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千日デパート火災

1972年に日本の大阪府大阪市で発生したビル火災

千日デパート火災(せんにちデパートかさい)は、1972年(昭和47年)5月13日[3]大阪府大阪市南区(現在の中央区千日前[16]千日デパート日本ドリーム観光経営、鉄骨鉄筋コンクリート造、延床面積2万7514.64平方メートル、地下1階、地上7階建、屋上塔屋3階建[16])で起きたビル火災である[17]。死者118名・負傷者81名[8][9][10][11][18][19]にのぼる日本のビル火災史上最悪の大惨事となった[注釈 6]。「千日デパートビル火災[注釈 7]という呼称も使われる[20]。また、地名から「千日前デパート火災」とも呼ばれている。[要出典]

千日デパート火災
Sennichi Department Store Building aerial photograph.jpg
火災焼失後の千日デパートビル(1975年3月4日撮影)
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
現場 大阪府大阪市南区難波新地三番町1番地および四番町1番地[1][2][注釈 1]
発生日 1972年(昭和47年)5月13日[3]
22時27分(大阪市消防局推定)[4] (JST)
類焼面積 8763 m2[5]
原因 不明(大阪地方裁判所および大阪高等裁判所判断)[6][7][注釈 2][注釈 3]
死者 118人[8][9][10][11]
負傷者 81人[10][注釈 4]
最高裁判所判例
事件名 業務上過失致死傷事件
事件番号 昭和62(あ)1480
1991年(平成3年)11月29日
判例集 刑集第44巻8号871頁
裁判要旨
  • デパート閉店後に電気工事が行われていたデパートビルの3階から火災が発生し、それによる大量の煙が7階で営業中のキャバレー(アルバイトサロン[注釈 5])の店内に流入したことにより、多数の死傷者が生じた火災において、デパートの管理課長には防火管理者として、3階の防火区画シャッター等を可能な範囲で閉鎖し、保安係員等を工事に立ちあわせ、出火が発生した際には、すぐさまキャバレー側に火災発生を連絡させる等の体制を採るべき注意義務を怠った過失がある[8]
  • キャバレーの支配人には、防火管理者として階下において火災が発生した際に適切に客等を避難誘導できるように普段から避難誘導訓練を実施しておくべき注意義務を怠った過失がある[8]
  • キャバレーを経営する会社の代表取締役には、管理権原者として、防火管理者が防火管理業務を適切に実施しているかどうかを具体的に監督すべき注意義務を怠った過失がある[12]
  • それぞれ業務上過失致死傷罪が成立する[13][14]
第一小法廷
裁判長 大堀誠一[15]
陪席裁判官 角田禮次郎[15]大内恒夫[15]四ッ谷巌[15]橋元四郎平[15]
意見
多数意見 全員一致[15]
意見 なし[15]
反対意見 なし[15]
参照法条
刑法211条
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千日デパート跡地に建設されたエスカールなんばビル

目次

概要編集

1972年(昭和47年)5月13日、千日デパート閉店(21時)から1時間30分ほど経った22時27分ごろ[4]、3階ニチイ千日前店の北東側の布団売場付近より出火[17][21][22]。火は防火シャッターが閉まっていなかったエスカレーター開口部や階段出入口から上下階に燃え広がり、フラッシュオーバーを起こしながら2階から4階までの範囲に拡大した[17][23]。一方、火災で燃焼した建材や内装材、化繊商品から発生した一酸化炭素と有毒ガスを含んだ大量の煙がエレベーターシャフトや階段、空調ダクトを通じて上層階へ上昇し[24][25]、7階で営業していたアルバイトサロン[注釈 5]「チャイナサロン・プレイタウン(千土地観光経営)」に流れ込んだ[26][27]。店内にいた181人[注釈 8]の客やホステス、従業員らは、火災の通報を受けられずに逃げ遅れ、煙に巻かれて7階に取り残された[28]。その結果、一酸化炭素中毒や窓からの飛び降り、誤った使用方法によって脱出用の救助袋から地上へ落下するなどして死者118名、負傷者81名(プレイタウン関係者47名、消防士27名、警察官6名、通行人1名)を出す惨事となった[8][28][29]

7階からの生還者は、消防隊のはしご車やサルベージシート(救助幕)で救助された者が53名(はしご車50名、サルベージシート3名)[30][31]、階段またはエレベーターを使用するなどして自力で7階から脱出した者が8名(救助袋の上を馬乗りになって降下して助かった5名を含む)[28][31]、7階窓からデパート東側の商店街アーケード屋根へ飛び降りて助かった者が2名の合計63名である[31]。大阪市消防局は、管内の全消防車両の3分の1にあたる85台(救急車12台を含む)を消火作業に投入[5][32]。はしご車は、管内保有の7台が出場した[5][33]。消火作業にあたった消防士は596名にのぼった[5]。火災は翌朝14日5時43分に鎮圧[5]。そして火災発生から9時間14分後の同日7時41分に鎮火したと一旦は発表された。しかし15日深夜に6階で再び小火が発生したことから消火及び防御活動が再開されたため、最終的に鎮火が確認されたのは15日17時30分であった。延焼範囲は2階から4階までで、床面積合計8,763平方メートルが焼失した[5]

火災の原因は、3階で電気工事を行っていた工事関係者によるタバコの不始末であると推定されたことから[34][35]、火災発生翌日の14日夜、電気工事監督の男が現住建造物重過失失火などの容疑で大阪府警に逮捕された[36]。しかしながら、失火の明確な証拠は無く、火災発生時の容疑者の行動が特定できないことや、警察での取調べに対して供述を二転三転させるなど信用性が疑われたために、電気工事監督の男は不起訴処分となった[37]。のちの防火責任者等に対する刑事裁判の判決理由において、出火原因は不明とされた[7][6]。また日本ドリーム観光・千日デパート管理部の管理部次長と同管理課長[38]、プレイタウンの支配人[38]、プレイタウンの経営会社代表取締役[38]の計4名が防火管理責任と注意義務を怠ったとして業務上過失致死傷罪で起訴された[36]。公判中に死亡したデパート管理部次長(公訴棄却)を除く3名の被告が、それぞれ一審で無罪となった[39]。その後、検察側が控訴し、控訴審で原判決破棄により有罪となり[40]、上告棄却で3名の有罪が確定した[41]

本件火災の犠牲者遺族会および千日デパートに入店していたテナント業者団体によって、日本ドリーム観光やニチイなどに対して損害賠償訴訟が提起された[42][43]。また日本ドリーム観光とニチイの双方間でも損害賠償訴訟が起こった(提訴と反訴。最終的に双方の間で和解が成立)[44]。遺族会は、日本ドリーム観光が91家族に対して総額18億5千万円の賠償金を支払うことで合意したことを受け、和解に応じた[45]。賠償金は、犠牲者の年齢、地位、職業に関係なく一律に支払うとされた。テナント訴訟は、テナント側が日本ドリーム観光に対して保安管理契約の不履行による損害、休業損失とその補償、商品や資産損失に対する賠償、火災以前と同じ条件で再出店できる保証を求めて争った[46]。その結果、中間判決を経て、求めていた賠償金と保証が一部を除いて認められ[46][47]、新ビルオープンの際には以前と同じ条件で再出店できる保証を日本ドリーム観光に認めさせ、双方の間で即決和解が成立した[48]。テナント側とニチイ間の損害賠償訴訟も双方が和解し、ニチイがテナント側に慰謝料を支払うことで決着した[49]

千日デパートビルは、大阪で有数の高地価な千日前交差点の角地にあり[16][50]、家主の日本ドリーム観光は、この地価に見合う賃料収入を確保すべく、多くのテナントを入店させていた[51]。この結果、全館の防火管理責任体制が不明確となっていた。また日本ドリーム観光は、各テナントから付加使用料名目の共同管理費を徴収し[52]、原則として夜間の宿直を認めなかった[53]。これは同社(日本ドリーム観光・千日デパート管理部)が夜間の保安管理を一括して行うことを意味したが[54]、結局その防火管理体制に手抜かりがあり、火災発見から消防署への通報までは約6分(外部リンク欄の「特異火災事例・千日デパート」参照)と比較的速やかに行われたものの[23]、7階プレイタウンには火災発生の通報と情報がまったく伝わっていなかった[22][33]。その結果、プレイタウン滞在者らの避難行動に大幅な遅れを生じさせ、多数の死傷者を出すに至った[8]。また千日デパートと7階プレイタウンの間で非常時の避難計画を話し合う連絡協議会の設置をおこなったことはなく[55]、共同で避難訓練を実施したこともなかった[55]。さらには非常時の連絡体制すら話し合っていなかった[55][56]。千日デパートの防火管理責任組織および自衛消防隊組織に7階プレイタウンを含めておらず、共同防火管理や共同避難の意識は完全に欠落していた[56][57]。7階プレイタウンについては、火災時に防火管理責任者または従業員らによる避難誘導らしきものは殆ど行われなかった[58]。平素からの避難計画や避難訓練はおざなりで、防火管理責任者(支配人)が下層階で火災が発生した場合を想定して避難経路をあらかじめ決めておくこともしていなかった[22]

さらに千日デパートビル自体は、1932年(昭和7年)に劇場として竣工した大阪歌舞伎座を1958年(昭和33年)に大改装し、商業施設に用途変更した古い建物であるが[16]、1950年(昭和25年)制定の建築基準法の基準に従い、法律の遡及適用の対象になったことから改築の際に法令の基準を満たす改良が施された[59][注釈 9]。それにより1958年開業当初の千日デパートビルは、建築基準法令に適合していた建物であったが[59][60][注釈 9]、法律の改正が第二次(1959年4月)から第四次(1963年7月)へと段階的に実施されていくたびに既存不適格な部分が増えていった[61]。さらには1970年(昭和45年)6月の建築基準法改正(第五次改正)および同年12月の建築基準法施行令の一部改正によって従来よりも既存不適格な状態が多く生じることになった[61]。また消防法および消防法施行令においても既存不適格な状態を多く抱えていた[61]。それらの結果、売場内の防火区画シャッターは自動で作動するものではなく[60]、火元の3階で保安係員が防火区画シャッターを手動で降下できなかったことや[62]スプリンクラー設備が未設置であったことで[63]、火災被害が拡大する要因となった。この事件と翌年起きた大洋デパート火災の出火建物が建築基準法と消防関連法規に対し既存不適格であったことにより、建築基準法および消防法、消防法施行令、消防法施行規則の大幅な改正が行われる契機となった[64][65]

千日デパート火災についての本文を記す前に、千日デパートおよび千日デパートビルと、火災によって多くの犠牲者を出した7階プレイタウンについて説明する。

千日デパートについて編集

千日デパートは、1958年(昭和33年)12月1日に大阪ミナミの繁華街千日前の千日前交差点・南西角に建っていた初代大阪歌舞伎座を改築し、新装開業した複合商業施設である[16]。経営者は日本ドリーム観光(1958年12月当時の社名は千土地興行。1963年に改称)で[16]、個人店舗が数多く出店して専門店街を形成し、その他に劇場、オフィス、催事場、飲食店、遊技場、キャバレーなどがテナントとして入居していた[16]。なおデパートと名乗っているが、旧百貨店法の百貨店業を営む者または百貨店業者には該当しない[16][66]。火災焼失の1972年(昭和47年)5月14日から全館休業状態になった[67]。その後、一度も営業を再開することなく、1980年(昭和55年)1月14日に千日デパートビルの取り壊しが決まり[68]、千日デパートは、13年5か月余りの歴史に幕を降ろすこととなった[68]

千日デパートビルは、鉄骨鉄筋コンクリート屋根構造、地下1階を含む地上7階建で、屋上に塔屋3階建を備えていた[69]。建物の所有者は日本ドリーム観光である。床面積は3,796.64平方メートル[70]、延床面積は2万7514.65平方メートルである[69]。ビルの高さは、地上(GL)から屋上フロア側壁上端までが30.1メートル[71]、屋上塔屋3階までを含めると40.3メートルである[71]。5階から屋上までのビル中央部から西側にかけてのフロアは、その大部分が劇場のエリアで[72]、そのエリアの6階と7階部分は、舞台と客席につき吹き抜け構造になっていた[71]。また劇場エリアの5階部分は客席の床下[71]、屋上は舞台と客席の屋根の部分であった[71][73]。ビルの2階から6階までの北西フロアは、D階段とE階段の間に囲まれたL字型のエリアが中二階構造になっており、独立した別フロアを形成していた[74]。本ビルは、火災発生当時(1972年5月)における消防法施行令防火対象物区分では特定防火対象物4項に分類されていた[注釈 10][注釈 11][75]。火災焼失後は約8年の期間、営業再開もされずに外壁には金網が張り巡らされ野晒し状態のまま放置されていたが[76]、1980年(昭和55年)1月14日に千日デパートビルの取り壊しが決まり、翌2月から解体工事が始まった[68]。翌年4月には解体工事が完了し千日デパートビルは消滅した。1982年(昭和57年)6月20日、跡地に日本ドリーム観光が新たにエスカールビル(地下2階、地上9階建)を建設する運びとなり、その起工式が執り行われた[77]。そして1984年(昭和59年)1月13日に新しいビルはオープンし、その翌日にプランタンなんばの営業が始まった[78]

千日デパートの開業編集

1954年(昭和29年)に千土地興行(日本ドリーム観光の前身)の社長に就任した松尾國三は、その当時において不採算に陥っていた大阪歌舞伎座大阪楽天地[79]の跡地に1932年(昭和7年)9月28日竣工)を閉鎖して新たに新歌舞伎座を難波駅近くの難波新地5番町に建設し[80]、空いた旧大阪歌舞伎座の建物を改造して商業施設に改装する構想を立てた[80]アシベ名店街の成功によって自信を持った松尾は、新装開業させる商業施設を心斎橋の既存百貨店に匹敵する小売店舗の集合ビルにするべく計画をスタートさせた[80]。新しい商業施設は、新歌舞伎座開業予定の1958年(昭和33年)10月に続き、同年12月の開業を目指すこととなった[80]。これが千日デパート誕生のきっかけである。開業前は日本初の大規模ショッピングセンターと銘打ち[81]、当初テナントから賃料と保証金および付加使用料(共同管理費)を徴収する賃貸方式で経営を予定していたため、小売店舗の集合ビルという意味で千日センターと呼ばれるはずだった[82]。ところがテナントの募集に対して応募が低調だったことから、商業施設側が売場を直接経営し、入店するテナントに売場の営業権を与え、商品を納入させて売り上げ金の一定割合をテナントから徴収する納入方式に変更することにした[83]。このことにより千日デパートへ名称を変更して営業する運びとなった[83]。1958年12月の開業当初より千日デパート管理株式会社が営業と管理を担当。1964年(昭和39年)5月以降は日本ドリーム観光の本社組織内に千日デパート管理部を創設し、以降の経営を担っていた。地下1階から地上5階までを商業施設、6階を演芸場千日劇場と食堂、7階を大食堂、屋上は遊戯施設としていた[要出典]。営業時間は朝10時から夜10時までだった[84]。千日デパートは『まいにちせんにち、千日デパート』のコマーシャルソングで知られ[要出典]、また屋上に1960年(昭和35年)から設置された観覧車は大阪の名物となっていた。ビル正面には丸にS(Sen-nichiから)の緑色のマークが掲げられ、千日デパートのシンボルとなっていた[85]

