北里 柴三郎(きたさと しばさぶろう、1853年1月29日嘉永5年12月20日) - 1931年昭和6年)6月13日)は、日本医学者細菌学者である。従二位勲一等旭日大綬章男爵医学博士

北里 柴三郎
Kitasato Shibasaburo.jpg
北里柴三郎医学博士
生誕 (1853-01-29) 1853年1月29日
日の丸 日本嘉永期) 肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町
死没 (1931-06-13) 1931年6月13日(78歳没)
日本の旗 日本 東京府東京市麻布区
脳溢血
国籍 日の丸 日本
研究分野 細菌学
研究機関 ベルリン大学コッホ研究室
伝染病研究所
慶應義塾大学医学部
出身校 東京医学校
博士課程
指導教員
ロベルト・コッホ
博士課程
指導学生
エミール・フォン・ベーリング
主な業績 破傷風菌純粋培養
血清療法の発見
ジフテリアと破傷風の毒素に対する抗血清開発
ジフテリア抗血清の製造開発
腺ペストの病原菌共同発見
プロジェクト:人物伝

私立伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現在の北里大学北里研究所病院)創立者兼運営者、第1回ノーベル生理学・医学賞最終候補者(15名の内の1人)[1]、私立北里研究所(現在の学校法人北里研究所)創立者兼初代所長並びに北里大学学祖、慶応義塾大学医学科(現在の慶應義塾大学医学部)創立者兼初代医学科長、慶應義塾大学病院初代病院長、日本医師会創立者兼初代会長。

日本の細菌学の父」として知られ、ペスト菌を発見し、また破傷風の治療法を開発するなど感染症医学の発展に貢献した。門下生らはドンネル先生[注 1]との愛称で畏れられ、かつ親しまれていた。妹のいくは神官の蔵原惟暁の妻となり、その息子に詩人の蔵原伸二郎。別の妹しうは、惟暁の弟で政治家の蔵原惟郭の妻で、その息子に評論家の蔵原惟人明治製菓株式会社最高顧問の北里一郎は孫にあたる。

目次

人物編集

出生から編集

 
破傷風菌に関する論文原稿(明治22年)
コッホと思われる書き込みが認められる。
東大医科研近代医科学記念館
 
内務省より発令された東京種痘製造所長への辞令(明治32年)
東大医科研近代医科学記念館
 
「伝染病研究ノ基礎ヲ確立スルニ付テノ意見」(大正2年)
東大医科研近代医科学記念館
 
伝染病研究所」の外観を模した近代医科学記念館(東京大学医科学研究所

肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まれる。父の惟保(これのぶ、1829年 - 1902年)は庄屋を務めた。温厚篤実、几帳面であった。母貞(てい、1829年 - 1897年)は豊後森藩士加藤海助の娘で幼少時は江戸で育ち、嫁して後は庄屋を切りもりした。柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼した。闊達な性質で、柴三郎が指導者としての性格は母からであろう[2]。柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ漢学者の伯父から四書五経を教わった。帰宅後母の実家に預けられ、儒学者園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした。その後久留島藩で武道を習いたいと申し出たが他藩であるので許可されなかった。実家に帰り父に熊本に遊学を願い出た。1869年細川藩の藩校時習館に入寮したが翌年7月廃止された。それで、熊本医学校に入学した。その教師マンスフェルトに出会った事をきっかけとして本格的に医学に目覚めることとなった。特別に語学を教わり、3年間在籍したが、2年目からは通訳を務めている。マンスフェルト、職員、生徒の集合写真にはマンスフェルトの横に写っている[3]

1875年明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学したが、在学中よく教授の論文に口を出していたため大学側と仲が悪く、何度も留年した。1883年(明治16年)に医学士となる。在学中「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書いた。演説原稿が残っている[4]。卒業時の成績は26名中8位であった[5]。その後長与専斎が局長であった内務省衛生局へ就職。

留学時代編集

同郷で東京医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)よりドイツベルリン大学へ留学。コッホに師事し業績をあげた。1887年(明治20年)石黒忠悳陸軍省医務局長はベルリンを訪問、北里にペッテンコーフェル研究室に移るように指示したが、コッホに面会しコッホの期待の大きさを目のあたりにした石黒は、移動命令を撤回した[6]1889年(明治22年)には世界で初めて破傷風菌だけを取りだす破傷風菌純粋培養法に成功、1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し世界の医学界を驚嘆させた。さらに血清療法という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した。

