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北越鉄道(ほくえつてつどう)は、かつて新潟県内で鉄道を建設、営業した鉄道事業者である。現在の信越本線直江津 - 新潟間に相当し、1907年鉄道国有法により国有化された。

北越鉄道
HokuetsuRyLogo 20100606.svg
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
新潟県長岡市[1]
設立 1895年(明治28年)12月[1]
業種 鉄軌道業
代表者 取締役会長 渡辺嘉一[1]
資本金 3,700,000円(払込額)[1]
特記事項:上記データは1907年(明治40年)現在[1]
テンプレートを表示
路線概略図 
exSTR
糸魚川方面
xABZg+r
官鉄長野方面
BHF
直江津駅
eBHF
春日新田駅 -1906
BHF
黒井駅
BHF
犀潟駅
BHF
潟町駅
BHF
柿崎駅
BHF
米山駅
BHF
青海川駅
BHF
鯨波駅
BHF
柏崎駅
BHF
安田駅
BHF
北条駅
eHST
西渋海川駅(仮) *
eHST
東渋海川駅(仮) *
BHF
塚山駅
BHF
来迎寺駅
BHF
宮内駅
BHF
長岡駅
BHF
押切駅
BHF
見附駅
BHF
帯織駅
BHF
三条駅
BHF
一ノ木戸駅
BHF
加茂駅
BHF
羽生田駅
BHF
矢代田駅
BHF
新津駅
BHF
亀田駅
BHF
沼垂駅
KBHFe
新潟駅 旧 #

*: 渋海川橋梁崩落のため、
1900年4月から8月の間設置
#: 現在の新潟駅より萬代橋寄り。参照

目次

沿革編集

設立と開業編集

現在の信越本線が日本海岸の直江津から内陸の長野に向けて1886年(明治19年)に路線を伸ばしはじめたものの、直江津以北の官設による建設は見通しが立たないと判明した[2][3]。そのため地元新潟県有志は渋沢栄一に東京の資本家を呼び込むことを依頼し、渋沢を発起人代表として1895年(明治28年)に北越鉄道株式会社(本社新潟市[4])を設立した[2][3][5]。直江津側は1897年(明治30年)の春日新田 - 鉢崎を皮切りに、順次延伸開業していった。

新潟側起点選定編集

新潟側からも1896年(明治29年)に着工し建設は進められたが、起点を沼垂にして長岡方面延伸を急ぐべしとする東京資本と、新潟市街に至近となる萬代橋畔に駅を設けたい新潟出身重役との対立がおさまらなかった[2][3][6]。株主総会で本社を東京に移すと決める際には警官の出動する騒ぎであったという[2]。沼垂機関庫と貨物庫が爆破され[2][3]、1897年の開業は4日遅れる事態にまで至った。1903年(明治36年)に本社が長岡に移転し、翌年に新潟延伸が実現している。

新発田延伸計画と国有化編集

1904年に新津 - 新発田の免許を再び得たが、「同区間の免許が失効すれば既成区間の免許も失効する。全線を公売または建設実費で政府または他の会社に売渡しても異議はない」という条件付であった[2][3]。この区間は未成のまま引き継がれ、国有化後の1912年(大正元年)に開業している(現在の羽越本線の一部)。

1906年に鉄道国有法の成立により買収されることが決まった。業績が悪く評価額が低いため株主の損失が大きいとして衆議院に救済を請願したが、これは叶わなかった[2][3]。線路138.1 km(未開業線25.5 km)、機関車18、客車74、貨車298が引き継がれた。

