北条氏忠

戦国時代の武将。左衛門佐。相模新城、下野唐沢山城主。下野佐野氏17代。

北条 氏忠(ほうじょう うじただ) / 佐野 氏忠(さの うじただ)は、戦国時代の武将。北条氏康の六男(父は北条氏尭で、氏康の養子となったとも)。官位は左衛門佐。正室は佐野宗綱の娘と乗讃院。子は乗賛院との間に娘の姫路がいる。相模新城、下野唐沢山城主。

 
北条氏忠 / 佐野氏忠
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 弘治2年(1556年)[1][2]
死没 文禄2年4月8日1593年5月8日)?
別名 佐野氏忠
戒名 大関院殿太嶺宗大居士
墓所 静岡県賀茂郡河津町林際寺
官位 左衛門佐
主君 北条氏直
氏族 後北条氏佐野氏
父母 父:北条氏康(または北条氏尭
養父:佐野宗綱
兄弟 蔵春院今川氏真室)、氏親氏政氏照
氏邦氏規、浄光院(足利義氏室)、氏忠
氏光上杉景虎新光院北条氏繁室)
尾崎(千葉親胤室)、長林院(太田氏資室)
種徳寺(小笠原康広室)、円妙院
桂林院武田勝頼室)
義兄弟姉妹:靏松院(実父北条幻庵吉良氏朝室)、法性院(実父遠山綱景太田康資室)
正室:佐野宗綱の娘、乗讃院
姫路(北条就之室?)
テンプレートを表示

生涯 編集

近年の研究では、氏康の弟である氏堯の子で父の死後に弟の氏光と共に伯父の養子になったとする説が有力である[3]

天正10年(1582年)の本能寺の変後に空白地となった甲斐信濃を巡っての徳川家康との争いでは、後北条氏の将として同族の北条氏勝らと共に兵8000を率いて最前線で行動したが、甲斐で家康の家臣鳥居元忠三宅康貞水野勝成に襲撃され敗北している(天正壬午の乱)。その後甥で当主の北条氏直が家康と和睦、両国は家康の領土となり獲得はならなかった。

天正13年(1585年)、下野の豪族佐野氏の当主佐野宗綱が足利長尾氏の当主長尾顕長との争いで戦死すると、宗綱の弟(叔父とも)である佐野房綱佐竹氏から養子を迎えようとする重臣と、後北条氏から養子を迎えようとする反対派の重臣に分かれて対立した。これを知った後北条氏は翌天正14年(1586年)8月に唐沢山城を占拠、氏忠が宗綱の養子として佐野氏を継いだ[4]。房綱ら佐竹派の重臣はこれに憤慨して出奔している[5]

佐野氏を継いだ氏忠は佐竹派の重臣を追放して北条氏時代からの自らの家臣に代えるなどして当主としての支配を確立した。また、氏忠は他氏を継いだ他の兄弟よりも大きな権限が与えられていたらしく、北条氏の意向と無関係な独自の内容を持つ発給文書の存在や小田原(宗家)からの奉行人の派遣がなく氏忠自身の家臣が務めていたことなどが知られている[6]

天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では小田原城に籠城。敗戦により後北条氏が滅亡した後は氏直に従い、高野山に入る。佐野氏は秀吉により、房綱を経てその養嗣子である佐野信吉が佐野氏の家督を継承することになった。その後大関斉と号し、伊豆河津で隠遁生活を送り、文禄2年(1593年)に死去。ただし、後述の事情により、死去はもう少し後のことで、晩年は毛利氏に預けられた可能性がある。

静岡県賀茂郡河津町林際寺に位牌がある。戒名は「大関院殿太嶺宗大居士」。

妻であった佐野宗綱の娘は後北条氏滅亡後に離縁させられて佐野信吉の妻になった後、元和6年(1620年)2月14日に没したとされる。法名は明窓貞珠大姉[7]

後妻とみられる乗讃院と娘の姫路は後北条氏滅亡後に毛利輝元にあずけられていたが、毛利氏関ヶ原の戦いでの敗戦により周防・長門移封時に、長門に知行1000石を与えられた。ただし、乗讃院母娘だけがこうした保護を受ける理由がないため、晩年の氏忠が毛利氏に預けられたから、あるいは乗讃院が毛利家臣の娘だからだする説もある。それを裏付けるものとして、文禄4年(1595年)に作成された「京大坂之御道者之賦日記」という史料に"あきノ草津"(安芸草津=現在の広島市西区)に住む「北条左衛門助」という人物の記録が載せられており、この人物を氏忠のこととする解釈がある[8](なお、同文書に登場する"大和なら"に住む「北条右衛門助」も通説では既に死去したとされる弟の氏光であるという[9])。

乗讃院が寛永7年(1630年)6月26日に没した後、毛利氏家臣の出羽元盛の次男就之が姫路の養子となる形で家名は存続し、元盛とその子孫は北条姓を称した(史料によっては就之を婿養子とするが、30歳近く年長の姫路と夫婦になるとは考えにくく、『萩藩譜録』の通り養子として親子関係を結んだと考えるのが適切である[8])。なお姫路は寛永18年(1641年)11月9日に没し、就之は延宝4年(1676年)7月9日に57歳で没した。

脚注 編集

  1. ^ 『堀尾古記』に天正18年に35歳と伝えることからの逆算。
  2. ^ 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年6月。P84.
  3. ^ 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年6月。P38・83・88.
  4. ^ 荒川、2012年、P81-82
  5. ^ 房綱の出奔年は天正13年ではなく天正3年説もある。天正13年時には既に死去している織田信長に上方で仕えていた記録があるため。
  6. ^ 荒川、2012年、P91-92
  7. ^ 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年6月。P87.
  8. ^ a b 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年6月。P86-88.
  9. ^ 黒田基樹『戦国北条家一族事典』戎光祥出版、2018年6月。P88-89.

参考文献 編集