1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に柴三郎の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル賞委員会や(選考に当たった)カロリンスカ研究所が柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したと見なしたこと[注 2]、賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因としてあげられている[7]。柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠はみつかっていない[7][注 3]

論文がきっかけで欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであると、柴三郎はこれらを固辞して1892年(明治25年)に帰国した。

帰国後編集

ドイツ滞在中、脚気の原因を細菌とする東大教授・緒方正規の説に対し脚気菌ではないと批判を呈した為、緒方との絶縁こそなかったものの「恩知らず」として母校東大医学部と対立する形となってしまい、帰国後も日本での活躍が限られてしまった。この事態を聞き及んだ福澤諭吉の援助により私立伝染病研究所が設立されることとなり、柴三郎は初代所長となった。その後、国に寄付され内務省管轄の国立伝染病研究所(現在の東大医科学研究所)となり、伝染病予防と細菌学に取り組む。1894年(明治27年)にはペストの蔓延していた香港に政府より派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという業績をあげた。

かねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年大正3年)に政府は所長の柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した。長年の東大との対立が背景であるといわれている。医科大学学長であった青山胤通が所長を兼任することになった。柴三郎はこれに反発し所長を辞し、新たに私費を投じて私立北里研究所(現・社団法人北里研究所。北里大学の母体)を設立。狂犬病インフルエンザ赤痢発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。

諭吉の没後の1917年(大正6年)、諭吉による長年の多大なる恩義に報いるため、慶應義塾大学医学部を創設し、初代医学部長、付属病院長となる。新設の医学部の教授陣にはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたる教授陣を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾医学部の発展に尽力した。

また明治以降多くの医師会が設立され、一部は反目しあうなどばらばらであったが、1917年(大正6年)に柴三郎が初代会長となり、全国規模の医師会として大日本医師会が誕生した。その後1923年(大正12年)に医師法に基づく日本医師会となり、柴三郎は初代会長としてその運営にあたった。

経歴編集

 
北里の墓(青山霊園
  • 1894年(明治27年) - 2月、伝染病研究所を芝区愛宕町に移転、ジフテリア抗血清の製造、これによる治療を開始。5月、日本政府により調査派遣された香港で、6月、感染症である腺ペストの病原菌を共同発見した。ほぼ同時に、アレクサンダー・イェルサンもペスト菌を発見した。最初、ペスト菌はpasteurella pestis(パスツレラ ペスティス)と呼ばれていたが、今ではYersinia pestis(エルシニア ペスティス)と呼ばれている。
  • 1899年(明治32年) - 3月、伝染病研究所が国立(内務省)に移管され、4月、所長に就任。
  • 1901年(明治34年) - 第1回ノーベル生理学・医学賞の公式候補に選ばれる[9]
  • 1906年(明治39年) - 4月、日本連合医学会会頭。9月、帝国学士院会員に任命される。
  • 1908年(明治41年)- 6月、恩師コッホ夫妻を迎える。
  • 1913年大正2年) - 日本結核予防協会を設立、副会頭に就任。
  • 1914年(大正3年) - 伝染病研究所が内務省から文部省に移管され東京大学に合併される時、移管に反対して所長を辞任。この時、志賀潔を始めとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出した。伝研騒動といわれる。11月5日に私費を投じて北里研究所を設立。
  • 1915年(大正4年) - 恩賜財団済生会芝病院(現東京都済生会中央病院) 設立とともに初代院長となる。
  • 1916年(大正5年)- 11月、府県の医師会を統合して、大日本医師会を設立、会長に就任。
  • 1917年(大正6年) - 慶應義塾大学医学部の創立に尽力し初代学部長となる(医学科であったが1919年(大正8年)医学部と改称)。
  • 1923年(大正12年) - 日本医師会を創設。初代会長に就任。
  • 1924年(大正13年) - 2月、男爵叙爵。
  • 1928年(昭和3年)- 5月、医学部長を辞任、顧問就任。
  • 1931年昭和6年) - 6月13日5時、脳溢血のため東京・麻布の自宅で死去。6月17日、青山斎場で葬儀。青山墓地に葬られる。

栄典編集

医道論編集

以下は北里研究所誌より[12]