ニチイ入店編集

千日デパートは、日本初の大型ショッピングセンターとして話題を呼び[86]、開店当初は売り上げが好調だった。年中無休で元日から営業するなど買物客から人気を集めた[86]。だが、しばらくすると開店景気も落ち、全体の売り上げは下降線を辿った[86]。そこへ1967年(昭和42年)3月、大手衣料品スーパーニチイ[注釈 12]が4階にテナントとして出店することになった[86]。開業以来、初の大型テナントの入店である。これを機会にニチイ入店の3カ月前、全てのテナントに対する契約が納入方式から賃貸方式に変更された[87]。既存の4階各テナントは、賃料と保証金および付加使用料の新たな支払い契約に応じず、4階フロアから撤退し、4階売場の全てをニチイが独占してニチイ千日前店として営業を始めた[87]。その後ニチイは、同年10月に3階にも出店し大成功を収め、その売り上げは全国のニチイの中で一番になり、千日デパート全体の売り上げも上昇した[86]。なお、3階既存テナントの一部は、開業当初からの賃貸契約業者だったためにデパート側からの立ち退き要請に応じず裁判となったが、後に和解が成立。立ち退かずに引き続き同じ場所での営業が認められた[88]

火災発生当日の千日デパート編集

1972年(昭和47年)5月13日・土曜日の火災発生当日における千日デパートの主な営業形態は、地下1階は食品館、飲食店、直営催事場(人形館)、お化け屋敷と喫茶店を組み合わせた「サタン」(千土地観光経営)[要出典]、1階と2階は126店舗が出店する専門店街[89]、3階と4階はニチイ千日前店[89]、5階は千日デパート直営の100円・200円均一スーパー[70]、6階は遊技場千日劇場跡)[89]、7階はアルバイトサロン[注釈 5]プレイタウン(千土地観光経営)[89]、屋上は遊園地であった[70]。ビルには雑多なテナントが入居し、同じ商業施設内でも各売場ごとに営業者が異なる雑居ビル(寄合百貨店)となっていた[90][91]。この出店営業スタイルは、1958年に開業して以来、変わらずに続いていたものであり、1967年(昭和42年)9月に貸店舗として火災当日の使用状態において建築確認を済ませていた[61]。営業時間は10時から21時まで[92]。7階「プレイタウン」と地下1階の一部飲食店は、デパート閉店以降も23時まで営業していた。定休日は水曜日[92]。7階「プレイタウン」は年中無休である[93]。火災発生当日の1972年(昭和47年)5月13日・土曜日は母の日の前日ということで、デパート正面にはニチイ千日前店の「母の日」商戦宣伝用の垂れ幕「5月14日は母の日です」と「お母様に感謝のプレゼント」が1本ずつ掲げられていた[94]。他に「竹雀の帯・和装品2階」と「南太平洋博・奈良ドリームランド」の宣伝用垂れ幕も掲げられていた[94]。館内のイベントとしては、地下1階催事場で「恐怖の地下室」というスリラー人形展(お化け屋敷)が開催されていた[94]。また5階・直営均一スーパーでは、化粧品メーカーの「100円均一フェア」が開催されていて、「スリラー人形展」と同じく正面入口上部に宣伝用の看板が掲げられていた[94]

千日デパートのフロア構成編集

火災発生当時のフロア構成を以下にまとめた。

火災発生当時・1972年(昭和47年)5月の千日デパートフロア構成[91][95]
フロア 床面積(m2) テナント・設備など
塔屋3階 134.00 企業事務所 電気室 クーリングタワーなど
塔屋2階 156.00 企業事務所 エレベーター機械室など
塔屋1階 200.00 売店 園芸店 ペットショップなど計5店舗
屋上 1,290.00 屋上遊園地など
7階 1,780.00 プレイタウン 空き事務所(元メキシコ領事館) 文書保管庫 空調機械室など
6階 3,350.00 遊技場(ゲームセンター) 千土地観光事務所 千日劇場跡(ボウリング場へ改装中) 従業員食堂など
5階 2,049.00 直営均一スーパー(9店舗) 美容室 ニチイ事務所 ニチイ店員食堂など
4階 3,520.00 ニチイ千日前店 ニチイ事務所 ニチイ商品倉庫 電話交換室 空調機械室など
3階 3,665.00 ニチイ千日前店 店舗(4店舗) ニチイ従業員更衣室 ニチイ寝具呉服倉庫 歯科医院 空調機械室など
2階 3,714.00 店舗(44店舗) 千日デパート事務所 店舗事務所 テナント店員更衣室など
1階 3,796.64 店舗(63店舗) 外周店舗(19店舗)出入口(7か所) 保安室 商品荷捌き場など
地下1階 3,860.00 ニチイ地下食品街 食料品店・飲食店(25店舗) 直営催事場(人形館) 出入口(1か所) 電気室 機械室 重油タンクなど

特筆すべき点は以下のとおりである。

  • 7階プレイタウンを含む各テナントは、千日デパートからフロアを賃借して賃料と保証金を納めて営業していた「賃貸業者」であるが、地下1階の人形館と5階均一スーパーは千日デパートの直営である[69]
  • 千日デパートの管理権原者は、同デパートの店長である[96]。店長は日本ドリーム観光本社の常務取締役の地位にあり、本社総務部長、本社営業企画課長も兼務していた[96]。普段は本社で勤務しており、千日デパート館内に置かれたデパート管理部には週1回程度、短時間顔を出す程度だった[96]。実質的に千日デパートビルの維持管理を統括し、防火管理や設備維持などの業務を担当していたのはデパート管理部次長である[97]。また同デパートビルの防火管理者に選任されていたのはデパート管理部管理課長である[98]。同管理課長は、1967年(昭和42年)3月1日から1968年(昭和43年)10月ころまでと、1969年(昭和44年)4月30日から本件火災当日まで防火管理者の地位に就き、店長及び管理部次長の指揮監督を受け、同ビルの防火管理に当たっていた[96]
  • 千日デパートでは、大阪市消防局南消防署提出の消防計画書のなかに記載されている防火管理責任組織表に従い、防火管理者を7階を除く各階売場の27管理区域に置き、各設備を9つに区分して防火管理をおこなうことになっていた[99]。また千日デパートの防火管理規定では、デパートビルに出入りする業者にも当該規定を適用することになっていた[56]
  • 7階プレイタウンは、千日デパートのオーナー会社である日本ドリーム観光が全額出資(資本金100万円)して設立した千土地観光が経営するアルバイトサロンである[注釈 5][1]。千土地観光は、日本ドリーム観光の風俗営業部門の経営を担っていた[1]。プレイタウンは、千土地観光が経営する風俗店10店舗のうちの一つであり、親会社(日本ドリーム観光)が経営する千日デパートビルの7階フロアの一部を賃借して営業していた[1]。またそれらの10店舗は、すべて親会社の日本ドリーム観光の資産であり、子会社の千土地観光が各店舗を親会社から賃借して営業していた[1]。つまり7階プレイタウンは、千日デパートにとって「身内のテナント」であるわけだが、なぜかプレイタウンは千日デパートの自衛消防組織および防火管理責任組織からは切り離されており、それらの組織表には組み込まれていなかった[注釈 13][56][57]。千日デパートの防火管理上において7階プレイタウンは、テナントの一つであるにもかかわらず放置されたも同然の状態に置かれていた。
  • 火災当日1972年(昭和47年)5月13日の時点で、千日デパートは以下の工事を行っていた。
    • ニチイ千日前店の3階と4階の売場では、同月22日から1週間かけて売場改装に伴う大掛かりな電気工事が計画されていて、火災発生1週間前の5月6日から準備工事が始まっていた。火災当日も準備工事はおこなわれる予定になっていて、数回に分けて工事が進められていた[100][101]。デパート閉店後の夜間も工事を予定していて21時から翌朝4時まで作業する手筈になっていた[102]。この電気工事は、ニチイ千日前店が千日デパートから賃借している3階と4階売場の改装工事を計画したことから1972年(昭和47年)3月に日本ドリーム観光から工事の承認を受けた。だがニチイ千日前店は、実際の工事に際して日時や内容、人員等に関する届をデパート側に提出していなかった。一方で工事を請け負った元請会社の工事監督は、5月6日から同月26日までは夜間工事になることから配慮を願う旨の「入店願い」を書面で提出していた。またこの一連の電気工事にさきがけて千日デパート管理部次長からニチイ千日前店店長に対し、防火の要望書が渡されていた[103]。さらに火災前日の12日には、千日デパート側がニチイと工事業者を集めて工事の要望に関して再度話し合っている[103]。特に喫煙については所定の場所に水を入れた容器を置き、そこで喫煙すること、また吸殻はその容器に捨てるように申し渡していた[1][100]
    • 6階では千日劇場跡をボウリング場へ改装する工事中だった。火災当日は22時30分までの予定で工事が進められていた[70][104]

千日デパートビルの設備編集

千日デパートビルの出入口、階段、エレベーター、エスカレーター、空調設備の設置状況は以下のとおりであった。

  • 出入口について
    • 千日デパートビルの出入口は、1階に合計7個所設けられていた[105]
    • 南東出入口をA、その西隣の出入口をB、南西出入口をC、西側出入口をD、北西出入口をE、北東出入口をFと名付けていた[70]。なお北東正面入口(Sマークの直下)にはアルファベット名称はない[70]。それぞれの出入口のアルファベット名称は、各階段の呼称と対応している[70]。B出入口は「プレイタウン」専用、D出入口は従業員通用口である[70]。なお、地下1階には、E階段東側に隣接した位置に「ミナミ地下街・虹のまち」(現なんばウォーク)に直結した出入口が1個所設けられていた[106]
  • 階段について
    • 千日デパートビルの主な階段は、全部で6個所設けられていた[70]
    • それぞれA、B、C、D、E、F階段と名付けられており、AとF階段は、それぞれ1階から屋上まで、B、D、E階段が地下1階から屋上まで、C階段が1階から4階まで通じていたところ、「プレイタウン」に直接通じている階段はA、B、E、Fの4階段である[70]。なお各階段のアルファベット名称は、各出入口の呼称に対応している[70]
    • B階段は「プレイタウン」専用階段となっており、「プレイタウン」従業員(ホステス)の退勤時と、1階「プレイタウン」専用出入口(B出入口)と地下1階「プレイタウン」専用エレベーターホールの間を利用する客と従業員が利用していた。B階段の7階出入口は、エレベーターホールに面したクロークの奥に設けられていた[107]。このB階段は防火扉(鉄扉)が二重に設けられたバルコニー付きの特別避難階段である。
    • B階段は、各フロアに出入りするための防火扉が1階を除いて各階に設けられていたが[70]、事実上「プレイタウン」専用階段になっていたことから7階を除く各階の出入口(2枚ある防火扉の両方)は、常時施錠されていた[108][109]。またA、E、F階段の7階「プレイタウン」の各出入口も常時施錠されていた。この措置は、千日デパート側が「プレイタウン」の客や従業員らがデパートの売り場を通り抜けて店(プレイタウン)に出入りすることを普段から認めていなかったことによって取り決めがなされていた[56]
    • 7階「プレイタウン」に出入りするには、まず1階プレイタウン専用出入口(B出入口)からB階段を使って地下1階へ降り、「プレイタウン」専用エレベーターホールから、2基の「プレイタウン」専用エレベーターのうち、どちらか一つを使って7階まで昇る必要があった[110]。そのために1階のB階段にはフロア(デパート1階売場)に繋がる防火扉は設けていなかった[注釈 14]
  • エレベーターについて
    • 千日デパートビルのエレベーターは、全部で8基が設置されていた[111]
    • ビル南東部分(塔屋の直下)のA階段周辺に4基が設置されていた[107]。A階段の西隣に単独で1基、A階段の北側正面に3基が横一列に設置されていた。そのうちの2基(ビル南側と北側東寄り)は、地下1階から7階を直通で結ぶ「プレイタウン」専用である[111]。南側エレベーター(以降A南エレベーターと呼ぶ)と北側東寄りエレベーター(以降A北東エレベーターと呼ぶ)は「プレイタウン」専用なので、地下1階「プレイタウン」エレベーターホールと7階「プレイタウン」エレベーターホール以外に各フロアの出入口を設けていない[111]
    • その他2基の北側中央エレベーターと北側西寄りエレベーターは、地下1階から屋上まで通じるデパート専用エレベーターである。こちらは7階だけに出入口を設けていない[111]
    • ビル西部分のC階段周辺に3基のエレベーターが設置され(以降Cエレベーターと呼ぶ)、地下1階から4階まで通じていた[111]。それらの3基はデパート専用であるが、4階止まりなので7階には通じていない[112]
    • ビル北西部分のD階段周辺に地下1階から屋上を結ぶデパート専用エレベーターが1基設置されていた[111]。このエレベーターは7階にも出入口があるものの、「プレイタウン」関係者が利用できる場所に設置されていなかった。
  • エスカレーターについて
    • エスカレーターは、ビルのほぼ中央付近に1階から6階までの間に合計8基が設置されていた[111]。地下1階と7階には設置されていなかった[71][113]。1階から4階までの間には、上下方向にエスカレーターが設置されていたが、4階から6階までは上り一方向のみで下り方向の設置はなかった[114]。1階南側の上りエスカレーターを1号、1階北側の下りエスカレーターを2号というように、上り方向を奇数、下り方向を偶数で呼んでいた[114]。5階から6階を結ぶ上りエスカレーター1基については、上り方向のみの単独設置なので「8号」と呼ばれていた[114]
  • 空調設備について
    • 千日デパートビルの空調設備は、地下1階と7階に中央方式(単一ダクト調和方式)による空気調和機(以降「空調機」と記す)が各1台ずつ設置され[115]、計2台で全館(塔屋および一部階の特定エリアを除く)の給気と排気がおこなわれていた[115]
    • 地下1階の空調機(A)は、地下1階から3階までの給排気を(3階は排気のみ)[115]、また7階の空調機(B)は、3階から7階までの給排気をおこなっていた。なお4階の給気系統および5階の排気系統は設置されていなかった[115]。2台の空調機の稼働は、デパート閉店10分前の20時50分までだった。したがって同ビル7階で23時まで営業していた「プレイタウン」には、20時50分以降の中央方式による給排気はおこなわれていなかった[116]
    • 7階設置の空調機(B)については、主なダクト系統は4つあり、デパートビル南西側を空調する系統、以下同様に北西側、南東側、北東側とに別れていた[117]。なお地下1階の空調機(A)のダクト系統については、7階の空調とは関係ないので詳細は省略する[117]
    • 7階プレイタウンの空調に関係しているダクト系統は、空調機(B)「給排気系の北東系統」で[115]、特に同系統の排気系ダクト(リターンダクト)がデパートビルの北側3階、同4階、同6階、同7階に1か所ずつ設置された排気吸入口を垂直に繋いでいた[115]。7階の排気吸入口は、プレイタウン事務所前に設置され、店内の空気を吸入して4階を経由し7階別フロア(E階段西側の空調機械室)に設置された空調機(B)へ戻していた[115]
    • 7階に通じている北東系統の給気ダクトは、7階の空調機(B)から配管される際に一旦4階を経由し、5階から7階の各フロアへ空気を送るようになっていた[115]。同様に同系統の排気ダクトも4階を経由してから7階の空調機(B)へ戻っていた[115]
    • 北東系排気ダクト内部の3か所には、防火ダンパーが備えられていて、4階排気吸入口の上部および5階と6階のスラブ付近に設置されていた[115]。それらの防火ダンパーは、火災の際には華氏165度(摂氏74度)で2か所のヒューズが溶断することでダンパーが作動し、ダクト内部を遮蔽する仕組みになっていた[115]
    • 3階および4階のニチイ千日前店では、独自の空調パッケージによる給気がおこなわれていて、3階の北側と南側に各1台ずつ、4階の南側に1台が設置されていた[115]。4階に関してはデパートビルからの給気は無く(排気系統はあり)、ニチイ専用の空調パッケージのみで給気がおこなわれていた[115]。また7階プレイタウンにも独自の空調パッケージが1台設置され、ホール内の給気をおこなっていた[115]。ニチイ千日前店とプレイタウンの空調は、デパートビル館内のものと独自設置のものとが混在していた[115]。このように同ビルの空調設備の設置状況は、建物の規模が大きく古いこと、また改築や用途変更などの影響で非常に複雑なものになっていた[118]

