千代ヶ様城(ちよがためしじょう)は、富山県砺波市庄川町庄にあった日本の城。砺波市登録「ふるさと文化財」の史跡登録地[1]とやま城郭カードNo.41[2][3]

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千代ヶ様城
富山県
千代ヶ様城の主郭
千代ヶ様城の主郭
城郭構造 山城
築城主 桃井直常
築城年 正平年間(1346年 - 1369年
主な改修者 石黒氏(壇石黒氏)?
主な城主 桃井氏、石黒氏、神保氏?
廃城年 戦国期末期か
遺構 曲輪土塁堀切切岸台?、虎口
指定文化財 未指定
登録文化財 砺波市ふるさと文化財(史跡
位置 北緯36度34分53秒 東経136度59分52秒 / 北緯36.58139度 東経136.99778度 / 36.58139; 136.99778座標: 北緯36度34分53秒 東経136度59分52秒 / 北緯36.58139度 東経136.99778度 / 36.58139; 136.99778
地図
千代ヶ様城の位置(富山県内)
千代ヶ様城
千代ヶ様城
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規模 編集

標高334.5メートルの三条山山頂部に築かれた山城。比高差は230メートル。北西約1.5キロメートルに在った越中国庄ノ城(壇城)の詰城とされている。山頂から続く2本の尾根上に展開しており、要所要所は堀切によって区切られている。山頂部に在る曲輪は狭く、台であったか。その周囲には急な切岸が見られる。「櫓台」から庄ノ城方面に伸びる尾根上に設けられた郭は最も大きく、2本の堀切によって入り組んだ構造となっており、虎口に面する箇所には土塁が築かれている。「櫓台」からその反対に伸びる尾根上に設けられた郭はその両側を急な切岸によって防備し、周囲に土塁が見られる。北側の麓には城兵の飲み水として使われたと言われる小さな池が在る。

歴史 編集

名前の由来は不明。

正平年間に南朝方の越中守護桃井直常によって庄ノ城と共に築かれたと思われる。

応安元年(1368年)8月、越中国守護に任じられた斯波義将が桃井直常討伐を開始。これに敗れた桃井直常はそのまま北朝方の吉見氏が治める能登国へと侵攻するも激しい抵抗に遭い撤退。直常の子桃井直和は再び転じて加賀国守護富樫昌家が拠る加賀国富樫城を攻めた。能登国守護吉見氏頼の救援により敗走した直和は越中国一乗寺城に籠るも追撃を退けられず、千代ヶ様城へと退いた。吉見氏は追撃の手を緩めず越中に兵を進め、応安2年(1369年9月24日千代ヶ様城は越中国井口城と共に落城し、直和は越中国松倉城へと落ち延びた。

廃城時期などは不明だが、曲輪の周囲に土塁を巡らせる等戦国期の特徴も見受けられ、当時の庄ノ城の主であった石黒氏が改修して使用していた事を窺わせる。廃城時期は戦国末期まで下るであろう。

現在 編集

展望台、案内板が立てられている。指定史跡ではないが、2011年(平成23年)に「砺波市ふるさと文化財」(史跡)に登録されている[4]。また「とやま城郭カード」のNo.41に選ばれている[5]

脚注 編集

  1. ^ 「砺波市ふるさと文化財登録リスト」砺波市公式HP
  2. ^ 「とやま城郭カードが完成しました!」砺波市公式HP
  3. ^ 「とやま城郭カード一覧」砺波市公式HP
  4. ^ 「砺波市ふるさと文化財」砺波市教育委員会公式HP『デジタルミュージアム砺波正倉』
  5. ^ 砺波市公式HP

関連項目 編集