北京人民芸術劇院(ペキンじんみんげいじゅつげきいん)は、中国(中華人民共和国)の劇団。略称は、北京人芸もしくは人芸[1]

北京人民芸術劇院
拠点の一つ・首都劇場中国語版
各種表記
繁体字 北京人民藝術劇院
簡体字 北京人民艺术剧院
拼音 Běijīng Rénmín Yìshù Jùyuàn
英文 Beijing People's Art Theatre
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同国の話劇(日本の新劇に該当)界を代表する劇団である。

概要・略歴 編集

北京市政府所属。本拠地は北京市王府井。4つの劇場(首都劇場中国語版・北京人芸小劇場(閉鎖)・北京人芸実験劇場中国語版菊隠劇場中国語版)を有する。

1950年1月に北京人民芸術劇院が李伯釗を院長に創立された。1951年2月、北京の不潔などぶの埋め立て、改造を通して新旧北京の変化を描いた老舎『龍鬚溝』を上演、焦菊隠の演出もあり大成功を博する。しかし、この時の北京人芸は歌舞、音楽なども含む総合芸術団体だった。1952年5月に話劇劇団に特化した北京人民芸術劇院に改組される。今日、北京人芸は1952年を創立の年としている。改組後の初代劇院長は劇作家曹禺で、1996年の逝去まで院長を務めた。

1950年代より、曹禺『雷雨』(夏淳演出、1954年)、老舎『茶館』(焦菊隠演出、1958年)、郭沫若『虎符』(焦菊隠演出、1957年)『蔡文姫』(焦菊隠演出、1962年)などを上演する。焦菊隠演出による『茶館』『蔡文姫』は話劇民族化の模範とされ、今日まで上演され続けている。

1966年からの文化大革命中は、北京話劇団と改称させられる。

1978年北京人民芸術劇院の名称が復活、復活第一作として『蔡文姫』を復活上演、1979年には『茶館』『雷雨』を復活上演する。これらの舞台は、文革以前の俳優チームが分散しなかったこと、俳優たちが円熟期を迎えていたこともあり、大きな成功を収める。特に『茶館』は欧州(1981年)、日本(1983年)でも公演が行われてやはり大成功した。来日は中国好きの杉村春子民音の尽力によるもの[2]。また、蘇叔陽『丹心譜』(1978年)、魏敏他『紅白喜事』(1984年)、錦雲『犬だんなの涅槃』(1986年)、何冀平『天下第一楼』(1988年)など新作も話題を呼ぶ。アーサー・ミラーセールスマンの死』(1983年)など翻訳劇も高い評価を受けた。こうして北京人芸は中国を代表する話劇(現代劇)劇団との名声を確立する。その特色は、個性をもった人物像の創造と北京の地方色に満ちた舞台とされる。

一方、高行健劇作、林兆華演出で上演した『絶対信号』(1982年)『バス停』(1983年)『野人』(1985年)は、中国における小劇場演劇、実験演劇の先頭を切るものとなった。1980年代のこれらの作品は、中国演劇史のうえで極めて重要な位置を占めている。

1990年代以降も、過士行『鳥人』(1993年)、錦雲『阮玲玉』(1994年)、過士行『魚人』(1997年)などのヒット作をとばす。1998年後半から首都劇場改装のため約一年間休演した後、1999年10月林兆華の新演出による老舎『茶館』で活動を再開した。

21世紀の現在も、『雷雨』『茶館』『蔡文姫』『天下第一楼』など名作を繰り返し上演すると共に、新作上演にも意欲的に取り組み、1980年代以来の中国を代表する話劇劇団という名声を維持している。2020年現在、院長は演出家の任鳴。

主な上演作品 編集

主な劇作家 編集

主な演出家 編集

主な所属・出身俳優 編集

関連項目 編集

参考文献 編集

脚注 編集

  1. ^ 中国には上海人芸や天津人芸など「人民芸術劇院」の名称を持つ劇団が複数存在するが、通常「人芸」とだけ記された場合は北京人芸を指す。
  2. ^ 嶋田親一 (2013年12月4日). “History of MIN-ON vol.4 民音の誕生~日本の音楽界に、新しい風が吹いた~”. 民主音楽協会. 2022年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月15日閲覧。

外部リンク 編集