北村久寿雄

日本の水泳選手(1917−1996)
北村久寿男から転送)

北村 久寿雄(きたむら くすお、1917年大正6年)10月9日 - 1996年平成8年)6月6日)は、日本水泳選手、労働官僚1932年ロサンゼルスオリンピックの1500m自由形金メダリスト。1952年ヘルシンキオリンピック競泳日本代表の北村康雄は実弟[1]

北村 久寿雄
1948年
選手情報
フルネーム きたむら くすお
国籍 日本の旗 日本
泳法 自由形
生年月日 (1917-10-09) 1917年10月9日
生誕地 高知県高知市菜園場町
没年月日 (1996-06-06) 1996年6月6日(78歳没)
獲得メダル
オリンピックの競泳競技
1932 1500m自由形
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1932年

人物 編集

出身地は高知市菜園場町(はりまや橋の東)。指導にあたったのは溝渕治助だった。練習には板垣退助坂本龍馬も泳いだという鏡川を流れに逆らって泳ぐ方法を採用した。

1932年昭和7年)、旧制高知市立高知商業学校3年生のときに開催された第10回のロサンゼルスオリンピック水泳1500m自由形でそれまでのオリンピック記録を40秒近く縮める19分12秒4のタイムでわずか14歳290日で金メダルを獲得[2]、これは1988年ソウルオリンピックハンガリークリスティーナ・エゲルセギ(当時14歳1か月9日)に破られるまで競泳世界最年少金メダリストであった[3]

オリンピック後、1年間浪人して旧制第三高等学校に進学する。ここで競泳からは退いた[4]

その後東京帝国大学を卒業して労働省に入省、太平洋戦争では陸軍中尉としてビルマ戦線に従軍しシッタン川渡河作戦における河川の地形偵察や将兵に対する水泳指導に活躍した[5]。軍隊から復員した後は公労委事務局長、国際労働機関(ILO)日本政府代表部一等書記官[6]などを務めた。また第3回アジア競技大会競泳日本代表監督[7]日本水泳連盟常務理事も歴任している。

1984年当時は住友セメント顧問を務め、同年に発足したマスターズ水泳協会の初代会長にも就任した[4]

また1936年には、優勝を記念して高知県初の50mとなる高知市営プールが建設された。プールそのものは高知市総合体育館への建て替えにより現存しないが、総合体育館建設以前に存在していた高知市営体育館には北村久寿雄の足跡(資料)が展示されていた。

脚注 編集

  1. ^ 日本水泳連盟『水連四十年史』1969年、186頁
  2. ^ “東京五輪への道”. 茨城新聞クロスアイ. https://ibarakinews.jp/hp/hpdetail.php?f_jun=2020&amp%3Bkydrtt_page=RUGA000264&kydrtt_page=TKY0HST610 2020年3月24日閲覧。 
  3. ^ 歴代日本選手団としては1992年バルセロナオリンピック岩崎恭子(当時14歳6日)に破られるまでは最年少金メダル獲得記録であった。尚、2021年現在でも日本男子選手としては最年少金メダル獲得記録を保持している。
  4. ^ a b Sports Graphic Number』No.103(1984年7月20日号)、文藝春秋、p32。北村によると競泳をやめたのは「学生生活の方が面白くってね」とのこと。
  5. ^ ルイ・アレン 『ビルマ遠い戦場(下)』 原書房、1995年、95頁。
  6. ^ 鏡川潮江橋、北村久寿雄さんの金メダル ひまわり乳業今日のにっこりひまわり 2005年7月11日
  7. ^ アジア大会水上競技報告 (PDF) 『水泳』日本水泳連盟 第120号 1958年12月

関連項目 編集

外部リンク 編集