年表編集

  • 1894年4月:北越鉄道、直江津 - 長岡 - 新津 - 新発田、新津 - 沼垂98余の免許を申請(7月:仮免許下付[7]
  • 1895年12月12日:免許下付[8](7月:免許状下付申請)
  • 1896年3月:本間英一郎を技師長にむかえ起工
  • 1896年2月:柏崎 - 出雲崎 - 新潟 - 沼垂の免許申請
  • 1896年4月1日:米山隧道(鉢崎 - 柏崎)開鑿開始
  • 1896年8月:馬越 - 沼垂1哩22の仮線敷設着手
  • 1896年8月:信濃川岸の馬越に荷揚げし新潟側を着工
  • 1897年4月:直江津 - 鉢崎工事落成
  • 1897年5月13日:春日新田 - 鉢崎14哩9鎖開通[9]、春日新田に機関庫を設置
  • 1897年5月17日:柏崎 - 出雲崎 - 新潟 - 沼垂の仮免状下付[10]
  • 1897年7月:株主総会を東京で開催、本社を東京に移転
  • 1897年8月1日:鉢崎 - 柏崎7哩75鎖開通[11]
  • 1897年11月11日:沼垂機関庫と貨物庫などが爆破され、建物は大破、機関車は破損
  • 1897年11月20日:柏崎 - 北条5哩23鎖および沼垂 - 一ノ木戸24哩70鎖開通[12]
  • 1898年6月16日:一ノ木戸 - 長岡14哩30鎖開通
  • 1898年12月27日:北条 - 長岡17哩44鎖開通により春日新田 - 沼垂全通[13]
  • 1898年:機関車燃料に重油を採用
  • 1899年5月20日:春日新田 - 直江津に仮線を建設し、貨車を手押しで運転
  • 1899年9月5日:春日新田 - 直江津連絡線41鎖に列車直通[14]
  • 1900年3月:沼垂 - 万代橋を申請(9月に認可)
  • 1900年9月:本社を長岡に移転
  • 1900年4月7日:塚山-北條間の渋海川橋梁が流失していたところに建築列車が進入し川中に転落。4月15日より8月7日まで両岸に東渋海川(仮)、西渋海川(仮)を設置[15][16]
  • 1900年11月5日:正午、第4米山隧道(鉢崎 - 青海川)内で上り建築列車と下り貨物列車が正面衝突
  • 1904年5月3日:沼垂 - 新潟1哩14鎖開業[17]
  • 1904年9月9日:直江津 - 新発田の免許を短縮し直江津 - 新津にすることを申請(12月9日許可[18]
  • 1904年9月21日:新津 - 新発田の延長を申請(12月9日免許下付[19]
  • 1904年10月:柏崎 - 出雲崎 - 新潟 - 沼垂の免許を返納[20]
  • 1906年8月30日:春日停車場廃止[21]
  • 1907年8月1日:鉄道国有法により7,776,887円で買収

業績編集

1899年頃
営業係数89(1897-1899年の平均)、1日1マイルあたり収入14円(1899年)、配当なし[2]
1906年
営業係数42、配当5%、建設費7,157,789円、資本金370万円(全額払い込み済み)、社債300万円、借入金54万円[2][3]
年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円)
1897 211,825 6,471 43,123 38,871 4,252
1898 860,792 30,753 182,168 157,200 24,968
1899 1,244,621 102,149 425,269 189,289 235,980
1900 1,384,765 143,675 536,313 246,992 289,321
1901 1,225,339 139,507 608,120 293,844 314,276
1902 1,242,672 153,705 596,448 285,792 310,656
1903 1,318,807 207,649 663,467 339,651 323,816
1904 1,174,619 179,082 645,350 301,283 344,067
1905 1,173,635 182,034 696,263 309,793 386,470
1906 1,205,633 228,870 787,896 331,172 456,724
1907 807,568 161,069 542,754 278,005 264,749
  • 「国有及私設鉄道運輸延哩程累年表」「国有及私設鉄道営業収支累年表」『鉄道局年報』明治40年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より

路線編集

施設[2]
軌条30kg/m
閉塞方式:票券式
機関庫:春日新田、長岡、新潟
ほか[3]
延長:85哩65鎖
最急勾配:100分の1
隧道総延長:6810呎

運輸編集

時刻編集

1898年、春日新田 - 沼垂開業当時[22]
春日新田発6:35 - 18:35(3時間ごと等間隔)
長岡着9:00 - 21:00
長岡発6:25 - 18:25
沼垂着8:45 - 20:45
沼垂発6:35 - 18:35
長岡着8:55 - 20:55
長岡発6:20 - 18:20
春日新田着8:45 - 20:45
上野発6:00、直江津着18:45で長岡行きに接続、長岡発6:45で上野着22:00[23]
1904年、新潟延長時
長岡止め下り終列車を新潟に延長し、上野 - 新潟が当日圏内に[22]
売店付き客車(調理室のない食堂車と推定される)を連結開始[3][22]

