北条宗頼

鎌倉時代中期の武士

北条 宗頼(ほうじょう むねより)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏得宗家の一門。父は鎌倉幕府5代執権北条時頼。8代執権北条時宗の異母弟にあたる。

 
北条 宗頼
時代 鎌倉時代中期
生誕 未詳
死没 弘安2年6月4日、または5日
1279年7月14日/7月15日
改名 曼珠(幼名:まんじゅ)→宗頼
別名 相模七郎(仮名)、宗顕
官位 長門周防守護
幕府 鎌倉幕府 長門探題
主君 宗尊親王惟康親王
氏族 北条氏
父母 北条時頼、辻殿?
兄弟 時輔時宗宗政宗時、政頼、宗頼時厳、女子
大友頼泰の娘遠藤為俊の娘[1]
兼時宗方、女子(赤橋久時正室)
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概略編集

桓武平氏系図』など、史料、系図によっては宗顕という名前で記載されているが、後世の宗頼に言及した文献は概ね「宗頼」の表記を採用しており、「宗顕」は別名、という扱いになっている[2][3][4]。兄弟の序列では嫡子時宗、同腹宗政、庶兄時輔に継いで4番目の地位にあった。

鶴岡八幡宮の参詣や方違など、将軍の外出行事において供奉人を務めることが多かった。1261年、極楽寺邸で笠懸が催された際には、その射手を担当、宗尊親王が更迭されて京都に帰還する際にも供奉を務め、将軍を京都へ送り届けた。

宗頼は幕政の中枢で活躍する引付衆評定衆には選任されず、遠国の守護として派遣され活躍した。蒙古襲来にあたり、文永の役後の建治2年(1276年)正月、異国警固のため宗頼は長門周防守護に任命され、九州へ赴いた。得宗の近親者が直接守護管国に赴任するというのは前例がなく、この人事が後の両国守護兼帯への下地になった[5]。蒙古との合戦において、九州と共に最前線となる防長の防備を重視した時宗は、自分の代理、分身として宗頼を派遣したとされる。庶子でありながら庶兄時輔と違い宗頼と時宗の関係は良好で、時宗から宗頼は信頼されていた[6]

所領には肥後国の阿蘇社などが見られる。阿蘇文書によれば、阿蘇社殿の造営に宗頼は積極的に関与し、造営を推進したという。守護として地元御家人の異国警固や所領問題の採決など九州の行政を行っていたが、弘安の役の2年前の弘安2年(1279年)6月に長門国で没した。

大休正念の語録の中で、時宗が宗頼の三年忌供養を営んだことが言及されているため、兄時宗同様正念に帰依していたと考えられている[7]

子の兼時は初代鎮西探題となり、時宗の猶子となった宗方嘉元の乱で殺害されている。

脚注編集

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  1. ^ 生駒孝臣「鎌倉中・後期の摂津渡辺党遠藤氏について : 「遠藤系図」をめぐって」『人文論究』第52巻第2号、関西学院大学、2002年9月、 18-34頁、 ISSN 0286-6773NAID 110000189119
  2. ^ 川添 1986.
  3. ^ 安田元久 編 『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト版)新人物往来社、1990年。 
  4. ^ 北条氏研究会 編 『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社、2001年。 
  5. ^ 川添 1986, p. 244.
  6. ^ 川添 1986, pp. 244–248.
  7. ^ 川添 1986, pp. 243–244.

参考文献編集

  • 川添昭二 『北条時宗』吉川弘文館〈人物叢書〉、1986年。 

関連項目編集