北条時村 (政村流)
北条 時村(ほうじょう ときむら)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門で、鎌倉幕府第9代連署(在職:正安3年(1301年)8月23日 - 嘉元3年(1305年)4月23日)。鎌倉幕府第7代執権・北条政村の嫡男。
時代 | 鎌倉時代後期 |
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生誕 | 仁治3年(1242年) |
死没 | 嘉元3年4月23日(1305年5月17日) |
改名 | 時遠(ときとお、初名)→時村 |
別名 | 陸奥三郎 |
官位 | 従四位下、陸奥守、武蔵守、左近大夫将監、和泉・美濃・長門・周防守護 |
幕府 | 鎌倉幕府六波羅探題北方、長門探題、寄合衆、連署 |
主君 | 惟康親王→久明親王 |
氏族 | 北条氏(政村流) |
父母 | 父:北条政村、母:三浦重澄の娘 |
兄弟 | 時村、政長、政頼、宗房、政方、他女子 |
子 | 為時 |
花押 |
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生涯編集
父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ、建治3年(1277年)12月、六波羅探題北方に任じられた。これまで遅くても20代までに任じられていた六波羅探題に36歳で任じられたことから、政治的影響力を得宗家や御内人に警戒された説と元寇で緊迫する京都の掌握を期待されたとする説がある[1]。
その後も和泉や美濃、長門、周防の守護職、長門探題職や寄合衆などを歴任した。弘安7年(1284年)、8代執権北条時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛。
弘安10年(1287年)に鎌倉に呼び戻されて引付衆の一番頭人に任じられる。
正安3年(1301年)、甥の北条師時が10代執権に代わると連署に任じられて師時を補佐する後見的立場となる。
嘉元3年(1305年)4月23日の夕刻、貞時の「仰せ」とする得宗被官、御家人が当時連署であった北条時村の屋敷を襲い殺害、葛西ヶ谷の時村邸一帯は出火により焼失。享年64。
京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」(『実躬卿記』の4月27日条)、「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」(大外記中原師茂)と、「時村が誅された」とある。
時村を「夜討」した12人はそれぞれ有力御家人の屋敷などに預けられていたが、5月2日に「此事僻事(虚偽)なりければ」として斬首された。5月4日、一番引付頭人大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司北条宗方を追討、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の多くの郎党が戦死した。
嘉元の乱と呼ばれるこの事件は、かつては『保暦間記』の記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので、同時代の『実躬卿記』の同年5月8日条にも「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である。生き残った孫の煕時は幕政に加わり、第12代執権に就任した。
経歴編集
※日付=旧暦
- 1262年(弘長2)1月19日、従五位下に叙し、左近衛将監に任官。
- 1269年(文永6)4月27日、引付衆に就る。
- 1270年(文永7)10月、幕府の評定衆に就る。
- 1271年(文永8)7月8日、陸奥守に転任。
- 1273年(文永10)6月25日、引付頭人(二番)兼帯。
- 1277年(建治3)12月21日、六波羅探題北方に赴任。
- 1282年(弘安5)7月14日、陸奥守辞任。8月23日、武蔵守に任官。
- 1283年(弘安6)9月12日、従五位上に昇叙。武蔵守如元。
- 1284年(弘安7)8月8日、正五位下に昇叙。武蔵守如元。
- 1287年(弘安10)8月14日、六波羅探題退任。12月24日、評定衆及び引付頭人(一番)と就る。
- 1289年(正応2)5月、寄合衆を兼帯。8月7日、従四位下に昇叙。武蔵守如元。
- 1301年(正安3)8月23日、連署に異動。
- 1303年(嘉元元)11月17日、左京権大夫に転任。
偏諱を与えた人物編集
※時村の烏帽子子と推定されている人物。
脚注編集
関連項目編集
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