消防用設備の設置状況編集

千日デパートビルの消防用設備(消火器、消火栓、火災報知機、熱式感知器、スプリンクラー、避難器具、放送スピーカー)の設置状況は、以下のとおりであった。(表中の「―」は設置無しを表す。また「消火栓」括弧内の数値は消防隊専用栓の数を表す。)

千日デパートの消防用設備設置状況(塔屋2階と塔屋3階を除く)[111][119]
フロア 消火器 消火栓 火災報知機 熱式感知器 スプリンクラー 避難器具 放送スピーカー
屋上(塔屋1階) 9 1(1) 1 5 救助袋1
7階 13 3(2) 1 8 救助袋1 (15)
6階 5 5(3) 2 17 あり 救助袋2 2
5階 13 3(2) 2 3 救助袋1 2
4階 18 6(3) 4 救助袋2 4
3階 24 7(4) 5 救助袋、縄はしご各1 4
2階 23 6(3) 4 縄はしご1 5
1階 23 6(3) 4 1 あり 6
地下1階 38 7(4) 3 18 あり 3
  • スプリンクラー(散水器)の設置については、全館に設置されているわけではなかったが、地下1階と1階のF階段周辺、6階旧千日劇場跡の舞台、楽屋、映写室には例外的に設置されていた。これは1958年(昭和33年)のデパートビル改築の際に、当時の消防法施行条例の基準に従って設置されたものである。また地下1階と1階のF階段出入口周辺に設置されていることについては、階段室の区画が無いことに対する予防的措置による[120][注釈 15][注釈 16]
  • 避難口誘導灯、通路誘導灯、誘導標識については、全館各階フロアの必要な個所に設置されていた[119]
  • 警報ベルは、地下1階電気室の主受信機に1台、1階デパート保安室の副受信機に1台が設置されていた。全館に鳴動する警報ベルの設置は無かった[119]
  • 非常放送用の防災アンプは、1階保安室に設置されていた。しかし、7階プレイタウンだけは非常放送システムの対象から外されており、もし全館一斉の非常放送があったとしてもプレイタウンでは聴くことができない状態だった。また、そのシステムの一部は工事中だった[119]
  • 表中のプレイタウン「放送スピーカー(15)」というのは、プレイタウン店内限定の放送設備である[121]
  • 消防隊送水口と採水口が1階にそれぞれ3ずつ備わっていた[56]

防火建築設備の設置状況編集

千日デパートビルの防火建築設備(防火区画、防火区画シャッター、売場防火扉、避難階段、階段室防火区画)の設置状況は以下のとおりである。

千日デパートの防火区画および売場防火扉(塔屋2階と塔屋3階を除く)[111][119]
フロア  防火区画  防火区画シャッター  売場防火扉 避難階段 階段室防火区画
屋上(塔屋1階) 4 3
7階 1区画 5 5
6階 2区画 5 5
5階 2区画 5 5
4階 3区画 8 3 6 6
3階 4区画 15 2 6 6
2階 3区画 19 6 6
1階 3区画 19 9 8
地下1階 2区画 7 7 6
  • 防火シャッターおよび防火扉について
    • 1階の各出入口と各外周部には防火シャッターが、また各階段の各フロアに通じる出入口には、一部を除いて防火シャッターまたは防火扉(鉄扉)が備え付けられていた(1階F階段出入口を除く)[108]
    • A階段は、地下1階から6階までの各階フロア出入口に防火シャッターが、7階のみに防火扉(鉄扉)が付けられていた(屋上出入口はガラス戸)[108]。B階段は、1階プレイタウン専用出入口(B出入口)のみが防火シャッターで、その他の各階フロア出入口はすべて防火扉(鉄扉2枚)だった[108]。C階段は全てのフロア出入口が防火シャッター[108]、D階段は全てのフロア出入口が防火扉(鉄扉)だった[108]。E階段は、基本的に各階フロア出入口に防火シャッターと防火扉の両方を備えていたが、5階から屋上までの各階フロア出入口に防火シャッターは設置されておらず、それらの階の出入口は防火扉(鉄扉)のみの設置だった[108]。またF階段は、1階には防火シャッタも防火扉も無く(完全開放状態)、2階以上の各階フロア出入口に防火シャッターと防火扉(鉄扉)が設けられていた(屋上出入口は鉄扉のみ)[108]
    • 1階各出入口および外周部の防火シャッター、各階段の各階フロア出入口の防火シャッターと防火扉の閉鎖(施錠)は、基本的に千日デパート管理部(保安係)が担当していたが、一部に例外があり、3階と4階についてはニチイ千日前店がA・C・E・F階段の出入口の閉鎖を退社時に担当していた[122]。また6階については千土地観光(プレイタウンの経営会社)がE階段の出入口を退社時に閉鎖し[122]、そして7階のE階段出入口の閉鎖(デパート閉店時)をプレイタウンが担当することになっていて[注釈 17]、主要な管理権原者らは、自社が営業しているフロアの防火シャッターと防火扉の閉鎖管理をデパート側から任されていた[122]
    • エスカレーター開口部については、3階から4階を結ぶ2基(4階部分)、4階と5階を結ぶ1基(5階部分)、5階と6階を結ぶ1基(6階部分)には、防火カバーシャッターが設置されていた[108]。また1階から3階までのエスカレーター開口部には防火カバーシャッターの設置が無かった。
    • エスカレーター開口部の防火カバーシャッターの閉鎖は、カバーシャッターが備え付けられている4階から6階のエスカレーターについて、4階部分の閉鎖をニチイ千日前店が、5階から6階までの閉鎖を千日デパート管理部(保安係)が閉店時におこなう取り決めになっていた[108]
  • 防火区画シャッター(売場内)について
    • 地下1階から4階までは、売場内を防火区画ごとに閉鎖できる防火区画シャッターと防火扉(3階と4階)が設置されていた[123]
    • 売場内の防火区画シャッターは、一部を除いて手動巻き上げ式ということもあり、普段から閉店後においても閉鎖されていなかった[60]
    • 3階北側の東西方向に設置されていた4枚の防火区画シャッターは、ヒューズ式自動降下シャッター(80度以上の熱で自動降下)であった[124]
    • 2階F階段の横引きシャッター(階段吹き抜け閉鎖用)は、1965年(昭和40年)から故障していて修理をせずに放置されており、平素から戸袋に収納されたままでデパート閉店時に使用していなかった[111]
    • 表中の7階「避難階段5」とは、A、B、D、E、F階段のことであり、プレイタウン関係者が直接使うことができる階段はA、B、E、Fの4階段で、D階段は使うことができない位置に設置されていた[125]

千日デパートの保安管理編集

千日デパートの保安管理は、デパート管理部に属する保安係が担当していた。保安係は、21時のデパート閉店後から1階出入口及び外周部のドアと防火シャッターを閉め、約2時間かけて全館(7階プレイタウンを除く)の客の絞り出しと巡回(7階プレイタウンを除く)、 防火シャッターや各扉の閉鎖確認(プレイタウン専用のB階段部分を除く)、火気の点検をおこなっていた[56][126]。夜間の巡回は、23時30分から翌午前1時30分までと、5時30分から7時30分まで、それぞれ2時間にわたってデパートビル全館を巡回(この時間帯は7階プレイタウンも巡回対象)していた[56]。また午前2時30分に地下1階から2階までを対象にした1時間の巡回もおこなっていた[56]。すなわち保安係による夜間巡回は、一晩に合計4回おこなわれていたことになる[56]

保安係の勤務体系は、基本的に24時間勤務で14名の人員で業務を担っていた[56]。そのうちの2名は日勤勤務者で、残りの12名を2班6名に分け、各班が24時間交代(勤務時間は9時30分から翌朝9時30分まで)で隔日勤務に就いていた[56]。火災当日の5月13日土曜日は、勤務予定5名の保安係員のうち1名が欠勤していて4人体制で勤務をおこなっていた[注釈 18]。火災当日のデパートビル当直者は、保安係4名のほかに電気係と気罐係の2名も勤務に就いていて、地下1階に待機していた[56][126]。なお、各テナントの宿直は、日本ドリーム観光との間で交わしている賃貸借契約の約定ならびに千日デパート管理部の規則により、基本的には認められていなかった[126]。デパート閉店後の残業は、デパート管理部への届け出制になっていたが、ニチイ千日前店だけは例外で、23時までの残業は届け出無しにおこなうことが認められていた[126]。また7階プレイタウンも宿直に関しては例外扱いで、閉店後のプレイタウン店内に独自の宿直員を置くことが認められていた[56]

プレイタウンについて編集

チャイナサロン「プレイタウン」は、1967年(昭和42年)5月16日に千日デパート7階で営業を始めたアルバイトサロン[注釈 5]である。1969年(昭和44年)5月には、千日デパート6階千日劇場跡の一部を使って店舗を拡張した[70]。火災発生のほぼ1カ月前、1972年(昭和47年)4月17日に6階の元千日劇場跡でボウリング場改装工事が開始されるのに合わせて、プレイタウンは6階での営業を廃止した[70]。同月28日に6階・元プレイタウン営業エリアと7階プレイタウンのホールを繋いでいた階段状の通路部分をベニヤ板で仮閉鎖し、ボウリング場改装工事が始まった[70]。なおプレイタウンの管理権原者は、同店を経営する千土地観光の代表取締役業務部長である[127]。右同人は1964年(昭和39年)6月に日本ドリーム観光から同社に出向しており、1970年(昭和45年)5月から代表取締役業務部長になり、本件火災当日もその地位に就いていた[128]。また千土地観光の代表取締役にはもう一人、日本ドリーム観光の代表取締役社長である松尾國三も名を連ねていた[1]。プレイタウンの防火管理者は同店の支配人である[127]。右同人は1970年(昭和45年)9月1日から同店支配人に就任し、本件火災当日もその地位に就いていた[3]。プレイタウン支配人は、1971年(昭和46年)5月に2日間の防火管理者講習を受講し、同月29日に同店の防火管理者に選任された[3]

営業形態編集

営業時間は平日が17時から23時まで[93]、土日・祝祭日が1時間前倒しの16時から23時までで[93]、年中無休だった[93]。主婦などの素人の女性がホステスを務め、ワンセット200円の低料金で気軽に楽しめるとあって人気があり、大阪ミナミでは中クラスの大衆サロンだった[129]。当時のアルバイトサロンは、キャバレーのようにバンドマンの演奏や歌を聴きながら、またはショーを観ながら飲酒やホステスの接待を受ける形式が一般的だった。プレイタウンもその流れに乗り、毎夜ステージでバンドマンの演奏やダンサーのショーが演じられていた[130]。生演奏に合わせて客とホステスがダンスを踊ることもおこなわれていた[130]。プレイタウンはチャイナサロンと銘打っていたので[131]、ホステスはチャイナドレスを身に着けて接客していた人が多く、店内の装飾も中華風の灯籠やモール、つる草模様の衝立て、深紅の幕で飾られていた[132]。客の収容人数は150名[93]。ホステスは約100名が在籍し[93]、支配人やボーイなどの従業員は約40名が勤務していた[93]。火災当日1972年(昭和47年)5月13日・土曜日夜のプレイタウンの集客状況は、概ね7割程度の客の入りであったが、7階プレイタウンへ火災による煙が大量に流入してきた22時40分から43分頃に在店していたのは客57名、ホステス78名[133]、従業員ら46名(バンドマン10名とダンサー1名の計11名を含む[133])の合計181名[注釈 8]である[129]。火災発生当日は土曜日夜で、いわゆる半ドンであった。1970年代前半は、まだ週休二日制は一般的ではなかったために、日曜前日に当たったことから、営業時間全体を通して店内には客が多かった。プレイタウンのホステスは子持ちの母親が多く、奇しくも火災が発生したのは母の日の前日でもあった[134]

店内の構成編集

7階プレイタウン店内の構成は、中央ホールが東西32メートル[135]、南北17メートル[135]の広さがあり、ホールの平面は台形のような形をしていた[136][137][138]。ホールにはテーブル117個[135]、イス141個[135]、衝立37枚[135]が置かれていた。ホール内の北西角部分には、扇形のバンド演奏用ステージが設置され[139]、その前面と客席エリアの間がショースペースとなっていた。ステージ裏には、北西側の外窓に面したベニヤ板で間仕切りされた3室の小部屋(ボーイ控室、バンドマン控室、タレント控室))が設けられていた[139]。またステージ西隣にF階段出入口があり[139]、ホールに面したF階段出入口部分は、電動の防火シャッターが設置されていて[139]、その部分は常にカーテンで覆い隠されていた。またF階段の防火扉(鉄扉1枚)は、F階段西隣の調理場配膳室に直結していた[139]。F階段出入口の防火シャッターは常時閉鎖され、防火扉も常時施錠されていた。