  • 北里は1877年頃から同盟社という学生結社を組織し、社会活動を志すなら雄弁でなければならないと、毎週土曜に演説会を開き切磋琢磨していた。1878年4月は「医道論」を書き、予防医学を力説した。原稿が残っている。
    • 昔の人は医は仁術とか大医は国を治めるとかいいことをいう。医の真の目的は大衆に健康を保たせ国を豊かに発展させることにある。ところが医者という地位について勉強せず、自分の生計を目あてに病気を治すことで満足する者がいる。今から医学に入る者は大いに奮発勉励し、この悪弊を捨て医道の真意を理解しなければいけない。
    • ついで、医学生、開業医に向かい、現状を批判、昨年のコレラの流行を引用、悲憤慷慨し、予防医学の大切さを訴えている。最後に自作の七言絶句で決意を披歴している。

北里とハンセン病編集

  • 第1回国際ハンセン病学会は1897年(明治30年)ベルリンで行われた。日本からは土肥慶蔵が出席、北里は出席はせず、日本のハンセン病事情を誌上発表している[13]。第2回ハンセン病学会は1909年ノルウェーベルゲンで開催され、北里は招待されて出席した。集合写真では、北里はハンセンの隣に座っている。北里は日本におけるハンセン病Die Lepra in Japanと言う題で発表した。前半で日本の現状、草津での疫学調査、鼻腔内感染者の考察、後半はオランウータンを使った感染実験、ネズミのハンセン病類症(鼠らい)とその細菌学的研究を述べている。
  • 北里は伝染病研究所を創立してまもなく、ハンセン病の研究を開始している。これは私立らい療養所である目黒の慰廃園から専門医の派遣を要請されて行ったものである。一種の免疫療法剤である「レプリン」を開発したが、余り有効ではなかった。『日本らい史』には、約3年間に180名を治療、全治4名、全治に近いもの3名、死亡2名、その他は快方に向かいつつあるとあるが、ハンセン病の自然治癒を薬剤効果とまちがえたと考えられるという文献を引用している[14][注 6]
  • 来日したハンナ・リデルは、1895年熊本に回春病院というハンセン病病院を設立した。その後敷地内にハンセン病研究所を企画した。1917年にリデルの頼みに応じ、北里研究所の内田三千太郎を研究所長に割愛した。回春病院の経営にも支援し、1918年(大正7年)の回春病院の募金活動趣意書に発起人として北里の名を連ねている[15]

業績編集

邦文業績編集

以下は北里研究所誌より[16][注 7]

  • 「蒼蠅ハ病毒伝染ノ媒介者」大日本私立衛生学雑誌 7号,14-17, 1883
  • 「妊娠ヲ鑑別する新法」 中外医事新報 96号,1-2, 1884
  • 「肝蛭(肝臓ジストマ)ノ発生スル理由」 中外医事新報 99号, 1-3, 1884
  • 「痰中にあるコグ氏(コッホ)黴菌試験法」 中外医事新報 122号,1-5, 123号,8-13, 1885
  • 「鶏虎列刺(トリコレラ)菌発見 (緒方正規、北里柴三郎共著) 官報, 561号,15-16, 1885
  • 「衛生上飲料水簡易試験法」 大日本私立衛生会雑誌 29号,44-59,1885
  • 「赤痢菌探究」東京医事新誌 409号, 155-158, 410号, 189-192, 1885
  • 「長崎県下虎列刺病原ノ談」 大日本私立衛生会雑誌、31号, 14-26, 1885
  • 「第8回コッホ記念講演開會の辞」細菌學雑誌 316,54-55,1922
  • 「微生物ノ研究及應用」北里柴三郎記念室史料 34,1918(北里研究所)
  • 「學問の神聖と獨立」三田評論 211,15-19,1915
  • 「結核のツベルクリン療法に就て」細菌學雑誌 199,331-345,1912
  • 「万國學藝會議状況」細菌學雑誌 108,630,1904
  • 癩(らい)病に関する研究」傳染病研究所一覧(明治32年1月) 78-80,1899(傳染病研究所)
  • 「論説」細菌學雑誌 25,1-4,1897
  • 「惡性水腫菌、ラウシュブラント菌(鳴疽菌)、破傷風菌、インフルエンザ菌」傳染病研究講義 26-119,1896(傳染病研究所)
  • 「インフルエンザ菌」傳染病研究講義 115-119,1896(南江堂)
  • 「實布垤里亞(ジフテリア)及虎列刺(コレラ)病治療成績報告」細菌學雑誌 1,3-56,1895
  • 「事業の成績 實布垤里亜・破傷風」傳染病研究所一覧 11-25,1895(傳染病研究所)
  • 「癩病」傳染病研究所一覧 21-22,1895(傳染病研究所)
  • 「ペスト菌ニ就テ」細菌学雑誌 13,923-938,1895
  • 「ペスト病の原因調査 第1報報告」官報 3326, 3327, 367-368,5-7,1894
  • 「ペスト病の原因取調に就て」大日本私立衛生會雑誌 135,634-673,1894
  • 「ペスト病ノ原因調査第一報告」東京醫(医)學會雑誌 8,698-707,1894
  • 「ペスト病調査復命書」官報 3327,5-7,1894
  • 「ペスト病調査復命書」官報 3326,367-368,1894
  • 「傳染病研究所設立の必要」大日本私立衛生會雑誌(110),501-509,1892
  • 「論説」細菌學雑誌 25,787-790,1887
  • 「赤痢菌原因探究」東京醫事新誌 410,189-192,1886
  • 「赤痢菌原因探究」東京醫事新誌 409,155-158,1885
  • 「長崎縣下虎列刺病原ノ談」大日本私立衛生會雑誌 31,14-26,1885
  • 「医道論」北里柴三郎記念室史料 2,1878(北里研究所)
  • 「傳染病研究所ノ内務省所管ナラサルヘカラサル事」北里柴三郎論説集 1219-1224
  • 「結核豫防の急務」(1925年4月28日、第1回結核予防デーに東京放送局より放送)、社團法人東京放送局編『ラヂオ講演集 第一輯』日本ラジオ協會、1925年11月、47~49頁

