつての新東宝のような剥き出しの軍国調ではなく、もっと巧妙です。一見したところ、戦争に疑問を投げかける言辞が出てきたり、悲惨な面にも目を向けたりしながら、戦争を知らない若い人たちの情感に働きかけるという手の込んだやり方をやっています。『動乱』は基本的な問題で大きな歴史の偽造をしています。何よりも反動的なクーデターであった二・二六事件が美化されています。映画では社会の不正を憤った青年将校たちが、貧しい農民の救済のために起き上がったという描き方をしていますが、しかし事件に参加した多くは、将軍の息子たちで、その他の人も軍内のエリートです。農民とは誰も関係がありません。実際は戦争準備の不十分さに苛立った軍人の立場から、より積極的に侵略戦争を進めていこうとする焦りの現れた右翼クーデターです。そういう事件を、まるで純情な青年将校の正義の決起のように描くのは基本的に間違っています。澤地久枝さんの『妻たちの二・二六事件』にも書かれていますが、青年将校たちは蜂起する一週間前に結婚した人や、事件の直前に結婚した人が多いんです。そういう一人の女性の運命を狂わせることに人間的な考慮を払わない、女性に対して優越感、蔑視感を持つ大変思い上がった人間を悲しい愛の物語に仕立て上げ、国家が軍備拡張に熱心でないと批判する青年将校たちの行動を美化して見せる映画です」などと論じてい[63]
  • 増当竜也は「森谷の演出は熟練のスタッフたちの手助けもあって、技術的には申し分ないが、ポイントの定まらない脚本が全てを決定した」などと評している[64]
  • 山根貞男は、「錯誤極まりない。クライマックスの二・二六事件の描写がまるでなっていない。二・二六事件の具体的推移など、さっぱり分からない。いや、これは二・二六事件映画ではなく、男と女の愛を描く映画だと作者はいうかもしれない。だが、そのとき、メロドラマたることが隠れ蓑になってはしないか。ちゃんとしたメロドラマ映画であるためには、それの背景たる激動の時代、二・二六事件などの推移を描き出すべきではなかったか。実際、この映画はメロドラマとしても面白くない」などと評している[65]
  • 白井佳夫は、「『冬の華』『幸福の黄色いハンカチ』といった映画の高倉健は、シナリオが彼の寡黙な個性を上手く引き出すように書かれ、監督が彼の一種無骨な役者としての個性を魅力的に生かすような工夫を凝らしていたので、とてもユニークな人間味をスクリーンから発散させた。しかし、この人はしどころのない役で、スクリーンの中に登場させてしまうと、小細工の芝居の似合わぬ人なので、そのおおらかで素朴な個性が、まったく生きてこなくなってしまうことになる。二・二六事件という時代背景を描くドラマの構成が、何とも時代遅れの古めかしいパターンで一貫されていて、辟易させられてしまう上に、男と女の愛が、これまた現代の目で見ると絵空事にしか見えない、大時代なロマンチシズムで空転してしまっているので、健さんの魅力というものは、いっこうにスクリーンにクローズアップされてこないのである。工夫も細工もないシナリオと演出にのって高倉健と吉永小百合が呼吸を合わせて芝居に一生懸命になればなるほど、ただでさえ一本調子の作品のテンポが、さらにスローにペースダウンしてしまう。テレビドラマや外国映画の速いテンポやリズムになれた日本の観客たちは、このスローなテンポには、イライラしてしまうのではないだろうか。スリルもサスペンスも出てこない、いささか困った超大作で、正直に書くと、'80年の日本映画ワースト10にでも入りそうな映画である。大衆娯楽作りにおいて日本の映画会社の中で一頭地を抜いていた東映は、いまやどうなっているのだろう?という思いがしてくるのは、私だけではないはずである。ご同業映画評論家諸氏の中には、危機にある東映映画の同情心からか、『動乱』を絶賛なさった方もおられるが、そんな同情は東映のためにならない」などと評している[56]

逸話編集

  • 高倉と吉永、森谷監督は本作の後、しばらくして一緒に東宝の『海峡』の撮影に入った[46]。『海峡』の撮影が本作同様一年近くあり、合計二年一緒にいた。高倉は監督とは食事をしない主義で[46]、スタッフ全員で食事することもなく、吉永は高倉と二年の間、食事を共にした[46]。何故一緒に食事をしないのか、高倉に質問もしがたい感じで聞くことは出来なかったと吉永は話している。高倉はワインをグラス一杯だけは飲むが[46]、それ以上は飲まないため[46]、お酒が大好きな吉永は、自分だけ飲むわけにいかず、「健さんとの食事は非常に辛かった」と述べている[46]。高倉の出演作の助監督を本作も含め、何10本も務めた澤井信一郎は「健さんはまったく酒を飲まない」と話しており[66]、「高倉健は一滴の酒も飲めない」と書かれている文献もあるため[67]、それでも吉永に気を使ってワイン一杯を飲んだのかもしれない。
  • 撮影中のある昼休み、キャストやスタッフはロケバスに駆け込んで昼食をとっている中、厳しい寒さの原野に立ったまま食事をする高倉を吉永は最初理解できず心配したが、同じ日の夜、昼と違って高倉がスタッフと話しているのを見て、彼は陸軍将校になりきるために外でぽつんと立っていたのだと気付き、役者としての強い姿勢に圧倒されたと語っている[68]
  • 二・二六事件関係者がまだまだ存命であった時代であり、それら家族からの苦情により多くのカットが生じた[68]

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 三船敏郎外国映画に出ると3000万円以上とされた[22]
  2. ^ 企画から撮影、編集までの費用[42]
  3. ^ 撮影所など製作部門の人件費[42]。『動乱』は製作日数が約8ヵ月と長期にわたったため多くかかった[42]

出典編集

  1. ^ a b 1980年配給収入10億円以上番組 - 日本映画製作者連盟
  2. ^ 「TVお茶の間映画館 『動乱』 フジテレビ2月23日放送」『映画情報』、国際情報社、1985年5月号、 65頁。
  3. ^ クロニクル東映 1992, p. 294.
  4. ^ 東映の軌跡 2016, p. 286.
  5. ^ 動乱”. Movie Walker. 2013年6月17日閲覧。
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  7. ^ “出会いに導かれた活動屋(7) 映画プロデューサー坂上順氏(仕事人秘録)”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 19. (2012年11月13日) 
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  12. ^ a b c d e クロニクル東映 1992, pp. 296–297.
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  14. ^ a b c d e f 山田和夫「映画『動乱』は何を描いたか 理性抜きの"純粋さ"のゆきつくところ」『文化評論』、新日本出版社、1980年3月号、 162-168頁。
  15. ^ コラム|吉永・高倉共演2本の映画 | 合同通信オンライン
  16. ^ a b c d 27日 私の10本 吉永小百合10 | 朝日新聞ASAの伸光堂西部販売
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  58. ^ a b c d 山田宏一・山根貞男「関根忠郎 噫(ああ)、映画惹句術 第四十八回」『キネマ旬報』、キネマ旬報社、1983年12月下旬号、 128-129頁。
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  62. ^ a b 山田和夫「右傾化戦争映画を斬る 支配階級の危機打開策に身をすり寄せる映画資本の産物傾化戦争映画の特徴」『シネ・フロント Vol.77』、シネ・フロント社、1982年11月号、 44-48頁。
  63. ^ 藤原彰「右傾化戦争映画を斬る どんなことがあっても〈侵略戦争〉だけは認めない支配層」『シネ・フロント Vol.77』、シネ・フロント社、1982年11月号、 54-58頁。
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参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集