アーチ状のホール出入口(エントランス)は、ホールの南側にあり[139]、ホール出入口の西側にレジとトイレが、またレジの北隣にベニヤ板で間仕切りされた物置(6階へ通じていた階段状の旧通路部分。火災発生当時は資材置場として利用)があった[139]。ホール出入口正面(ホール外側)にクロークと電気室があり[139]、クロークの奥にカーテンで覆い隠された[140]特別避難階段・B階段(バルコニー併設。プレイタウン営業中は常時解錠)の出入口(鉄扉2枚)があった[139]。B階段を使用するためにクロークのなかに入るには、クロークのカウンター西端の天板(高さ90センチメートルに設置された幅50センチメートルの板[141])を跳ね上げたあと、幅65センチメートルの戸板を押し開く必要があった[142][143]。クロークの東側にエレベーターホールがあり[139]、エレベーターホール南側(クロークの東隣)にA南エレベーターが[139]、エレベーターホールの最も東側にA北東エレベーターがあった[139]。これら2基のエレベーターは、プレイタウン専用である[111]。A南エレベーターの東隣に防火扉(鉄扉1枚)を備えたA階段出入口があった[139]。この防火扉は常時施錠されていて、出入口前は普段から看板で覆い隠され、その存在が解らないようになっていた[144]

ホール内の西方に調理場(F階段の西隣)、空調機械室、事務所、宿直室、衣装室、ホステス更衣室などがあり[139]、それらはいずれも北側の外窓に面していて[145]、幅1.23メートルから1.8メートルの狭く入り組んだクランク状の廊下で各部屋が結ばれ[146]、廊下の東端でホールに繋がっていた[139]。事務所前の廊下には、3階から7階の各階を垂直に竪穴で繋ぐ空調ダクト(リターンダクト)の吸入口があり(ただし、このダクトには5階部分に吸入口は設けられていなかった)[147]、ダクトの3か所に防煙ダンパーが備え付けられていた[148]。プレイタウンの最も西側に位置しているホステス更衣室は、北側に面した外窓2個所(うち1か所は2枚窓)のうちの1か所がロッカーで完全に塞がれていて[139]、窓に直接アクセスすることができない状態となっていた。なおプレイタウンの各外窓は、転落防止や酔客による物品投下などを防止するため、安全上の観点から基本的には普段から開かないようになっていた。またホステス更衣室にはE階段に直結した出入口(鉄扉1枚)があり[139]、普段は施錠されていた[149]。この7階E階段出入口の施錠については、プレイタウンの担当とされていて、デパート管理部から管理を任されていた[150]

店内の避難設備と消防防災関係設備編集

プレイタウン店内の避難設備としては、ホール北東角の窓下に救助袋(斜降式)が1つ備えられていた[139][140]。1958年(昭和33年)12月に千日デパートビルが新装開業した際に移動式救助袋が4階から屋上までの各階に設置されたが[63]、プレイタウンの救助袋は、そのうちの一つである。1963年(昭和38年)8月に固定金具を取り付けるための改修が施された(固定式に改造)[150][151]。救助袋の全長は30.21メートル[151]。開口部(脱出するために脱出者が入り込む部分。内径は縦62センチメートル、横57セントメートル)は[152]、一辺が85センチメートルの支持棒に上下で取り付けられていて(縦枠は78センチメートル)[153]、平時には倒して収納している上枠支持棒(長さ85センチメートル)を180度上方へ引き上げることで袋の入口が完全に開く仕組みになっていた[153]。プレイタウン店内の防災関係設備は、消火器14、報知器3、屋内消火栓3、店内放送スピーカー15、誘導灯7、標識版2、防火隊専用栓2、防火区画1、懐中電灯10などが装備されていた[140]。プレイタウンの外窓開口部の大きさは、縦102センチメートル、横165センチメートル、床から78センチの位置に設置されていた(北側、北東側、東側の各窓共通。ホステス更衣室の西寄り窓を除く)。窓は救助袋が設置してある北東角の窓に関しては観音開きで窓2枚で構成されていた。その他の窓は外突き出し1枚窓で各窓共通である。ホステス更衣室の西寄り窓は2枚窓、厨房窓は換気扇が2つ填め込まれている関係で固定式だった。地上(GL)から7階プレイタウン外窓下枠までの高さは、約25.5メートルである。

プレイタウンに通じていた階段は全部でA、B、E、Fの4階段があったものの[140]、それらの出入口には店の営業中においても常時鍵が掛けられていた[3][140][149]。ただし特別避難階段のB階段7階出入口は、プレイタウンの営業中は常時解錠されていて[3]、従業員は自由に出入りすることができた[3]。7階B階段出入口については、施錠ならびに解錠の両方をプレイタウンが管理していた。B階段については、普段からプレイタウン専用階段になっており[3]、おもにプレイタウン従業員(ホステス)の退勤時に利用されていて[93][3]、とりわけ23時過ぎの退勤時にエレベーターが混雑するからと店側がB階段を使うように指導していた[3][93]

7階各階段出入口の鍵の保管状況編集

7階プレイタウンに通じている各階段出入口(A、B、E、F)の鍵の保管状況は、いずれの出入口の鍵もプレイタウン事務所内に保管されていた[154]。B階段出入口については、鉄扉2枚で構成されているので、それぞれに1本ずつ鍵が存在した[154]。つまりプレイタウン従業員が直接使用できる階段出入口の鍵は合計5本である[154]。これらの鍵は、プレイタウンが1967年(昭和42年)5月から千日デパート7階で営業を始めたときに、千日デパート保安室に対し、借用書を提出して借り入れていたものである[155]。一方、千日デパート保安室は、基本的にマスターキーを保有しているので、それらの鍵を使ってプレイタウン各階段出入口をいつでも解錠できる状態にあった[154]。ただし、7階A階段出入口については、デパート保安室にマスターキーは存在せず、プレイタウン事務所に保管してある単一キーが唯一の開閉できる鍵だった[154]。また、プレイタウン関係者が屋上へ避難する際に使用することができる屋上出入口の鍵の保管状況については、「B、E」階段の屋上出入口の鍵だけがプレイタウン事務所内に保管されていた(それぞれ1本ずつで合計2本[154])。それらのマスターキーは、デパート保安室に保管されていた[154]。残りの「A、F」階段の鍵は、プレイタウン事務所内に保管されておらず[154]、千日デパート保安室にのみ単一キーが保管されていた[154]。これらのことから、プレイタウン関係者の手によって直接開錠可能な屋上の出入口は、B階段E階段だけだったということになる[154]

7階各階段出入口の施錠編集

前記のとおり、プレイタウンに出入り可能な7階の各階段出入口は、B階段出入口以外はプレイタウン営業中においても常時施錠されていた。またF階段電動シャッターについても常時電源は切られていて、開閉することは出来なかった。[156]。この措置の理由は、千日デパート側からすれば、風俗営業店に出入りする客がデパートの売場内に入ったり、通り抜けたりすることが保安上も風紀上も好ましくないと考えていて、常時施錠することが不可欠であったというのである[56]。また、プレイタウン側からしてみれば、平常時の営業において、従業員専用スペースに面していない階段出入口(A、F階段出入口)を常時施錠しておくことは、無銭飲食防止や防犯上の観点からも都合が良かったのである[56]。またこれらの措置は、大阪府公安委員会からの指導にも基づいて取られていた[157]。プレイタウンに風俗営業の許可を与える際に、風俗営業等取締法第二条または大阪府施行条例第四条の規定に従って「善良な風俗を害する行為を防止する」という観点から[157]、「7階に出入りできる階段出入口の防火扉と防火シャッターは、非常時以外に解放してはならない」という条件が付けられていた[157]

千日デパート側との連絡体制編集

非常時における千日デパートとプレイタウン間の連絡体制は、規約や規則などで決められていたものは何も無く[56]、火災の通報についても平時からの申し合わせは何もなかった[56]。また、デパートビル閉店時の保安係による巡回においてもプレイタウン営業中は7階の巡回はおこなわれておらず、プレイタウン閉店時の深夜と早朝帯だけデパート保安係による巡回の対象になっていた[56]

宿直編集

千日デパートでは、各テナントの夜間の宿直を認めていなかったところ、例外的にプレイタウンだけは独自に宿直員を置くことが認められていた[56]。宿直の人員は計2名で、プレイタウン男子従業員の1名が宿直員として、またプレイタウン専属の男性保安員が1名、プレイタウン閉店後の店内に宿直し、保安業務に当たっていた[56]。勤務時間は21時30分から翌午前10時30分まで[56]。その間に3回の店内巡回(0時、2時、7時)をおこなうことになっていた[56]

火災の経過編集

閉店後に3階で電気工事編集

1972年(昭和47年)5月13日土曜日。千日デパート3階・ニチイ千日前店の売場改装に伴い、電気配線用の配管取り付けなどの電気設備工事がおこなわれることになった[158]。ニチイから工事を請け負ったのは「O電機商会」で工事監督者の設計監理課長1名(以下、工事監督者の設計監理課長のことを工事監督と記す)および工事施工業者「F電工社」の工事作業者5名の合計6名が工事に携わることになった[3]。9時ごろ、工事監督と工事施工会社社長(以下、工事施工会社社長のことをF電工社長と記す)の2名を除く工事作業者4名が千日デパートへ入館した。3階の電気設備工事は、デパートの10時開店と同時に始まり、昼休憩1時間を挟んで午後も引き続きおこなわれた[158]

14時ごろ、F電工社長が千日デパートへ入館した。そして15時30分ごろ、工事監督も入館した。これで3階の工事作業者6名が全員揃った。

16時。7階チャイナサロン「プレイタウン」が開店した[129]。土曜日ということで通常よりも1時間早い開店であった[3]

17時ごろ。客足が増えて店内が混雑してきたために工事作業者らは作業を一時中断し、デパート閉店後の21時過ぎから工事を再開すべく、全員が一旦作業現場を離れた[158]

17時30分ごろから21時前まで。この間に工事作業者ら4名は食事に出かけ[158]、工事監督とF電工社長の2人は、難波駅(南海)に併設されている老舗百貨店の屋上ビアガーデンを訪れ食事をとった[158]。そのときに2名は、ビール大ジョッキ2本を飲んだ[158]。その後、工事監督はF電工社長と別れ、難波周辺をぶらついていた。F電工社長と工事作業者4名は、21時前に一般客用の出入口から、また工事監督は21時30分ごろに従業員通用口からデパートビルにそれぞれ再入館し、3階の工事現場に戻った[158][159][160]

21時。千日デパートは閉店時刻を迎えた。各店舗で閉店準備がおこなわれたり、保安係員によって出入口やシャッターの閉鎖がおこなわれたりするなかで、この日(13日当日)3回目の電気設備工事が3階で再開された[101][158]。場所は3階・上り南5号エスカレーターの南西側に隣接した婦人用肌着売場と子供用肌着売場に挟まれた通路付近である[3][161]。工事の手順は、工事再開場所を起点に南側フロアに沿って東方向へ順次工事を進め、南側機械室までの電気配管をおこない、北側機械室の分電盤工事、そして北東隅の寝具・呉服倉庫内の配管工事を翌朝14日・4時までの予定でおこなうことになっていた[161]。引き続き工事監督1名と工事作業者5名の計6名が工事に携わることになっていた[101][158]。ニチイ千日前店の社員4名(うち1名は店長)も3階に2名、4階に2名がデパート閉店後も店内に居残り、残業していた。3階のニチイ社員2名は、工事作業者らと同じく3階・西側売場で商品整理などの残務をおこなっていた[162][163]。6階千日劇場跡では、22時30分までの予定でボウリング場改装工事がおこなわれており、6名の工事作業者が滞在していた。千日デパートの21時閉店以降、デパートビル内で営業していたのは7階「プレイタウン」だけであった。

21時15分。千日デパート保安係員2名による全館を対象にした保安巡回が開始された[56][164]。約1時間半かけて6階から地下1階までの各フロアを巡回し、客の居残り確認、各出入口やシャッターの閉鎖確認、火気の点検を中心に実施された[56][164]。この閉店時の巡回において、7階プレイタウンは常に巡回の対象から外されていた[56][164]。なお、この火災発生当日の閉店時巡回には、千日デパート管理部管理課長が参加する予定になっていたが、なぜか巡回に参加していなかった[165]

21時30分ごろ、3階の照明が一斉に消えてしまった[158]。地下1階・電気室にいたデパート電気係が、3階で電気工事がおこなわれていることを知らずに3階照明の電源を落としたためである[101]。この停電が発生したときに、工事監督がデパート3階の工事現場に戻ってきた[158]。作業に支障が出ることから工事監督は、すぐに6階へ行き、電話で地下1階の電気室に対し、3階の照明を点灯してくれるように連絡した[4]。数分後、3階西半分の照明が復旧し、再び作業が再開された[101][158]。この頃、千日デパート保安係員2名が3階を巡回しているときに作業中の工事作業者らを目撃し[130]、工事作業者らに工事届が提出されているかどうかを尋ねた。

3階で火災発生編集

22時ごろ。3階と4階で残業していたニチイ社員4名が退館した。3階では配管の折り曲げやネジ切などの作業が粛々と進められるなか[3]、工事監督は作業現場を離れ、1人でタバコを吸いながら照明が消えている暗がりの3階東側フロアのどこかをうろつき始めた[4][166]。……工事監督は、しばらくして西側のD階段付近に向かい、その場に佇んでいた[166][4]

22時32分から33分ごろ、工事作業者の一人が3階東側の寝具・呉服売場の方向から「パリパリ」というガラスの割れるような音がするのを聞いた[166][4]。ふとその方向に目をやると、30メートルほど離れた場所で高さ70センチメートル、幅40センチメートルくらいの赤黒い炎がめらめらと揺らめき、黒煙が入道雲のように天井一杯に立ち込めているのを発見した[4][166]。発見者は、すぐさま火災であることを仲間に知らせると同時に、西側D階段付近に佇んでいた工事監督に向かって大声で火災が発生したことを知らせた[4][35]。工事作業者らは消火器を探し回ったり、火災報知機を押そうとしたりするなど初期消火活動に奔走した[35][167]。工事監督は1階のデパート保安室に向かって「3階が火事や!」と数回叫びながら西側D階段を駆け降りた[166][167]