ドイツ留学中の業績編集

以下は北里研究所誌より[17]

  • 日本のコレラ(独文) Dtsch.med.Wschr.,13:921-922,1887.
  • チフス、コレラ菌の酸、アルカリ培地での様態(独文) Z. Hyg., 3:404-426,1888.
  • 敗血中のらせん菌の純培養と重層らせん菌(独文) Cbl. Bakt. Parasit.3,73-75, 1888.
  • コレラ菌の乾燥及び熱にたいする抵抗性 (独文) Z. Hyg., 5, 134-140, 1889.
  • 人糞中コレラ菌の様態 (独文) Z. Hyg., 5, 487-490, 1889.
  • 乳汁中コレラ菌の様態 (独文), Z. Hyg., 5, 491-496, 1889.
  • 人工培養で他種の病原、非病原菌に対するコレラ菌の様態 (独文) Z. Hyg., 6, 1-10, 1889.
  • コレラ菌の乾燥および熱にたいする抵抗性 追加報告 (独文) Z. Hyg., 6, 11-12, 1889.
  • 気腫疽菌培養試験 (独文) Z. Hyg., 6:105-116, 1889.
  • 破傷風の病原菌 (独文) Ztsch. med. Wschr. 15:635-636, 1889.
  • 破傷風菌 (独文) Z. Hyg. 7:225-234, 1889.
  • チフス類似菌に対比し、チフス菌のインドール反応は陰性 (独文) Z. Hyg. 7:515-520, 1889.
  • 麝香菌(独文) Cbl. Bakt. Parasit. 5: 365-369, 1889.
  • 嫌気性菌の新知見 (独文) Z. Hyg., 8:41-47, 1889.
  • 気腫疽菌の固形培地での発育(独文) Z. Hyg., 8:55-61, 1890.
  • 土壌中の深度と炭疽菌芽胞形成性の調査 (独文) Z. Hyg., 8:198-200, 1890.
  • 嫌気性菌の新知見 第2報 破傷風菌 (ワイル共著) (独文) Z. Hyg., 8:404-411, 1890.
  • 動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立 (ベーリング共著) (独文) Dtsch. med. Wschr. 16:1113-1114, 1890.
    • Ueber das Zustandekommen der Diphtherie-Immunität und der Tetanus-Immunität bei Tieren Dr. Behring und Dr. Kitasato , Deutsche Medicinische Wochenshrift 49, 4. December 1890.[18]
  • 嫌気性菌の新知見 第3報 (独文) (ワイル共著) (独文) H. Hyg. 9: 97-102, 1890.
  • 破傷風毒素に関する実験的研究 (独文)Z. Hyg. 10:267-305, 1891.
  • インフルエンザ菌とその培養法 (独文)Dtsch. med. Wschr. 18:28, 1892.
  • 喀痰中の結核菌とその他病原菌の純粋培養 (独文)Z. Hyg. Infectionskrh. 11: 441-444, 1892.
  • 免疫と抗毒性について (ブリーゲル、ワッセルマン共著)(独文) Z. Hyg. Infectionskr. 12: 137-182, 1892.
  • 破傷風動物の治療実験(独文) Z. Hyg. Infectionskr. 12: 256-260, 1892.
  • 結核モルモットのツベルクリン療法 (独文) Z. Hyg. Infectionskr. 12:321-327, 1892.