運賃編集

2等は3等の50%増し、1等は2.5倍[2][3]

当初[2][3]
長岡 - 沼垂は3等1マイルあたり1.4銭(信濃川水運との競争のため)、春日新田 - 長岡は3等1マイルあたり1.5銭
1898年6月[2][3]
全線で3等1マイルあたり1.5銭に統一
1901年5月[2][3]
3等1マイルあたり2銭に改定

車両編集

機関車編集

タンク機関車ばかり、7形式18両が在籍した。1899年より渡辺嘉一の考案で重油専燃装置を取付け最終的には全車に装着した。しかし火災事故も何件か発生した。

客車編集

当初の2等車と3等車は両端開放出入台形、車体寸法7214×2210×3315mm、軸距離3810mm、自重6.3t。1898年から貫通扉付密閉型、片側2扉に改めた[24]形式称号は1等車「イ」、2等車「ロ」、3等車「ハ」、手荷物緩急車「ブ」、郵便車「ユ」[24]

客車の在籍

1897年12月末現在
35輌、2等車4輌、3等車26輌、緩急車5輌で1等車なし[24]
国有化に際して引き継ぎ
74輌、1等2等合造車6輌、2等車8輌、3等車40輌、3等手用制動機付き2輌、3等郵便手荷物緩急車4輌、手荷物緩急車4輌で、いずれも2軸車[24]
  • イロ1.2 2両 松井工場製 定員一等8人二等12人 国有化後イロ336.337(形式332) 一二等車 形式図
  • イロ3-6 4両 東京松井工場製 定員一等12人二等14人 国有化後イロ348-351(形式339) 一二等車 形式図
  • ロ1.2 2両 三田製作所工場製 定員22人 国有化後ロ805.806(形式805) 二等車 形式図
  • ロ3-8 6両 新濱鉄工所工場製 定員28人 国有化後ロ807-812(形式807) 二等車 形式図
  • ハ1-26 26両 三田製作所工場製(1-11)新潟工場製(12-26) 定員40人 国有化後ハ2539-2564(形式2539) 三等車 形式図写真[25]
  • ハ29-31 3両 松井工場製 定員50人 国有化後ハ2421-2423(形式2421) 三等車 形式図
  • ハ40-42 3両 北越鉄道会社長野工場製 定員48人 国有化後ハ2424-2426(形式2421) 三等車 1898年三等客車として製造されたが、1903年頃長岡工場で改造し売店付客車(後に食堂車)シ1-3となった。国有化後に食堂営業は廃止されている[26][27]。 形式図
  • ハ32-39 8両 新潟鉄工所工場製 定員44人 国有化後ハ3314-3321(形式3314) 三等車(手用制動機附) 形式図
  • ハブ1.2 2両 三田製作所工場製 定員40人 国有化後フハ3307.3308(形式3277) 三等車(手用制動機附) 形式図
  • ハブ3-6 4両 松井工場製 定員26人 国有化後ハニ3677-3680(形式) 三等手荷物緩急車 形式図
  • ハユブ1.2 2両 新潟鉄工所工場製 定員24人 国有化後ハユニ3517.3518(形式3517) 三等郵便手荷物緩急車 形式図
  • ユ1-4 4両 新潟鉄工所工場製 国有化後ユ3741-3744(形式3741) 郵便車 形式図
  • ユブ1-4 4両 松井工場製 国有化後ユニ3945-3948(形式3945) 郵便手荷物緩急車 形式図
  • ブ1-4 4両 松井工場製 国有化後ニ4338-4341(形式4338) 手荷物緩急車 形式図

リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの『客車略図 上巻』

貨車編集

初期は6t積みで後期は7t積み、油槽車は私有貨車が多く数に入っていない[24]。なお1899年に日本で最初の鉄製筒型の石油タンク車が新潟鉄工所で製造された

貨車の在籍

1897年12月末現在[24]
117輌、うち有蓋車17輌、有蓋緩急車15輌、無蓋車15輌、土運車70輌
国有当時[24]
有蓋車200輌、有蓋緩急車25輌、無蓋車15輌、無蓋車手用制動機付3輌、材木車2輌、油槽車8輌、土運車37輌、土運車手用制動機付8輌

