北条高直

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将

北条 高直(ほうじょう たかなお)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将北条氏大仏流の一族。大仏 高直(おさらぎ たかなお)とも。

 
北条高直 / 大仏高直
時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代初期
生誕 不詳[1]
死没 建武元年7月9日1334年8月9日)?
別名 陸奥右馬助[1]
官位 式部大夫、右馬助[1]
幕府 鎌倉幕府
主君 将軍守邦親王
得宗北条高時
氏族 北条氏大仏流
父母 父:北条維貞[1]、母:不詳
兄弟 高宣家時貞宗高直
高朝
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生涯編集

鎌倉幕府連署を務めた北条維貞の子として生まれる。嘉暦2年(1327年9月7日の維貞の死後、家督を継いだ長兄の北条高宣(翌年早世)が得宗・第14代執権の北条高時から偏諱を賜っている[2][注釈 1]ことから、弟である高直も同様に「高」の字を受けた[注釈 2]ものとみられる(「直」の字は大仏流始祖の北条朝直より取ったものか)。

後醍醐天皇らの討幕運動(元弘の乱)が起こると、幕府軍の大将の一人として各地を転戦した。鎌倉幕府滅亡頃には大仏家当主であった次兄の家時(いえとき)や三兄の貞宗(さだむね)とともに幕府軍を率いて河内金剛山千早城に立て籠もっていた楠木正成を攻めていたが、足利高氏(のちの尊氏)の離反や六波羅探題の滅亡もあって軍は四散し、家時は鎌倉へ、高直は5月10日に残った軍勢を率いて奈良に逃れた[1]。しかし、5月22日に新田義貞の鎌倉攻めにより高時や家時らが自害した(東勝寺合戦)ことを知ると、抗戦を諦めて6月5日に剃髪した上で高氏に降伏し、京都に幽閉された[1]

高氏自身は北条家と縁戚関係にあった[注釈 3]ことから高直の助命を嘆願していたが、建武元年(1334年)3月9日に北条家の残党らによる鎌倉侵攻事件などがあったことから北条一族の徹底的な殲滅が強められることになり、7月9日に兄の貞宗や阿曾治時長崎高貞らと共に京都阿弥陀峰で斬首に処された[1][4]

処刑の日の7月9日は『太平記』より参考にしたものであり、他の史料では3月21日(『梅松論』・『蓮花寺過去帳』)、4月(『保暦間記』)、5月(『系図』)など時期が一致しないものが多い[1]

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 詳細は北条氏 (大仏流)の項を参照。
  2. ^ この時期は北条高時が得宗の地位にあり、「得宗(高時)→御家人」という形で「高」の字が授与される図式が成立していた[3]
  3. ^ 維貞の外祖父(母方の祖父)、高氏の父・貞氏の外祖父がともに北条時茂であり、高氏と高直およびその兄弟ははとこの関係にあった。

出典編集

  1. ^ a b c d e f g h 奥富敬之 「北条高直」、安田元久編 『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト版) 新人物往来社、1990年、542頁。 
  2. ^ 山野龍太郎 「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志編 『日本中世政治文化論の射程』 思文閣出版、2012年、182頁。ISBN 978-4-7842-1620-8 脚注(27)
  3. ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四、再興中世前期勉強会、2004年、 21頁。
  4. ^ 『太平記』巻十一「金剛山寄手等被誅事付佐介貞俊事」

関連項目編集