帰国後に論文になったもの(欧文論文のみ)編集

以下は北里研究所誌より[19]

  • 香港のペスト(ラウソンによる速報)(英文) Lancet, 1894(ii), August 11:325,1894.
  • 腺ペスト菌 (英文) 1894(ii) August 25:428-430,1894.
  • ペスト(中川愛咲共著) (英文) Twentieth Century Practice, vol.7, Infectious Diseases, p.325-352, New York, William Wood & Co., Boston, 1898.
  • 明治32年11月から明治33年1月までの神戸、大阪のペスト流行調査報国 (高木友枝、志賀潔、守屋伍造共著) (独文) 内務省衛生局報 1900年 1-104, 1900.
  • 和牛と結核(牛結核)との関係 (独文) Z. Hyg. Infectionskr. 48:471-484, 1904.
  • 和牛と結核(牛結核)との関係 (英文) Medicine & Technology, Vol.6, 137-148, Miffilin & Co. Boston, 1906.
  • 日本のペスト撲滅対策 (英文) Philippines J. Sci. 1: 465-481, 1906.
  • 日本のペスト撲滅対策 (英文) New York Med. J. 84: 1-29, 1906.
  • 日本のハンセン病 (独文) Zeitschr. Hyg. Infectionskrh. 63:507-516, 1909.
  • 日本の結核病 (独文) Zeitschr. Hyg. Infectionskrh. 63:517-520, 1909.
  • 日本のペスト (独文) Zeitschr. Hyg. Infectionskrh. 64:279-284, 1909.
  • 日本のペスト予防 (英文) Reports of the International Plague Conference, Bureau of Printing, Manila, 244-247, 1912.
  • ペストについて (独文) Berliner klinische Wschr. 41:1881-1884, 1913.

栄誉一覧編集

以下は北里研究所誌より[20]

  • 勲三等瑞宝章 日本 1892年
  • プロフェッソルの称号 プロシア 1892年
  • 勲三等旭日中綬章 日本 1894年
  • ロンドン衛生研究所名誉所員 イギリス 1895年
  • イタリア王国衛生会名誉会員 イタリア 1896年
  • イギリス衛生院名誉会員 イギリス 1896年
  • カタルーニア衛生院名誉会員 スペイン 1898年
  • ロシア陸軍軍医大学校名誉会員 ロシア 1899年
  • ベルリン万国結核中央予防局名誉会員 ドイツ 1901年
  • 国際結核予防協会名誉会員 ドイツ 1902年
  • マニラ医学会名誉会員 フィリピン 1903年
  • アメリカ熱帯医学会名誉会員 アメリカ 1903年
  • ニューヨーク医学会名誉会員 アメリカ 1904年
  • ハーベン学会名誉会員 イギリス 1904年
  • ロンドン伝染病学会名誉会員 イギリス 1904年
  • セントルイス科学協会名誉会員 アメリカ 1904年
  • ロンドン王立内科外科学会(現ロンドン王立医学協会)名誉会員 1905年
  • 勲二等瑞宝章 日本 1906年
  • 帝国学士院会員 日本 1906年
  • ロンドン王立公衆衛生学会名誉会員 イギリス 1907年
  • 第6回国際結核予防会議名誉通信会員 オーストリア 1907年
  • 王立協会外国人会員 イギリス 1908年
  • パトリジー・エキゾーチック学会名誉会員 フランス 1908年
  • 星章赤鷲第二等勲章 ドイツ 1909年
  • ロンドン熱帯病学会及び衛生学会名誉会員 イギリス 1910年
  • ベルリン医学会名誉会員 ドイツ 1910年
  • サン・オラフ第二等甲級勲章 ノルウェー 1910年
  • 熱帯医学会名誉会員 フランス 1912年
  • アメリカフィラデルフィア哲学会会員 アメリカ 1914年
  • コマンドール・ド・ロフドル・ナシオナル・ド・ラ・レジオン・ド・ヌール勲章 フランス 1914年
  • フィラデルフィア自然科学アカデミー通信会員 アメリカ 1914年
  • フランス学士院医学部会員 フランス 1916年
  • 男爵 日本 1924年
  • ハーベン金牌(イギリス王立公衆衛生院) 1925年
  • レニングラード微生物学会名誉会員 ロシア 1926年
  • ウィーン微生物学会名誉会員 オーストリア 1926年
  • レオポルディナ・ドイツ帝国自然科学学士院会員 ドイツ 1926年
  • 国際微生物学会名誉会員 フランス 1930年
  • 勲一等旭日大綬章 日本 1931年