車両数の推移編集

年度 機関車 客車 貨車
1897 10 35 117
1898 11 74 177
1899 12 74 196
1900 15 74 298
1901-1905 17 74 298
1906 18 74 298
  • 「私設鉄道現況累年表」『鉄道局年報』明治40年度(国立国会図書館デジタルコレクション)より

役員編集

  • 取締役会長
  • 専務取締役
  • 取締役
    • 銀林綱男(1895年12月-1896年)
    • 末延道成(1895年12月-)
    • 前島密(1895年12月-)
    • 山口権三郎[30](1895年12月-1897年1月)
    • 本間新作[31](1895年12月-1897年1月)
    • 鍵冨三作[32](1895年12月-1905年7月)
    • 今村清之助(1895年12月-1897年1月、1898年7月-1902年9月)
    • 濱政弘(1897年1月-1898年7月)
    • 牧口義方[33](1897年1月-1898年7月)
    • 齋藤喜十郎[34](1897年1月-1898年7月)
    • 渡辺嘉一(1896年1月)
    • 原六郎(1898年7月-)

脚注および参考文献編集

  1. ^ a b c d e 『日本全国諸会社役員録. 明治40年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 川上 (1968) pp. 155-157「北越鉄道の開業から国有まで」
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 鉄道省 (1921)
  4. ^ 当初東京市5月移転日本国有鉄道百年史第4巻、341頁
  5. ^ 『日本全国諸会社役員録. 明治29年』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 「停車場問題で三万の新潟市民県庁に押寄す」国民新聞 明治30年4月22日『新聞集成明治編年史第十巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 「私設鉄道敷設仮免状下付」『官報』1894年8月15日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ 「私設鉄道敷設免許状下付」『官報』1896年1月14日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年5月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 「私設鉄道敷設仮免状下付」『官報』1897年5月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年8月12日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  12. ^ 「運輸開業免許状下付」『官報』1897年11月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 「運輸開業免許状下付」『官報』1899年1月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  14. ^ 「運輸開業免許状下付」『官報』1899年9月12日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  15. ^ 「仮停車場設置」『官報』1900年5月14日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  16. ^ 「仮停車場閉鎖」『官報』1900年8月25日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  17. ^ 「運輸開始」『官報』1904年5月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  18. ^ 「私設鉄道株式会社線路短縮許可」『官報』1904年12月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  19. ^ 「私設鉄道株式会社本免許状下付」『官報』1904年12月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  20. ^ 「私設鉄道株式会社本免許申請書下戻」『官報』1904年9月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  21. ^ 「停車場廃止」『官報』1906年9月8日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  22. ^ a b c 川上 (1968) p. 157「北越鉄道の運輸」
  23. ^ 川上 (1968) p. 157に北越鉄道の広告が掲載されており、上野 - 長岡が当日圏内であることが謳われている。
  24. ^ a b c d e f g 川上 (1968) p. 159「北越鉄道の客貨車」
  25. ^ 『新潟鉄工所四十年史』国立国会図書館デジタルコレクション
  26. ^ 鉄道友の会 客車気動車研究会『日本の食堂車』ネコ・パブリッシング、2012年、4頁
  27. ^ 食堂は廃止三等車に改造『鉄道院年報. 明治42年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  28. ^ 『人事興信録. 初版(明36.4刊)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  29. ^ 『人事興信録. 初版(明36.4刊)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  30. ^ 『北越名士伝』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  31. ^ 『人事興信録. 3版(明44.4刊)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  32. ^ 『北越名士伝』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  33. ^ 『衆議院議員列伝』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  34. ^ 『人事興信録. 3版(明44.4刊)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 鉄道省「北越鉄道」『日本鉄道史』中篇、[鉄道省]、[東京]、1921年、pp. 524-537。
  • 川上幸義『新日本鉄道史』下、鉄道図書刊行会、1968年、pp. 155-159。
  • 今尾恵介(監修)『日本鉄道旅行地図帳』6 北信越、新潮社、2008年。ISBN 978-4-10-790024-1
  • 今城光秀「私設鉄道経営者・技術者一覧」『大東文化大学経営論集』第2号125-126頁
  • 瀬古龍雄「新潟県鉄道のあゆみ」『鉄道史学』No.23、2005年