3階での火災発見とほぼ同時刻の22時30分ごろ、閉店後の店内巡回を終えた千日デパート保安係員2名が1階保安室に戻ってきた[168][164]。その直後の22時34分、保安室の火災受信機(警報ベル)が3階の火災を検知した[136][164]。工事作業者の一人が3階の火災報知機を押したのである[35]。それとほぼ同じくして3階から工事監督の火災発見を知らせる怒声が保安室にも届いた[35]。保安係員2名がすぐさまD階段を駆け昇り、3階へ確認に行くと、すでにフロアいっぱいに黒煙が立ち込め、火元へ容易に近づけない状態になっていた[136]。消火器を持って右往左往する工事作業者らに対して保安係員は、消火器の使い方を教えたが[5]、既に初期消火をおこなえる時期は過ぎていて[136]、火災はフラッシュオーバーを起こす寸前にまで達していた[136]。だが保安係員は、床上50センチメートル付近に煙が充満していないこと確認すると、工事作業者ら2名を引き連れて床を這いながら、なんとか消火栓がある場所の3、4メートル手前(上りエスカレーター東側)まで行って消火を試みようとした[5]。工事作業者は持っていた消火器の安全ピンを外して消火を試みたが薬剤が噴射されなかった。そのうちに火勢と煙はますます強くなり、周囲が赤黒く澱んできてD階段にも煙が迫ってきた。火元に向かおうとした保安係員らは、火元の確認や防火区画シャッターの閉鎖はおろか消火の一つも出来ずに活動を断念し[5]、元の経路を這って戻った。工事作業者ら5名[注釈 19]と保安係員2名はD階段で1階へ避難した[169][168]。火災受信機(警報ベル)は、地下1階の電気室にも設置されていたので[119]、デパート電気係は火災検知と同時に3階と4階の主電源を全て遮断する措置を取った。そのあと電気係は消火器を持ち、Cエレベーターで4階まで上がった。そして消火作業をおこなおうとしたがエレベータードアが開いたと同時に猛煙に襲われ手も足も出せず、そのまま地下電気室へ引き返した。またこのとき6階の千日劇場跡でボウリング場改装工事に携わっていた工事作業者ら6名が煙の流入で火災に気付き、6階窓からビルの外に出て、資材吊り上げ用ワイヤー(ウインチ)や配管、避雷針ケーブルを伝って全員無事に地上へ脱出した[104]。地下1階に滞在していたデパート電気係と気罐係の計2名もビル外に全員無事に脱出している。

22時39分、火災は急速に拡大し、防火カバーシャッターが閉鎖されていなかった3階エスカレーター開口部から4階へ延焼が始まった[170]。保安係員2名は、直ちにデパート保安室に待機していた保安係長に3階が本格的な火災である旨を報告した[171]

22時40分、保安係長は千日デパート保安室の電話で119番通報をおこなった[35][172][173]

7階プレイタウンを襲った黒煙編集

22時30分から22時35分ごろ。7階で営業中のチャイナサロン「プレイタウン」では、23時の閉店に向けて「お決まり」の様々な動きが始まっていた[130]。ステージでのショーが終了した直後のホール[132]とあって人々の動きが激しくなるなか[130]、客とホステスはバンドの生演奏に合わせてラストダンスを踊り[130][174]、調理場では後片付けがおこなわれ[175]、帰宅する客を見送るホステスらがエレベーターで1階入口へ向かっていた[130]。すでに接客を終えたホステスらは更衣室で寛ぎ[130][175]、店内事務所ではプレイタウン支配人(店長のこと。以下、支配人と記す)らが集客を増やすための対策を話し合っているなど[130][175]、プレイタウンはいつもの土曜夜と変わらない閉店前の様子だった[130]。この頃プレイタウンには客57名、ホステス78名、従業員ら35名、バンドマン10名、ダンサー1名の合計181名が滞在していた。

22時36分から22時39分ごろ、この間にプレイタウン関係者が最初の異変を感じた。ボーイの一人がプレイタウン専用A南エレベーターで地下1階から7階へ上がる途中、エレベータードア下部のすき間から白煙が流れ込んで来るのを目撃した[130][176]。また客の一人がトイレに行こうとしてホール出入口の方を見たとき、A南エレベータードアのすき間から白煙が噴き出しているのを目撃した[130]。ホステスの一人もホール出入口の方向から白煙がホール内へ流れ込んで来るのを目撃し[130]、ステージでのショーが終わってから3曲目の演奏に入っていたバンドマンの一人も天井を流れる白煙の筋を確認し、バンドリーダーへ「火災ではないか?」と報告した[177]。バンドマンたちは、バンドリーダーの指示で演奏を中止し楽屋に待機することになった[178]。その後、バンドリーダーは詳しい状況を確認するためにエレベーターホールへと向かっていた[7][179]。一方、プレイタウン事務所前に設置してある換気ダクト(リターンダクト)の吸入口からも煙が噴き出しているのを調理場にいた従業員が発見した[138]。調理場にいた従業員やボーイらによってダクト吸入口に向かってバケツで水を掛けるなどの消火作業がおこなわわれたが、何の効果もなく[180]、煙の量は更に増すばかりであった[181]

22時39分、事務所内にいた支配人は、ホールや事務所前の通路がやけに騒がしいことに気付いて事務所の外に出たところ、換気ダクトから噴き出す激しい煙に襲われた[180]。調理場担当の従業員数名とともに西側のホステス更衣室の方へ行こうとしたが、その方面の通路にはすでに煙が充満しており、支配人らはすぐに事務所前へ引き返した[182]。空調ダクトから絶え間なく噴き出す煙を目の当たりにして支配人は「階下が火災だ」と、このとき認識したという[182]。その後、支配人は詳しい状況を確認するためにホールへ向かった[183]。西側ホステス更衣室にいたホステスら11名は、換気ダクトから噴き出す煙によって、この段階で逃げ場を失い更衣室内で孤立状態になってしまった[184]。換気ダクトからの煙は、次第に黒煙へと変わり、異様な臭気と熱気を大量に噴き出すようになっていた[180]

22時40分、デパート保安係員が119番通報した頃の7階プレイタウンでは、ボーイらがA南エレベータードアから噴き出る白煙をエレベーターの故障だと考え、エレベーターを止めて点検を始めようとしていた[182][185]。またある者はエレベーターのどこかが燃えていると判断し、消火器を持ちだすためにホールを奔走するなど、店内がにわかに騒がしくなってきた[178]。エレベーターホールの状況を確認に来たバンドリーダーは、エレベータードアから噴出する煙の状態を見て、以前に地下1階のプレイタウン・エレベーターロビーで起こった小火のことを思い出していた[182]。その時はすぐに収まったので、今回も同じ状況だろうと考え、バンドマン室へ行き返していった[182]。男性客の1人は、何か焦げ臭く感じると異常事態にいち早く気づき[7]、レジに行って女性従業員に異臭について尋ねていたところ、白煙が漂っているのを直に確認した[7]。男性客は「これは火災だ」と直感し、避難するためにエレベーターホールへ向かった[7]。また別の男性客も異常に気付きレジに来て「火事と違うか!」と叫び[7]、ホステスから階段の場所を尋ね、その案内に従ってエレベーターホールへ向かった[7]。しかしこの男性客2名は、このあとA南エレベーターから噴出する煙に阻まれ、ホールへと引き返すことになる[182]。この頃、支配人がホール出入口とクロークの中間付近に現れ、エレベーターホール前の様子を見ていた[186]。エレベーター前には7人から8人の客やホステスがエレベーターを待っており、そこにいた客やホステスらに変わった様子はなかった[186]。支配人は、クローク付近がいつもより少し薄暗く感じたが、煙の状態も店内に少し立ち込めた程度だったので特別に異常を感じず、大したことにはならないと思った[186]。この煙の状態であれば火災は階下で発生していることもあり、客にはいつものように勘定を済ませて帰ってもらえると思い一安心し、しばらくその場に留まって様子を見ることにした[186]

22時41分、クローク係の女性従業員は、タイムカードの時計を合わせるために時報(117番)に電話を掛け終えたとき[187]、A南エレベーターの方向から二筋の白煙がホールへ流れて行くのを見た[187]。そこで隣の電気室にいる電気係に「エレベーターが故障しているのでは」と告げたところ、電気係は状況を報告するためにホール内へ歩いて行った[187]。この直後、火災の急速な拡大に伴い、A南エレベータードアのすき間から吹き出す煙は、急激にその量を増すと同時に白煙から黒煙へと変わっていった[182]。クローク係は、煙を排出しようと電気室の窓を開けたところ、窓の外から黒煙が流入してきて生命の危険を感じ、ホール内へ避難しようとしたが、すでにそれすらも出来ないほどエレベーターホールが煙で汚染された状態になっていた[182]

22時42分、A南エレベーターからの猛煙でエレベーターホールが汚染されるなか、クローク係の女性従業員がクローク後ろにあるB階段出入口からB階段を使用して地上へ脱出した[182][188]。クローク係は、自分の持場のすぐ後ろに使用可能な避難階段があることを平素から知っており、容易にB階段を使用して脱出に成功した[188]。このころにはプレイタウン店内にいたすべての人たちが異様な臭気とホールに流れ込む煙に気付いた[182]。客やホステスらは地上へ避難するために、プレイタウンへ出入りするための移動手段として唯一知っている2基の専用エレベーターに殺到し、エレベーターホール前は混乱した状況へと陥っていった[178]。だが、A南エレベーターから激しく噴き出す煙によってエレベーターが使用できなくなったことで、避難者らはホール内へ引き返さざるを得なくなった[189]。唯一知っている「地上への逃げ道」が絶たれたことで、人々のあいだにパニックが起こり始めた[190]

22時43分、消防隊の第一陣が到着した。すぐさま消防隊による放水準備作業が開始された[191]。このころ火災は3階エスカレーター開口部から2階へ延焼し始めた[192]。一方「プレイタウン」では、A南エレベーターで7階に上がってきたホステス1名と男性客1名は[7]、エレベーターホールに充満している煙に驚き、エレベーターホールにいたホステス1名と共に[7]、向かい側のA北東エレベータにとっさに乗り込み、3名は地上へ脱出した[185][193]。支配人は、エレベーターホールが煙で汚染され視界が利かなくなってきたことから[182]、電気室内にある懐中電灯を取って来るよう従業員に命じたが、見付けることができなかった[182]。その後、エレベーターホールにいた人たちをレジ付近に退避させた[182]。このとき支配人がレジ係に対し「ホステスの皆さんは落ち着いてください」と店内放送で呼びかけるよう指示した[194]。エレベーターホールから退避しようとする人たちと、エレベーターホールへ向おうとする人たちとの流れが出入口付近でぶつかり合い、混沌とした状況に陥ってきた[195]。地上への避難を求める人たちの混乱に拍車が掛かってきたことから、支配人はA南エレベーター東隣のA階段から客らを避難させようと考え[182]、ボーイにA階段出入口の鍵を取って来るように指示した[182]。だが、ボーイがA南エレベーター西隣に位置するクロークの中に入ろうとしたものの、猛煙に阻まれクローク内に入ることができずに鍵は見つけることができなかった[182][196]。プレイタウンの避難者らは、エレベータードアから噴き出す大量の黒煙によって行動の自由が妨げられたため、ボーイらの指示で再びホールへと退避した[182][196]

逃げ場のない暗闇のガス室編集

22時44分、消防隊はデパート保安係に対し、デパートビル1階の北東正面出入口と北西E出入口のシャッターを開けるよう命じた[197]。これは消防隊が店内に侵入して消火活動するために開けさせたものだが、この直後に3階と4階がフラッシュオーバーを起こし、それと同時に7階への煙の流入量が、より一層増すことになった[197]。ホール内へ押し戻された人々は、エレベーターにも乗れず、非常階段も使えず、7階から完全に逃げ場を失い孤立状態になってしまった[190]。またどこへ逃げていいのかもわからないまま、避難行動は自主性のないものになってしまい、パニック状態に拍車が掛かっていった[198]。ホール内に押し戻された人の中で窓際やステージ裏の小部屋(ボーイ室、バンドマン控室、タレント控室の計3室)に移動できた人が窓ガラスを割り、救助を求め出したのはこのころである[199]。またホステス更衣室にいた人たちは、この時点ですでに孤立状態となっていたが、なんとか事務所から鍵を取り出し、E階段出入口を解錠して脱出を図ろうとした[29]。だが、E階段はすでに煙で汚染されており、鉄扉を解放したことで大量の煙を更衣室に入れることになった[29]。このころには換気ダクトからの猛煙と熱気により事務所のほうへ近づくどころか、更衣室に繋がる廊下に出ることも出来ない状態になっていた[197][31]

22時45分、3階がフラッシュオーバーを起こし、火災はフロア全体に燃え広がった[192]。このころプレイタウン内を逃げ惑っていたある集団は、ボーイの案内でホール西側物置の中に入り込んだ[200]。この場所は、つい1か月ほど前までプレイタウンが6階でも営業していたときの連絡通路があった場所で、6階でボウリング場工事が始まるのをきっかけに6階店舗と連絡通路が同時に廃止されたのである[201]。その通路部分を仮閉鎖するためにベニヤ板で塞いでいるはずだったので、事情を知っている者は板を破れば簡単に6階へ避難できるはずだと考えた。ところが壁の工事が予想外に進んでいて、ベニヤ板だと思われていた壁は厚さ27cmのブロック塀に変わっていた[200]。行き場を失った人たちは、壁を壊そうとブロック塀を足で蹴ったり、手で引っ掻いたりした。極限のパニック状態で冷静さを失った人たちは煙を吸いこみ、物置の中で力尽きていった[200]

22時46分、延焼階に対して消防隊による放水が開始された[202]。そして4階がフラッシュオーバーを起こした[192]。窓際に移動した従業員の一人によって北東側の金網窓(観音開き)が開けられ[203]、窓下に設置してあった救助袋が地上に投下された[203][204][205]。だが救助袋の先端には「地上誘導用の砂袋(おもり)」が括りつけられておらず[203][205]、救助袋は2階のネオンサインに引っ掛かってしまった[204][206]。消防隊員の手により救助袋は地上へ降ろされ(22時47分)[203][206]、救助袋先端の把持を通行人らに頼んで7階からの脱出準備が整ったかのように見えたが(22時49分)[203][206]、救助袋の正しい使用方法「上枠を180度上方へ引き起こし、袋の入口を開いて、袋の中に入って滑り降りる」ということを7階で知っている者が誰もいなかった[29][206]。救助袋の入口を開けなかったばかりに、救助袋は平たく帯状に垂れ下がった状態で、本来の救助器具としての役目を果たすには程遠い状態となっていた[29]

22時47分、支配人らはステージ西隣のF階段(らせん状階段)を使って脱出しようとした[207]。屋上へ避難しようというのである。調理場東隣のF階段出入口の鉄扉を開けるには、事務所の中に保管してある鍵を取りに行く必要があるが[208]、事務所前の換気ダクトから噴き出す猛煙と熱気で事務所に近づけそうになかった。そこで支配人は、扉に体当たりしたり、テーブルの脚をドアノブに叩きつけたりするなどして鉄扉をこじ開けようと試みたが失敗に終わる[207]