北里柴三郎論説選編集

北里柴三郎読本 上編集

  • 破傷風菌およびそのデモンスツラチオン*緒方氏の脚気バチルレン説を読む*与森林郎書*伝染病研究所設立の必要*演説 赤痢流行について
  • 演説 種痘について*ローベルト・コッホ氏の黴菌学上コレラ診断法の現況*演説 ツツガムシ病原について*演説 ペスト病の原因取り調べについて
  • 演説 免疫試験結果の報告 *演説 コレラ病血清療法について*演説 伝染病予防法大意*発言 牛痘免疫法 天然痘毒素の所在についての質疑
  • 医学博士中浜東一郎君に答う*演説 伝染病予防接種法について*演説 輓今における血清療法の価値*演説 前年中における海外衛生上の報道
  • 演説 ペストについて

北里柴三郎読本 下編集

  • 演説 ペスト予防接種について*免疫血清談*伝染病について*演説 慢性伝染病予防について*伝染病予防に関する2、3の注意
  • 演説 ペスト予防について*演説 流行性脳脊髄膜炎について*演説 2、3の伝染病にたいすつ注意*演説 結核の蔓延および予防
  • ローベルト・コッホ先生*ペスト病予防に関するコッホ氏の意見*演説 日本に於けるペスト蚤説の証明*欧州視察談*演説 伝染病予防について
  • 演説 腸チフス予防に関する注意*故恩師ローベルト・コッホ先生を弔う*医師試験と医科大学*伝染病研究所の内務省所管ならざるべららざる事
  • 労働者の保護*結核病について*談話 伝染病研究所辞職の理由*陳情書*挨拶 伝染病研究所全職員に対する告別*北里研究所設立趣意書
  • 挨拶 北里研究所設立披露*演説 結核療法の進歩*演説 結核の蔓延およびその予防*開所の辞*演説 学問の神聖と独立*講演 コレラ研究の回顧
  • 講演 コレラ*講演 ペスト*医師奮起の要望

人脈編集

恩師・知友編集

以下は北里研究所誌より[21]

  • コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルト オランダ予備海軍軍医。オランダ館の医師として来日。1866年から1870年まで徳川幕府の依頼で長崎医学校の前身の精得館で教鞭をとり、1871年から3年間熊本の医学校で教鞭をとった。北里はマンスフェルトに呼ばれ、特別な教育を受け、2年目からマンスフェルトの講義の通訳を務めたり、講義録を作成した。後年、北里が有名になって母国に帰ったマンスフェルトに会っている[22]
  • ローベルト・コッホ 世界的な細菌学者で北里の恩師。1908年に来日した時は、明治天皇、森鴎外、北里などから、国家的歓待を受けている。鎌倉にコッホ碑、国立伝染病研究所の構内にコッホ・北里神社がある。
  • 福沢諭吉 北里のために伝染病研究所を建て、その運営のために結核専門病院である「土筆ヶ丘養生園」を建てた。また、伝染病研究所の近所に自らの子息の一人を住まわせた。
  • 森村市左衛門 福沢諭吉の求めに応じて私立伝染病研究所に多額の寄付をした。
  • 長与専斎 長崎でマンスフェルトに師事したので北里の先輩にあたる。文部省および内務省の医務局長として活躍した。北里が最初に就職した時に世話になった。
  • 長谷川泰 内務省医務局長をへて衆議院議員。伝染病研究所問題に関与した。
  • 後藤新平 医師。内務省に入ったのは北里の3か月前。ライバルであったが、コッホより北里に師事するようにいわれ、親しくなり終生の友となる。内務省衛生局長、東京市長を歴任。
  • 清浦奎吾 同郷の政治家。首相を務める。政治的に、北里の後ろ盾となる。
  • 徳富蘇峰 同郷の文学者。郷土の北里の胸像の文字は徳富による。
  • 山根文策 北里の東大の同級生。横浜十全病院の院長であったが、土筆ガ丘養生園の診療に加勢。長女を北里の次男に嫁がせている。
  • 隈川宗雄 北里の東大の同級生。生化学教授。
  • 荒木寅三郎 ドイツ留学中に知り合う。北里が学費の援助をした。長い間協力関係があった。
  • 塩原又策 三共株式会社の創始者。
  • 高峰譲吉 アドレナリンの発見者。手紙で情報の交換を行う。
  • 木下謙次郎 食通仲間。北里は木下の「美味求真」の序文を書いている。
  • ルイ・パスツール 1892年北里は帰国に際し、パスツールに会いにいっている。有名な細菌学者であるが、ドイツ語ができなかったのでコッホとの確執が生じた。
  • パウル・エールリッヒ 北里の兄弟子。1908年免疫学でノーベル賞を受けている。
  • エミール・フォン・ベーリング (1854 - 1917) 北里との共著で1901年第1回ノーベル賞医学生理学賞を受けている。
  • ほかにゲオルク・ガフキーウィルヘルム・レフレルアウグスト・フォン・ワッセルマンウィリアム・ウェルチイリヤ・メチニコフなどと文通がある。

