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北条時盛

鎌倉時代中期の武士

北条 時盛(ほうじょう ときもり)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将北条氏の一門。鎌倉幕府の初代連署北条時房の長男。佐介流北条氏の祖。佐介 時盛(さすけ ときもり)とも称される。

 
北条時盛 / 佐介時盛
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 建久8年(1197年
死没 建治3年5月2日1277年6月11日
改名 時盛、勝円(法名)
別名 佐介時盛、相模太郎
官位 掃部権助、越後従五位下、従五位上、正五位下
幕府 鎌倉幕府六波羅探題南方、丹波守護
主君 藤原頼経頼嗣宗尊親王
氏族 北条氏佐介流
父母 父:北条時房、母:未詳
兄弟 時盛時村資時朝直時直時定持定房快忠源、女子(一条頼氏室)、女子(北条朝時室)、女子(安達義景室)
時景時親時員時治時基時家政氏時光時俊時成盛朝時朝玄盛、娘(北条長時室)、娘(足利頼氏室)
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弟に大仏流の祖・朝直などがいるが、彼らとは異腹であり、時盛は「庶兄」であったのではないかという見解がある[1]

生涯編集

承久3年(1221年)の承久の乱では父・時房に従って東海道から西上し、6月15日に上洛した[2]貞応元年(1222年)8月28日に掃部権助に任じられる[2]

貞応3年(1224年)、父・時房が連署に就任して鎌倉に帰還すると、その跡目を継ぎ六波羅探題南方に就任し、6月29日に鎌倉を出発する[2]。北方の北条時氏北条重時と協力して洛中の治安維持、統括を担当した。六波羅探題在任中、丹波の守護を担当していた時期もあった。嘉禎2年(1236年)7月20日に従五位下越後守に叙任される[2]。翌年の4月9日に従五位上に昇叙される[2]暦仁元年(1238年)8月28日に正五位下に昇叙される[2]

仁治元年(1240年)1月24日に時房が没すると下向し、1月29日に鎌倉に戻るが、7月9日に再び上洛した[2]。時盛は鎌倉に留まり執権に伺候することを幕府に上申したが受諾されなかったという。背景には、弟の北条朝直との間に時房流北条氏の惣領権を巡る軋轢があった。時盛とその一族達は、弟・朝直の一族(大仏流)との「政争」に敗れ、その為政治の表舞台から脱落したと考えられている[3]

仁治3年(1242年)5月12日に六波羅探題南方を解任されて鎌倉に戻り、6月に突如出家して勝円と号し[2]、その後は幕政から距離を置き、幕政に一切関らなかった。時盛の息子も同様に幕政の中枢から遠ざかっている。建治元年(1275年)12月12日、79歳で孫の北条時国が六波羅探題南方に就任する際に随行して上洛し、2年後の建治3年(1277年)5月2日に六波羅で没した[2]。享年81[2]

九条頼経頼嗣宗尊親王ら京都から招聘した将軍が更迭され、上洛する際、時盛の屋敷が中継地として使われている。

時盛の家系は佐介流北条氏として続いたが、時盛の逼塞や後の時国や北条時光の失脚、朝直を祖とする大仏流北条氏の隆盛によって凋落し、他の流派の風下に置かれることとなった。

脚注編集

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註釈編集

出典編集

  1. ^ 倉井理恵「北条庶子家の一形態」
  2. ^ a b c d e f g h i j 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、p.548
  3. ^ 北条氏系譜人名辞典(時盛の項は川島孝一による執筆)、森幸夫「北条重時」(吉川弘文館・人物叢書)

参考文献編集

書籍
史料

関連項目編集

  • 佐助 - 鎌倉の地名。時盛の屋敷があった