22時48分、次に支配人は、ホールに直接面したF階段の電動シャッターを開けようとした[209]。普段はビロードのカーテンで覆われ、その存在が誰の目にも留まらない電動シャッターは、ボーイが作動スイッチを入れると徐々に巻き上がり開いていった[203]。ところがシャッターを開けた瞬間、階段室に溜まった猛煙と熱気は、その捌け口を7階プレイタウン店内に求めて一気に流入し、脱出しようとした人々をホール内へ押し戻した[210][211]。他の階段と同じようにF階段にもすでに大量の煙が充満していたのだった[210]。これで7階から自力避難する術が無くなり、地上へ逃れる道は絶たれてしまった[212]。窓際に移動した人のなかで最初に地上へ飛び降りた人が出たのはこのころであった[203]

22時49分、プレイタウンで停電が発生し、プレイタウン店内の照明が一斉にすべて消えた[210]。猛煙と暗闇の中で何も見えないまま、プレイタウン内を逃げまどう人々は誰かにぶつかっては倒れ、何かに躓いては転ぶうちに一酸化炭素と有毒ガスによる中毒の影響で、次第に動く者は誰一人いなくなっていった[210]

地上への脱出、救助、そして終局へ編集

22時50分、ホール内で猛煙と熱気の中をかろうじて凌いでいたホステスの一人は、ハンカチで口を押さえながら壁伝いにエレベーターホールへ出て、クローク奥にあるB階段の出入口までたどり着き、地上への脱出に成功した[213][214]。このころは猛煙と熱気、有毒ガス、停電による暗闇により、室内での行動は殆ど不可能になっており[215]、窓際に移動できずにホール中央やF階段近辺、空調ダクト周辺を逃げ回った人たち、または物置のなかに避難路を求めた人たちは、全員が息絶えてしまった[216]

22時50分から22時55分にかけて、窓際にいた人々もF階段から大量に噴き出す猛煙と熱気による息苦しさで7階窓から地上へ飛び降りる者が続出し始めた[215]。消防隊のはしご車による救助を待ち切れずに、まだ伸長している最中のはしごに縋ろうとして地面に落下する人もいた[217]。東側の商店街アーケードの屋根を目掛けて飛び降りた人たちは、薄いプラスチック板で作られた屋根を突き破り、無残にも地面に叩きつけられていった[218]。また唯一の避難器具「救助袋」の外側に掴まりながら袋の上を馬乗りになって滑り降りた人たちは、摩擦熱に耐えられずに地上へ落下したり、また滑り降りる途中で力尽きて墜落したりする者が続出した[219]。またステージ裏の小部屋に逃げ込んだ人々も、多少なりとも猛煙から逃れていたのだが、F階段シャッターの開放によって小部屋にも猛煙が侵入してきて呼吸が困難になってきたために、一部の人のなかには息絶える者も出始めていた[215]

22時55分から23時1分にかけて、救助袋から落下してくる人を消防隊が市民の協力を得て設置したサルベージシートで3名を救助することに成功した[220]。このころ消防隊のはしご車による救出活動も本格化し、23時23分までの間に7階プレイタウン窓から50名を救助した[221]

23時10分、消防隊によりデパートビル全館の電気を全て遮断した[158]

23時15分、消防隊は、東側商店街アーケード屋根の上へ飛び降りた2名を救助した[222]

23時23分、消防隊は、はしご車による救助活動を終了した[158]

23時30分、消防隊はこの時点で7階からの要救助者が存在しないと判断し、はしご車による救出活動をすべて打ち切った[223]

14日(日曜日)0時ごろ、火勢が衰えだす[202]。消防隊は、救出活動優先から消火活動優先に切り替えた。火災鎮圧までの間、ビル外側と内部から延焼階に放水を継続した[224]

1時30分頃、7階から飛び降りや転落などで死亡した人が23名だと消防から発表された[202]

5時頃、消防隊により7階プレイタウンの内部探索が始まる。

5時8分、消防隊が7階プレイタウンフロアにて多数の遺体を確認した[202]

5時43分、火災鎮圧[225]

7時41分、「火災は鎮火した」と一旦は発表された[225]。7階プレイタウンフロア内で96名の遺体を確認。また飛び降りや転落で21人の死亡者を確認し、犠牲者は合計117名となった[226]。7階プレイタウン店内の現場検証後、遺体搬出作業開始。

14日23時45分、大阪府警南署は、火災当日夜に千日デパートビル3階・ニチイ千日前店で電気工事をおこなっていた工事監督を現住建造物重過失失火および重過失致傷の容疑で緊急逮捕した[227]

15日(月曜日)0時15分頃、6階中央部から白煙が噴き出しているのを通行人が発見し、消防に通報した。消防隊は6階と7階窓から放水。ボヤ程度で消し止めた[228]

6階での小火を受けて、消火困難個所および内在物品等の燻りがまだビル内に残っていると判断し、消防隊は消火及び防御活動を再開することにした。 15日17時30分、正式に「火災鎮火」と発表された。

火災発生から4日後の17日(水曜日)10時15分、7階プレイタウンの窓から飛び降りて重傷を負い、病院に収容されていたホステス1名が死亡した。これで火災の犠牲者は118名となった[229]。 また負傷者は計81名で、プレイタウン関係者47名、消防隊員27名、警察官6名、通行人1名である[230][231]

6月22日、火災発生場所と推定される3階ニチイ千日前店の東側売場において、大阪府警捜査一課および南署捜査本部によって燃焼実験がおこなわれた。その結果、5月13日夜にビル3階で電気工事をおこなっていた工事監督が現場に捨てたマッチの擦り軸が火災原因であると断定した[232]

消火活動および救出活動編集

消防隊による消火救出活動および警察による警備活動の経過編集

22時40分、大阪市消防局警防部警備課指令第1係が千日デパート保安係から119番通報を以下の内容で受信した[172][173]

消防局 「こちら119番です」
通報者 「千日デパートビル火事です」
消防局 「何階が燃えているのか」
通報者 「3階が火事です」
消防局 「電話は何番ですか」
通報者 「××××、保安係」
消防局 「わかりました」[172]

大阪市消防局は火災通報を直ちに受理した[172]
なお火災通報時の気象状況は、天候=曇り(雲量10)、風向=東北東、風速=5.5メートル、気温=摂氏17.9度、湿度=69パーセント、実効湿度=63パーセントであった[233]

22時41分、「ミナミ千日デパート3階出火」の一報を指令室より管内全署に発報。第1次出場が指令された[202]

22時42分、南消防署[注釈 20]および北消防署より第一陣出場。千日デパートから最も近い東側200mに位置していた南署南坂町出張所2個分隊と、北側200mに位置していた南署道頓堀分隊が、それぞれ現場に急行し、デパートビル50m手前まで差し掛かったところで同ビル北側の窓から黒煙が噴き出しているのを確認し、南坂町分隊は「煙気あり」を即報。走行中に「第2次出場」を要請した[191]

22時43分、南坂町および道頓堀分隊が火災現場に到着。南署本署のはしご車、ポンプ車、スノーケル車も現場に到着。放水準備作業が開始された[191]

22時44分、消防指揮者は千日デパート保安係員に対し、消火活動のためにデパート北東正面出入口とE北西出入口のシャッターを開けるよう命じた[172]。さらに消防指揮者は、デパート北側に特殊車両を配置するよう指示した[202]。シャッターが開放されたと同時に7階プレイタウンの窓から要救助者50名から60名が身を乗り出した[191]

22時45分、南署はしご車分隊、はしごの伸長を開始[234]。同時刻に大阪府警は110番通報を受信した[232]

22時46分、南署各隊により延焼階に対して放水が開始された[202]。南署救急隊は、7階に10名以上の要救助者を認めたことから大阪市消防局管内すべてのはしご車の出動を要請した[202]

22時47分、指令室より特別出動態勢が発令された[202]。南署はしご車分隊、7階ホステス更衣室窓で救出活動を開始。同窓から2名を救助した[234]。その後、13分間にわたり救出活動をおこなった[234]。南坂町PR分隊は、7階北東角の窓から投下された救助袋が2階ネオンサインに引っ掛かったため、はしごを立て掛け登上し、地上へ降ろす作業をおこなった[172]

22時48分、南坂町PR分隊が「第3次出場」を要請した[202]。大阪府警、火災現場に警察官を派遣。現場付近一帯の交通規制を開始した[232]

22時49分、南坂町PR分隊は、20名程度の通行人に地上に降ろされた救助袋先端部分(出口)の把持の協力を要請した[172]

22時50分、消防隊出場第2陣が現場に到着。「第3次出場」が発令された[202]

22時51分、西署はしご車分隊、現場に到着[234]。約5分間にわたって方面隊が7階プレイタウンからの脱出者に対し、ハンドマイクで「飛降り制止」と「救助袋の正しい使用方法」を呼びかけた[172]

22時52分、西方面隊より7階で20名から30名の要救助者確認の報告[202]。東署[注釈 21]はしご車分隊が現場に到着[234]

22時53分、西署はしご車分隊、はしごの伸長を開始[234]

22時54分、西方面隊より7階で50名から60名の要救助者確認の報告[202]。西署はしご車分隊、7階北東中央窓から救出を開始。13分間に10名を救出した[234]。阿倍野署はしご車分隊が現場に到着[234]

22時55分、南方面隊が「7階窓から飛び降りた者が10名」と報告。東署はしご車分隊、はしごの伸長を開始[234]。阿倍野署はしご車分隊、はしごの伸長を開始[234]。北署はしご車分隊が現場に到着[234]
南署道頓堀PR分隊は、デパートビル6階のボウリング場工事現場にアセチレンガスボンベ40kg1本と酸素ボンベ同2本が放置されていると報告した[202]
南坂町分隊は、15名程度の通行人の協力を得てサルベージシート(救助幕)設置し、救助袋から落下してくる者の救助を開始、3名を救助した[172]。その後、はしご車からの落下に備えて23時15分まで救出活動をおこなった[172]

22時56分、南方面隊、大阪府警に対し雑踏警備や交通整理などのために機動隊の出動を要請した[232]。阿倍野署はしご車分隊、バンドマン室窓で救出活動を開始。18分間に20名を救出した[234]

22時57分、北署はしご車分隊、はしごの伸長を開始[234]

22時58分、南方面隊がビル7階北東部窓より12名が飛び降りたと報告。北署はしご車分隊、タレント室窓および厨房窓で救出活動を開始。10分間に10名を救出した[234]

23時1分、消防隊出場第3陣(第3次出場)現場に到着。西方面隊が7階に要救助者が20名から30名いると報告[202]。東署はしご車分隊、東側2か所および北東角(救助袋投下窓)の計3個所の窓で救出活動を開始。23分間に10名を救出した[234]。大阪府警機動隊1個中隊が火災現場に到着した[232]

23時5分、消防隊はデパートビル北側の千日前通路上に現地指揮本部を設置した[232]。消防局長、警防部長、警備課長、各消防署長(計8消防署署長)が出場して方面指揮に当たった[232]。また4方面隊で情報収集をおこない、人命救助、防御活動、広報活動をおこなった[232]

23時8分、西方面隊よりデパートビル3,000平方メートルが延焼中と報告が入る[202]

23時10分、南方面隊、40名程度をはしご車で救出中と報告[202]

23時15分、南署はしご車分隊、救出活動終了[234]

23時23分、東署はしご車分隊、救出活動終了[234]

23時25分、西署はしご車分隊、救出活動終了[234]

23時29分、阿倍野署はしご車分隊、救出活動終了[234]

23時30分、北署はしご車分隊、救出活動終了。消防隊は、すべての人命救出活動を終了した[202]

23時32分、大阪市消防局は、管内の全消防車両の3分の1に当たる85台(はしご車7台、救急車12台を含む)を投入した[32][235]

23時35分、大阪府警は、機動隊1個中隊第2陣を火災現場に配備した[232]

14日0時過ぎ、火勢が衰え出す[202]。消防隊は火災鎮圧までの間、延焼階に対する消火活動と火災防御活動を継続した。
大阪府警は負傷者の搬送、捜査活動、警備隊等を現地指揮するための府警本部長を長とする現地警備本部を設置した[232]
道頓堀PR分隊からデパートビル6階のボウリング場工事現場に「ガスボンベが放置されている」との一報を受けて[202]、大阪府警警備本部は千日前通からの避難命令を出した[232]。警察官の出動は総数678名にのぼり、負傷者の救護搬送、交通規制、雑踏警備にあたった[232]

5時43分、火災鎮圧[202]

7時41分、2階から4階までの8,763平方メートル[236]を延焼して火災は一旦「鎮火」したと発表された。大阪府警、火災延焼階と7階プレイタウンの現場検証を実施。検証終了後に遺体搬出活動をおこなった[232]

15日0時15分ごろ、デパートビル6階中央部から白煙が噴き出しているのを通行人が目撃し119番通報した。消防隊は6階と7階窓から放水し、小火程度で消し止めた。消防隊は消火困難個所および内在物品等の燻りがまだデパートビル内に残っていると判断し、消火及び火災防御活動を再開した。

15日17時30分、火災鎮火[237][238]

消防隊および救急隊の人命救出活動編集

はしご車は、大阪市消防局保有の8台のうちの7台が出場し、そのうちの5台(南署はしご車分隊、西署はしご車分隊、東署はしご車分隊、阿倍野署はしご車分隊、北署はしご車分隊)が人命救出活動に当たった[234]。なおデパートビル南側に配置した住吉署はしご車分隊および北西に配置した東淀川署はしご車分隊は、消火防御活動に投入された[239]

南署はしご車分隊の活動編集

南署はしご車分隊は、22時42分出場、44分現場到着。デパートビル北側西寄りに配置。45分デパートビル7階ホステス更衣室窓にはしごを伸長。47分救出活動開始。22時47分から23時までの13分間に、ホステス更衣室窓から女性2名を救助した。救助の際、窓がロッカーで半分塞がれており、斧でガラスを叩き割って失神している2名を引っ張り出して救助した。その後、同窓で15分間にわたり内部探索を行ったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は火災防御に当たった。ホステス更衣室窓で死亡者7名を取り残す結果になった[240]

西署はしご車分隊の活動編集

西署はしご車分隊は、22時44分出場、51分現場到着。デパートビル北東側正面に配置。53分デパートビル7階北東側正面のプレイタウン中央部窓にはしごを伸長。54分救出活動開始。22時54分から23時7分までの13分間に失神状態の1名を含む要救助者計3名をリフターで救助。さらに、はしご伝いに自力で降りてきた7名を救出。合計10名(男性5名、女性5名)を救出した。その後、18分間にわたりり内部探索を行ったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は火災防御に当たった。救出窓で死亡者はいなかった[241]