後進の育成編集

  • 石神亨 (1857 - 1918) 北里の熊本医学校時代の同輩。慈恵病院を経て、海軍軍医、北里の伝染病研究所でツツガムシ病、結核、ペストを研究。北里を助けた。
  • 梅野信吉 (1862 - 1930) 獣医。1899年国立伝染病研究所に入所。ジフテリア免疫血清を作るなど活躍した。
  • 高木友枝 (1858 - 1943) 北里の東大時代2年後輩。伝染病研究所の助手。ペスト調査団として北里と石神が香港に派遣されたが、石神が発病したので、香港に派遣された。その後台湾の電力会社社長になる。
  • 浅川範彦 (1865 - 1907) 高知医学校、済生学舎を経て医師開業試験に合格。ドイツ語を勉強した。伝染病研究所に入所。ツツガムシ病、破傷風を研究、欧米に先駆け腸チフス診断液を作ったが42歳の若さで他界した。
  • 北島多一 (1870 - 1956) 東京大学卒業。伝染病研究所に入所。ドイツ留学ではベーリングの下で研究。帰国後ハブ血清療法を研究。北里研究所、慶応義塾大学医学部、中央衛生会、日本医師会、済生会等、すべて北里の跡を継ぎ、その長になっている。
  • 志賀潔 (1871 - 1957) 東大卒業後、伝染病研究所に入所。赤痢菌を発見。エールリッヒの下で研究。トリパノゾーマ原虫と色素を用い、エールリッヒが考えていた化学療法が有効であることを証明した。
  • 秦佐八郎 (1973 - 1938) 岡山の医学部を卒業。伝染病研究所に入所。ペストを研究。ドイツではワッセルマンの下で免疫学を研究。有功なサルバルサンを発見。
  • 野口英世 (1876 - 1928) 済生学舎で勉強。医師開業試験に合格。1898年伝染病研究所に入所。ペスト患者を発見し、ペスト菌を確認し、ペストの蔓延を防いだ。アメリカに留学したいというので、北里は知友5名宛ての紹介状を書いた。最初は臨時職員であったが、北里に礼状を書いている。ペンシルベニア大学のサイモン・フレクスナーの下で業績をあげ、正規職員になっている。
  • 宮島幹之助 (1872 - 1944) 医学から動物学に転向。国立伝染病研究所に入所後、マラリア、ツツガムシ病、日本住血吸虫、ワイル氏病を研究した。国際アヘン中央委員会委員、代議士としても活躍した。
  • 高野六郎 (1884 - 1960) 医師。国立伝染病研究所に入所。補体作用における特殊なメカニズム、コレラ菌と腸チフス菌の菌体毒素と菌体成分、サルバルサンなどを研究。北里研究所創立に参加。慶応大学医学部教授。厚生省予防局長。北里研究所の第3代所長を務める。
  • 大谷彬亮 (1880 - 1939) 京都大学卒業。国立伝染病研究所、ドイツ留学。北里研究所内科部長。慶応大学内科教授。養生園園長勤務。
  • 後藤格次 (1889 - 1969) 東京大学農学部出身。国立伝染病研究所、北里研究所で研究。サルバルサンの国内製造を目指して成功。
  • 小林六造 (1887 - 1969) 京都大学出身。伝染病研究所入所。破傷風血清、淋菌ワクチンを研究。慶応大学教授。国立予防研究所所長。らい研究所長を務める。
  • 古賀玄三郎 (1879 - 1920) 京都大学出身。伝染病研究所に入所。結核のチアノクプロール療法を創始。
  • 柴山五郎作 (1871 - 1913) 東大卒業後伝染病研究所入所。コレラとペストを研究。
  • 照内豊 (1873 - 1936) 東大卒業後伝染病研究所に入所。医化学を研究。脚気ビタミンの研究で知られる。
  • 肥田音市 (1880 - 1954) 済生学舎出身。国立伝染病研究所でジフテリアを研究。
  • 草間滋 (1879 - 1936) 東大卒業後病理学を専攻。ドイツ留学ではフライブルク大学で勉強。北里研究所部長。1919年より慶応大学病理学教授。多くの俊英が集まった。
  • 田端重晟 (1864 - 1945) 結核病院養生院の事務長。蓄財をよくし、北里研究所の設立に役にたった。
  • 緒方収二郎 (1857 - 1942) 緒方洪庵の六男。養生園の医師。
  • 田尻寅雄 (1866 - 1947) 第五高等中学医学校卒後、養生園・伝染病研究所助手として細菌学を研究。回春病院初代院長。

