北野 憲造(きたの けんぞう、1889年(明治22年)8月24日 - 1960年(昭和35年)7月25日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

北野 憲造
生誕 1889年8月24日
大日本帝国の旗 大日本帝国 滋賀県
死没 (1960-07-25) 1960年7月25日(70歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1910 - 1945
最終階級 陸軍中将
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経歴

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滋賀県出身。税務署長・北野本次郎の息子として生まれる。彦根中学校大阪陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第38連隊付となる。参謀本部付勤務などを経て、1919年(大正8年)11月、陸軍大学校(31期)を卒業した。

教育総監部付勤務、教育総監部課員、ドイツ駐在、教育総監部課員、歩兵第3連隊大隊長、教育総監部課員、陸軍省人事局課員などを歴任し、1933年(昭和8年)8月、歩兵大佐に昇進し陸士本科生徒隊長となった。

1935年(昭和10年)3月、歩兵第37連隊長となり、1937年(昭和12年)8月、陸軍少将に進級し琿春駐屯隊長に就任。1938年(昭和13年)3月、朝鮮軍参謀長となり、支那駐屯憲兵隊司令官を経て、1939年(昭和14年)10月、陸軍中将に進んだ。1940年(昭和15年)7月、第4師団長に親補され中国戦線で活動した。

1942年(昭和17年)7月、陸軍公主嶺学校長に就任し、第19軍司令官を経て、陸士校長として終戦を迎えた。1945年(昭和20年)9月、第12方面軍東部軍管区司令官となり、次いで東部復員連絡局長を勤め、1946年(昭和21年)3月に復員した。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

栄典

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位階
勲章

脚注

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  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。
  2. ^ 『官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。
  3. ^ 『官報』第460号「叙任及辞令」1914年02月12日。
  4. ^ 『官報』第1988号「叙任及辞令」1919年03月21日。
  5. ^ 『官報』第3533号「叙任及辞令」1924年6月4日。
  6. ^ 『官報』第3208号「叙任及辞令」1937年9月10日。
  7. ^ 『官報』第3861号「叙任及辞令」1939年11月17日。
  8. ^ 『官報』第4506号「叙任及辞令」1942年1月19日。
  9. ^ 『官報』第4703号「叙任及辞令」1942年9月11日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。