東署はしご車分隊の活動編集

東署はしご車分隊は、22時44分出場。52分現場到着。デパートビル北東側正面東寄りに配置(アーケード入口前)。23時1分北東側窓1か所(救助袋が設置された窓)にはしごを伸長、01分救出活動開始。順次、東側の窓2か所(商店街アーケードの真上)にはしごを移動。23時1分から23時23分までの22分間に、合計3か所の窓から8名を救出。5名は、はしごに自力で乗ったが、2名は窓際で失神している状態のところを消防隊員に引っ張り出され救助に成功、1名はリフターで救出した。なお、はしごが伸長している最中に2名がはしごに落下してきて地面に墜落、死亡した。救出窓で死亡者9名を取り残す結果となった。なお東署はしご車分隊は、救出活動終了後に火災防御に当たったが、内部探索は行っていない[241]

阿倍野署はしご車分隊の活動編集

阿倍野署はしご車分隊は、22時44分出場、54分現場到着。デパートビル北東側西寄りに配置。55分デパートビル7階北東側西寄り窓(バンドマン室)にはしごを伸長、56分救出活動開始。22時56分から23時14分までの18分間に、はしご伝いに自力で降りてきた20名(男性17名、女性3名)を救出した。その後、15分間にわたり内部探索を行ったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は火災防御に当たった。バンドマン室窓で死亡者3名を取り残す結果となった[241]

北署はしご車分隊の活動編集

北署はしご車分隊は、22時42分出場、55分現場到着。デパートビル北側東寄りに配置。57分デパートビル7階の北側東寄り窓(タレント室)にはしごを伸長、58分救出活動開始。22時58分から23時8分までの10分間に、10名を救出した。うち8名はタレント室窓からはしご伝いに自力で降下し、うち2名は厨房の窓際で失神しているところを消防隊に引き出されリフターで救助された。その後、22分間にわたり内部探索を行ったが、延焼階から噴き上げる濃煙と熱気により救出活動が阻止されたため、以降は火災防御に当たった。厨房窓で死亡者5名を取り残す結果となった[241]

南坂町分隊の活動編集

南坂町分隊は、砂袋(おもり)無しで地上に投下された救助袋が2階のネオンサインに引っ掛かったところを、消防隊員が二連はしごを立て掛けて登り、袋の先端を地上に降ろした。その後、通行人に救助袋先端の把持を頼んだ。さらに消防車に積んでいたサルベージシートを救助幕として活用。通行人の協力を得てシートを拡げ、22時55分から23時1分の7分間、7階窓から救助袋で脱出する途中に墜落してきた者3名(男性2名、女性1名)を救助することに成功した[220]

その他の人命救出活動としては、出場第一陣(南本署四分隊、南坂町分隊、道頓堀分隊)を中心にビル内部の探索を行い、7階はもちろんのこと、延焼階も含めて要救助者の捜索に当たった。消防隊の初期活動は、消火活動よりも人命救助優先で進められた。しかし、濃煙と暗闇により視界が利かず、また熱気により呼吸困難と熱傷に晒されたことからビル内部の探索を断念した。人命救助優先は、23時30分の救出活動終了が宣言されるまで継続されていた[234]

救急隊の活動編集

救急隊の活動は、大阪市消防局の救急隊12隊(救急車17台)により、負傷者を病院へ搬送した[232]。7階からの飛び降りや墜落者が出始めたころから救急搬送が活発化し、はしご車で救出された人たちが50名に達したころにピークを迎えた。搬送は合計25回で、56名の負傷者(即死同然の者も含む)を大阪市内13か所の病院へ救急搬送した[232]。担架隊は10隊が投入された[32]

消防隊の火災消火および火災防御活動編集

出場第一陣が22時43分に火災現場に到着、22時46分から放水が開始された。その後に特別体制が発令され、第三出場まで行われた。現地指揮本部が設置され、7時41分の火災鎮火までの間に出動した消防車両(消防隊)は合計85台(はしご車7台と救急車17台を含む)で、投入された消防士は596名にのぼった(非番の100名を含む)[32]。投入された消防車両は、普通ポンプ車(PR)25台、普通ポンプ車(P)3台、水槽付きポンプ車(TR)7台、水槽付きポンプ車(T)4台、はしご車(L)7台、スノーケル車(S)5台、屈折放水塔車(W)1台、救出車(R)3台、排煙車(SE)1台、サルベージ車(SA)2台、方面隊車両4台、敏動隊車両(バイク隊)6台、救急車(A)17台である[242]

主な分隊の消火防御活動編集

  • 南署南坂町R分隊[注釈 22]
    • 7階から転落してくる者の救助活動、照明灯火作業および酸素ボンベ充てん作業をおこなった[243]
  • 南署道頓堀PR分隊[注釈 22]
    • デパートビル西側から内部侵入し、ホース2本を使用して3階で消火活動をおこなった[243]
  • 南署本署PR分隊[注釈 23]
    • デパートビル西側から北側で放水する西成分隊の屈折放水塔車に給水、および南側で放水する北署本署スノーケル車に給水をおこなった[243]
  • 南署本署TR分隊[注釈 23]
    • デパートビル西側から内部侵入し、3階と4階で消火活動をおこなった[243]
  • 東署上町PR分隊[注釈 22]
    • デパートビル南東側からビル南側で放水する住吉はしご分隊と、ビル北側で放水する南署本署スノーケル車に給水をおこなった[244]
  • 南署恵美須TR分隊[注釈 24]
    • デパートビル南東側より北側と南側から内部侵入し、各延焼階で消火活動をおこなった[244]
  • 南署立葉T分隊[注釈 24]
    • デパートビル東側から住吉はしご車分隊への給水、および南側から内部侵入し、4階で消火活動をおこなった[244]
  • 南署立葉PR分隊[注釈 24]
    • デパートビル南側から内部侵入し、4階で消火活動をおこなった[244]
  • 南署本署S分隊[注釈 23]
    • デパートビル北側から上層階に向けて放水をおこなった[244]
  • 西成署海道TR分隊
    • デパートビル東側から内部侵入し、3階で消火活動をおこなった[244]
  • 東署T分隊[注釈 25]
    • デパートビル北東正面出入口から内部侵入し、2階で消火活動をおこなった[244]
  • 西成署津守PR分隊
    • デパートビル南西側より内部侵入し、3階と4階で消火活動をおこなった[244]
  • 大正署泉尾TR分隊
    • デパートビル南側から内部侵入し、3階で消火活動をおこなった。また、東署スノーケル車に給水をおこなった[244]

被害状況編集

人的被害編集

千日デパート火災における人的被害は、死者118名[9][10][11]、負傷者81名で[10]、負傷者のうちプレイタウン関係者47名[245][10]、消防隊員27名[246]、警察官6名、通行人1名である。

火災発生当時のデパートビル滞在者編集

火災発生時に千日デパートビル内に滞在していた人は212名[247]である。7階プレイタウンで181名[注釈 8][247]、地下1階プレイタウンエレベーターホールまたは1階プレイタウン出入口近辺にプレイタウン関係者が10名(ホステス9名、ボーイ1名)[247]、地下1階の電気室と機械室にそれぞれ千日デパート社員が1名ずつ計2名[247]、1階に当直の千日デパート保安係員が4名[247]、3階ニチイ千日前店に電気工事作業員ら5名[247]とニチイ社員2名[247]、4階ニチイ千日前店にニチイ社員2名[247]、6階ボウリング場工事現場に工事作業員6名である[247]。7階プレイタウンに滞在していた181名以外のデパートビル滞在者に死者や負傷者は一人もおらず、全員無事にデパートビル外へ脱出している。

死亡者の内訳編集

死者118名は、すべて7階プレイタウンの関係者である。死者の内訳は、男性が48名[248]、女性が70名[248]、客が34名(男性33名、女性1名)[248]、ホステスが65名[248]、プレイタウン従業員が19名(男性15名、女性4名)[248]である。7階プレイタウンのフロア内で死亡した者が96名[249](男性43名、女性53名)[133]、7階窓からの飛び降りや転落で死亡した者が9名[9](男性3名、女性6名)[133]、救助袋からの転落で死亡した者が13名[9](男性3名、女性10名)[133]である。

7階プレイタウンフロア内の死亡場所編集

7階プレイタウンのフロア内で死亡した96名の死亡場所は、ホール中央部で26名[249](男性14名、女性12名)[138]、ホール客席で1名[249](男性1名)[138]、ホール窓際で12名[249](男性3名、女性9名)[138]、その他のホール内で7名[249](男性4名、女性3名)[138]、トイレで7名[249](男性4名、女性3名)[138]、レジ・リスト室で4名[249](男性1名、女性3名)[138]、物置(ホール西側資材置場)内で13名[249](男性6名、女性7名)[138]、事務所前換気ダクト付近で8名[249](男性2名、女性6名)[138]、バンドマン室で3名[249](男性3名)[138]、調理室で5名[249](男性2名、女性3名)[138]、冷暖房機械室で1名[249](男性1名)[138]、事務所内宿直室で2名[249](男性1名、女性1名)[138]、ホステス更衣室で7名[249](男性1名、女性6名)[138]、である。

死亡者の死因編集

7階プレイタウンフロアで死亡した96名の死因は、一酸化炭素中毒が93名(男性40名、女性53名)[250]、胸部腹部圧迫が3名(男性2名、女性1名)である[9][250]。7階窓からの飛び降りや救助袋からの転落によって死亡した22名[249]の死因は、脳挫滅1名(男性1名)[251]、脳挫傷12名(男性5名、女性7名)[251]、頸椎骨折3名(女性3名)[251]、骨盤骨折2名(女性2名)[251]、胸腔内内臓破裂2名(女性2名)[251]、外傷性ショック2名(女性2名)[251]である。

負傷者編集

火災発生時のプレイタウン滞在者181名[注釈 8]のうち、7階から自力で脱出できた者が10名(男性4名、女性6名)[252]、消防隊のはしご車で救出された者が50名(男性37名、女性13名)[234]、救助袋から地上へ降下中に転落したところを消防隊のサルベージシートで救助された者が3名(男性2名、女性1名)で[251]、7階からの生還者は合計63名(男性43名、女性20名)である[133]。負傷者81名について、プレイタウン関係者の負傷者は消防隊による救出または自力脱出した63名のうちの47名で[8]、残りの16名は負傷者に計上されていない。主な負傷内容は、煙を吸い込むなどして負った一酸化炭素中毒[253]、救助袋に手足を擦り付けるなどして負った熱傷[253]、飛び降りによる腰部骨折、大腿部骨折、肘骨折、全身打撲、打撲、挫傷などであり[251]、その他にショック症状、急性結膜炎による負傷もあった[253]。また消防隊員27名の負傷はおもに一酸化炭素中毒である[246]。警察官と通行人の具体的な負傷状況は不明であるが、警察官6名は軽傷、通行人1名は中傷に分類されている[231]

7階からの生還者編集

  • 自力脱出者
7階プレイタウンから生還した者のなかで、自力で脱出できた者が10名いる。まず火災覚知の初期にA北東エレベーターで地下1階まで降下して助かったホステス1名[注釈 26]、B階段を使用して1階へ脱出した2名(クローク係の女性1名、ホステス1名)[254]、救助袋の上を馬乗りになって降下し、脱出に成功した者が5名(男性3名、女性2名)[254]、7階東側窓から商店街アーケードへ落下、または飛び降りて助かった男性2名[254]である。
  • B階段を使って避難した2名の女性
B階段を使って避難できた2名のうち、クローク係の女性は、エレベーターホールに白煙が漂っているのを感じ、隣の電気室にいる電気係にそのことを知らせた[252]。電気係は現状を知らせようとホール内へ向かって行った[252]。その直後にA南エレベーターから噴き出す煙の量が急激に増してきて、数メートル先も見えない状況に陥ったために、クローク係の女性は危険を感じてすぐにB階段から避難したという[252]。クローク係の女性は、自分の持場のすぐうしろに避難階段があることをあらかじめ知っており、さらにはクロークがB階段に直結していたことが幸いし自力で脱出できた[252]。またもう1名のB階段を使って避難に成功したホステスは、接客中に煙の流入に気付いて客席からレジに向かったが[251]、店内放送で「落ち着いてください」と流れたので[251]、元の客席に戻ってしばらく座っていたが、煙に巻かれたので避難することにした[251]。猛煙と停電による暗闇のなか、手探りでフロアを進み、男性用トイレと女性用トイレに交互に入って嘔吐したり[251]、ハンカチを水に濡らして口に当てたりした[251]。そして壁伝いにエレベーターホールに出て、なんとかB階段に辿り着き、無事に地上へ脱出できたという[251]。この女性が猛煙と熱気、暗闇の恐怖に晒されながらもB階段を目指せたのは、普段から退勤時にエレベーターを使わず「健康のために」という理由でB階段を利用していたからであり[251]、事前に持っていた情報が自力脱出の成功に大きな影響を与えた[251]
  • 7階窓から飛び降りて助かった男性客
7階東側窓からアーケード屋根に飛び降りて助かった男性客1名は、火災覚知の初期に他のプレイタウン関係者同様、エレベーターホールへ行ったり、他の非常口を目指したりしたが、いずれも使えずに避難が不可能になったので、東側窓に移動した。そのときの状況を男性は次のように語っている。
友達と飲んでいたら急に煙が店内にたちこめたので、火事だと思い、エレベーターの乗り場へ飛んで行った。しかしここはすでに人でいっぱいのため、反対側の非常口へかけつけたが、これも使えなかった。火が店内まで回り、キャーッという悲鳴がうずまき、客もホステスもパニック状態だった。最後の逃げ口として窓へ取り付き、ガラスを割ったがものすごい煙と火に攻められた。別の窓から次々に客とホステスが耳をつんざく悲鳴を残しては飛び降りていった。頼みのツナの梯子車は私の窓にはやって来ず、いっしょにいた5、6人は順々に飛び降りた。私は10数年前から趣味でダイビングをしていたので降りる見当はつけやすかった。歩道にある電柱を支えるロープ(アーケード上の補強ワイヤー)をめがけて飛び降りた。ちょうどおなかの部分がロープに当たり、その反動でアーケードの屋根にドスンと降りて助かった。気が付くと腕時計もなく、下着もおなかの部分でちぎれていた〔ママ[255][251] — 男性客N.M.さん、産経新聞 1972-05-14
また一方で次のように語った。
二回目に、エビ飛び見たいな形で飛び降りた。ゆっくり降りている、という意識があって、うまくいったと思った[256] — 男性客N.M.さん、週刊朝日 1972-05-26
アーケード屋根に張られた2本のワイヤーをめがけて飛び降りた際に、腹がワイヤーに当たって助かったという。肋骨骨折、腹部裂傷の重傷を負ったが、19年間続けていた趣味のダイビング経験が活かされ九死に一生を得た形である[257]。だがそれでも飛び降りるのを1度はあきらめ、10分くらいは窓枠にぶら下がって逡巡してから飛び降りたという[258]。もう1名の男性もアーケード屋根に落下して助かった[254]。こちらは、猛煙と熱気から逃れようと窓枠にぶら下がっているうちに力尽きて垂直にアーケードヘ落下したが左大腿部骨折と左肘骨折の重傷を負いつつも一命を取り留めた[254]
  • 救助袋で脱出に成功した女性
救助袋の上を馬乗りになって降下して助かったホステスの一人は、そのときの状況を次のように語った。
私はボックスでお客さんにビールをついでいました。もうみんなめちゃくちゃ、どこへ逃げていいかわからず、とにかく強そうな男の人にくっついていけばと思った。そばにいた背の高い人の背広のそでを握りしめて、窓のところまでたどりつきました。私は10何人目かに窓わくを乗り越え、布につかまった。下を見てはいけないと考え、両手に満身の力をこめてすべり降りた。私の両手の上に次の男のひとのおしりがのっかり、すべり降りているうち、まさつで手の平が熱くなり、破れて血が出たのがわかった。でも、この手を離したらおしまいだと思って……〔ママ[259][251] — ホステスM.K.さん、読売新聞 1972-05-14
ホステスは、地上まであと3、4mのところで手を離し落下、両腕と腿の座創、左足首を捻挫した[251]
  • はしご車による救出者
消防隊のはしご車(計5台)による7階からの救出者は、50名[170][260](男性37名、女性13名)で、救出された全員が生還できた[170]。7階プレイタウンフロアからの避難路を探す際に、あまり右往左往せず、いち早く外窓に取り付いた者がはしご車に救われた。体力が残っていた者は窓枠を乗り越え、はしごの先端から自力ではしご伝いに降りてきており、主に男性が多かった。消防隊の救助でリフターに乗せられて降下した者は、窓際で失神していたか体力が弱っていた者、女性であった。
  • 統率の取れた集団
バンドマン10名は、火災覚知の初期段階からバンドリーダーの指示でステージ裏のバンドマン控室に全員が待機していた[261]。ステージ裏の小部屋(ボーイ室、バンドマン控室、タレント室)は、ベニヤ板で間仕切りされた簡易的な部屋であったが、細かく仕切られフロアから隔絶されていたことで煙の汚染が比較的緩かった。だがF階段の電動シャッターを開けたことで7階プレイタウンに大量の猛煙と有毒ガス、熱気が流入するようになり[211]、それ以降は小部屋にも煙が大量に入るようになっていた。バンドマンらはドアのすき間に布や鼻紙を詰めて煙を凌ごうとしたが効果がなかった[199]。そこでバンドリーダーは、部屋に普段から置いてあった野球のバットで窓を叩き割り[199]、一緒に避難している仲間たちに順番に外気を吸わせて救助を待った[199]。バンドマン室の窓に阿倍野署はしご車分隊のはしごが伸びてきて救出が始まったのは22時56分である[262]。はしごの先端に付いていた消防ホースノズルが邪魔してはしごと窓枠の間に30センチメートルほどのすき間ができていた[262]バンドリーダーは自分の体重を掛けてノズル(ホースの先端部分)を折り曲げ、すき間を解消した[263][要出典]その直ぐあとに最初の2名がリフターで降下、その後を18名の避難者がはしごを自力で降りていった[263]