その他編集

日本を代表する医学者として野口英世と並び、当時は世界的に有名とまではいかなくとも、著名であった人物である。また野口は北里研究所に研究員として勤務しており、柴三郎とは形式上師弟関係である。

またテルモの筆頭設立発起人でもあり、CMに度々登場していたこともある。

参考文献編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ ドイツ語で「雷おやじ」(der Donner)の意。
  2. ^ 財団のウェブ・ページのエミール・ヴォン・ベーリングのBiography[1]には柴三郎の名が共同研究者として記述されている。
  3. ^ ノーベル財団の資料(Mahatma Gandhi, the Missing Laureate)には、「1960年までノーベル平和賞はほぼ排他的に欧米人に与えられた」と記述されている(ただし「人種差別が原因」とは記していない)が、生理学・医学賞については特にそのような言及はない。
  4. ^ 大村によると11月とある。
  5. ^ 大村によると帰国は1892年(明治25年)5月28日。11月、内務省医務局に復職。1892年(明治25年)10月、福沢諭吉、森村市左衛門の援助を受け芝公園内に私立伝染病研究所を設立。11月30日、大日本私立衛生会の委嘱を受け伝染病研究所の所長に就任。1893年(明治26年)9月、日本最初の結核サナトリウム「土筆ヶ岡養生園」を設立。(北里研究所病院の前身)
  6. ^ 北里のほぼ同じ成績が1907年の増田勇の著書に引用されている。
  7. ^ 1885年の業績までは内務省時代である
  8. ^ 内容は北里柴三郎伝と北里柴三郎論説編(前編)で底本は前は1932年に非売品として刊行された北里柴三郎伝と1978年の北里柴三郎論説集である。前の方は北里柴三郎の名前があるが、宮島幹之助と高野六郎が執筆したことがわかっている。旧版は非売品であったので、殆どの公共図書館に所蔵されていない。

出典編集

  1. ^ 読売新聞』1988年3月28日。
  2. ^ 大村 & 宇津野 2003, p.12
  3. ^ 大村 & 宇津野 2003, p.16
  4. ^ 大村 & 宇津野 2003, pp.22-23
  5. ^ 大村 & 宇津野 2003, p.25
  6. ^ 大村 & 宇津野 2003, p.36
  7. ^ a b 効果に注目、「抗体医薬」asahi.comアスパラクラブaサロン「科学面にようこそ」
  8. ^ 「博士授与式」東京日日新聞明治24年8月25日『日本全国諸会社役員録. 第回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  9. ^ ノーベル賞0人vs19人…韓国30年、日本146年基礎科学の差(1) 中央日報 2014年10月10日
  10. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  11. ^ 『官報』第3439号「叙任及辞令」1924年2月13日。
  12. ^ 大村 & 宇津野 2003, pp.22-23
  13. ^ 犀川[1999:61]
  14. ^ 山本[1993:32]
  15. ^ 大村 & 宇津野 2003, p.104
  16. ^ 大村 & 宇津野 2003, p.31
  17. ^ 大村 & 宇津野 2003, pp.50-53
  18. ^ 大村[2003:60]
  19. ^ 大村 & 宇津野 2003, pp.54-551
  20. ^ 大村 & 宇津野 2003, p.160
  21. ^ 大村 & 宇津野 2003, pp.138-158
  22. ^ 大村[2003:138]

関連項目編集

外部リンク編集