物的損害編集

建築物および装備品の損害
本件火災によって損害を受けた千日デパートビル(鉄骨鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造、地上7階建、地下1階および屋上塔屋3階を含む、建築面積3,770.21平方メートル、延床面積2万7,514.64平方メートル(屋上および塔屋3階部分を含む)[238])の延焼範囲は、同ビル2階から4階までで、床面積合計1万899平方メートルのうち8,763平方メートル(80.4%)が焼損し、延床面積の割合では31.8%に及んだ[237][238]。延焼階ごとの焼損割合は2階が床面積3,714平方メートルのうち3,192平方メートル(86%)[237][238]、3階が床面積3,665平方メートルのうち3,218平方メートル(88%)[237][238]、4階が床面積3,520平方メートルのうち2,353平方メートル(66.8%)である[237][238]。延焼階より上の各階は階段、空調ダクト、電気配管、エレベーターシャフトからの煙や熱気の流入によってフロア全体と商品および装備品などに多量の煤煙が掛かる損害を受けた[264]。5階の一部フロアでは、空調ダクトの隙間から流入した熱気の影響で、天井板が崩落した[265]。6階と7階ではフロアの一部で限定的な焼損がみられ、5月15日未明に6階ボウリング場改装工事現場(千日劇場跡)で小火が発生し、床の一部が焼損した[266]。また7階プレイタウンでは、事務所前の空調ダクトから熱気を伴った多量の煙が店内に流入し、ダクト吸入口周辺の天井、壁、事務所ドアなどの焦損、または廊下に積み上げられていたビールケースおよびビール瓶などの一部を熔解させる損害を出した[267]。延焼階より下の各階では、消火活動に使われた多量の消防用水が上階から流れ込み、その影響により地下1階と1階で商品や装備品などが冠水し損害を受けた[268]。千日デパートビル以外の主な損害としては、千日前商店街アーケードのプラスチック製屋根が7階からの飛降りによって天板に穴が開き、その一部が破損した[269]
損害額
大阪市消防局が公表した罹災者提出の申告書によると[270]、火災焼失による被害額は建物で19億5,000万円、収容物で16億7,937万7,000円、合計36億2,937万7,000円である[270]。収容物の損害額内訳は、商品12億2,395万2,000円、什器備品(装備品)3億695万3,000円、その他1億4,847万2,000円である[270]

出火原因編集

出火原因については、出火推定時刻22時27分(大阪市消防局推定)[35]の火災発生直前まで3階東側の出火推定場所(寝具・呉服売場付近)をタバコを吸いながら1人で歩き回っていた工事監督の失火であると推定された[35]

工事監督の失火が火災原因とする根拠としては、以下のことが挙げられる。

  1. デパートビルの電気系統には漏電などで出火を起こすような原因は確認されなかった[6][271]。21時30分ごろ(火災発生の1時間前)、ニチイ千日前店の店長が3階売場の点検をおこなったところ、出火推定場所に異常は見られなかった[159][160]。また同時刻に保安係員2名によって3階の巡回がおこなわれたが、北側と南側の二手に分かれて同階を点検したところ、出火推定場所に異常はなかった[130][159][160]
  2. 出火推定時刻に3階にいたのは工事監督1名と工事作業者4名[注釈 19]だけである[34][6]
  3. 出火推定時刻の10分くらい前に、工事監督が出火推定場所である東側売場の方へ歩いていくのを工事作業者に目撃されている[272]。また出火推定時刻に作業現場を離れて出火推定場所付近を歩き回っていたのは工事監督1名だけである[6][273]
  4. 工事監督は、歩きながらタバコを2本吸い、火が付いたままのマッチを布団の上に捨てたと供述している[6][273]
  5. 工事監督が供述したタバコかマッチを捨てた場所と、出火推定場所が一致する[272]

以上の状況証拠によって工事監督は、1972年5月14日23時45分、現住建造物重過失失火および重過失致傷の容疑で大阪府警南署に緊急逮捕された[227]

警察の取り調べに対し工事監督は以下のように供述した。:

工事終了後の予定であった北側の機械室から東側部分を今後の工事を確かめるため見て回ったり、店内を徘徊していたところ、火災現場に至って煙草が吸いたくなりパイプに煙草をさして口にくわえ、マッチで火をつけたが、その火の消えていないままのマッチをそのまま、布団の上に捨てたか、どこかでパイプに差した煙草に火をつけ、火災現場でパイプを吹いて火のついている煙草を布団の上に飛ばした。〔ママ[227] — 電気工事監督、危険都市の証言 1981

大阪府警捜査一課・南署捜査本部は、1972年6月22日10時から火災現場で工事監督の「マッチを布団の上に飛ばした(捨てた)」という供述の裏付けを取るため、出火状況を再現する燃焼実験を実施した[274]。その結果、工事監督が布団売場の布団の上に火のついたマッチを捨てたことが火災原因だと断定した[274]。しかしながら大阪地方検察庁は1973年8月10日「供述に一貫性がなく起訴するに足る証拠がない」として工事監督を不起訴処分にしている[227]。また防火管理責任者等に対する刑事裁判の判決文においても「工事監督の行動や供述を証拠上確定させることができない」として公式には火災原因は不明とされた[6][7][273]

「工事監督の供述に一貫性がない」とされるが、最初の供述では引用で記したとおり「三階でタバコをふかしながら歩いているうちに、パイプのタバコをふかしたまま捨てた」であったが[272]、その後「火のついたマッチの軸を捨てた」に変わり[272]、そして「自分がマッチで放火した」と言い出した[272]。さらに追及すると「火のついたタバコを捨てた」「タバコを吸うときにつけたマッチの火が消えているのを確認しないで捨てた」などと言うなど[272]、供述を二転三転させている(政府委員・法務省刑事局長答弁から)[272]。工事監督の供述には客観的な状況と合わない部分も見られた[272]。例えば「火災報知機のボタンを押してすぐに6階へ119番通報のために走った」との供述をしたが、工事監督からの119番通報を大阪市消防局は受信していない[275]。また「6階で119番通報をしたあと、4階へ降りたが煙に巻かれたので再び6階へ上がり、6階の窓を破ってネオン修理用のタラップに飛び移り、2階へ降りて消防隊に救われた」との証言があるものの[173]、その一方で大阪市消防局の質問調書には「工事人らが避難した後を追って1階へ逃げた」とも答えており[275]、不起訴になった理由は一貫性の無さに加えて信用性の無さも影響している[272]

直接的な証拠がないこと、目撃者がいないことも不起訴の理由となっている[272]。実際のところ、工事監督の自供以外に犯行を裏付ける証拠が存在せず、犯人であると断定するには証拠が乏しく、起訴したとしても公判を維持できないか、若しくは被疑者を有罪にできる可能性が極めて低いと判断したことから大阪地検は不起訴処分にしたという(政府委員・法務省刑事局長答弁から)[272]。仮に火のついたままのマッチを布団の上に捨てた場合、どれくらいの量の布団に火が付けばあのような火災になるのか、前記のとおり警察は火災現場で燃焼実験をおこなったが[232][274][272]、その結果は1メートル以上の高さの布団に火がつけば、本件火災のレベルに達することが判った[272]。たとえ無意識であったとしても、常識的に考えて高さ1メートルの布団の上に火のついたままのマッチを投げ捨てることなどあるのだろうか、という疑問と不自然さも不起訴に至った理由として挙げられている(政府委員・法務省刑事局長の答弁から)[272]

不起訴に至った理由としてもう一つ挙げられるのは、工事監督以外に失火か放火に関与した者が別にいるのではないか、と疑念が持ち上がったからである[272]。火災発生2週間ほど前の4月30日夜、千日デパート4階・ニチイ千日前店の婦人服売り場で、何者かが商品の婦人服にいたずら書きをした事件があった[272]。さらに火災発生当夜、デパート閉店後に3階・E階段出入口の防火シャッターが閉鎖されていたことは保安係員によって確認されているのに、なぜか火災発生時に防火シャッターは開いていた[272]。この2つの事実が確認されているので[272]、大阪地検は工事監督を起訴することに慎重にならざるを得なかった背景もある(政府委員・法務省刑事局長答弁から)[272]

1974年4月15日に開かれた遺族統一訴訟の口頭弁論で工事監督は「出火地点には近づいていないし、タバコやマッチを捨てたこともない。脅されてなぐられたりして早く釈放されたい一心で調書に署名、押印した[227]」などと述べ、一転して全面否認している[227]

日本ドリーム観光は、1974年(昭和49年)7月9日に被疑者(工事監督)の不起訴処分は不当だとして検察審査会に審査申立をおこなった[272]。同年12月5日から9日までの間に6回の審査会議が開かれ[272]、議決に向けての流れが出来上がったところに、1975年(昭和50年)1月14日、遺族3名が被疑者(工事監督)の不起訴処分に納得できないとして検察審査会に申立をおこなった[272]。遺族3名からの申立については、審査を申立てたのが被害者本人ではないことから、即日却下された[272]。だが検察審査会の職権により日本ドリーム観光の審査申立に併合する形で審査が進められることになった[272]。その結果、1月16日に「被疑者(工事監督)の不起訴は相当である」と結論が出された(最高裁判所事務総局刑事局長の答弁から)[272]。これによって一事不再理の原則から工事監督の不起訴処分が確定した。

出火場所編集

出火推定場所は、南警察署によると「3階東側の柱12号の南西の布団台」付近、また南消防署長の火災原因決定意見書では「店舗Q」および「ニチイ寝具・呉服売り場」付近と推定された[227]。いずれも第一発見者の工事人が目撃した「赤黒い炎と黒煙」が立ち昇っていた3階東側のエリアである。この付近は、コンクリートの柱、梁、スラブ、金属類以外はすべて燃え尽きていたが、柱やスラブの煤けの程度は他の場所に比べて少なかったことが根拠となっている[35]

火災および被害が拡大した要因編集

千日デパートの防火管理上の問題点編集

既存不適格の建物編集

千日デパートビルは、1932年(昭和7年)に建設された建物に度重なる改修を加えて使用しており、火災当時(1972年)の建築基準に合わない部分がみられ、いわゆる既存不適格の建物であった。また消防法においても1961年(昭和36年)以前に建てられた建築物かつ防火対象物ということで、現行法規に適合させるまでの猶予を与える「前法不遡及の原則」に従って遡及適用を免れていた。

共同防火意識の欠落編集

千日デパートを経営管理する日本ドリーム観光と、プレイタウンを経営管理する千土地観光とは「親会社と子会社」の関係にあるが、両社間で共同で消火訓練や避難訓練を実施したことは一度もなかった[276]。また千日デパートとプレイタウンの間で防火管理の責任者同士が火災や災害時の通報体制、避難誘導などについて協議したことは一度もなかった[277]。また共同で防火管理をおこなうための協議会を設置する考えも無かった[276]。異なる管理権原者同士の共同防火管理意識の無さを象徴する例として、火災発生の10か月前に千日デパート管理部は6階以下の階すべてに災害時に全館一斉放送ができる防災アンプ(非常放送設備)を設置したが、7階プレイタウンだけには設置されず、そのことをプレイタウンに通知していなかった[276]。さらには7階プレイタウンから1階保安室へ火災発生を知らせる火災報知機は設置されていたが、全館火災を知らせるために7階で鳴動する火災報知機の設置は無かった[276]。また保安室からプレイタウンへ緊急通報する手段は、内線電話と外線電話の両方があったものの、それはデパート営業時間内に限られていた。閉店後は保安室とプレイタウン間の連絡は同じ建物内に入居していながら「外線電話」でおこなうしか手段がなかった[276]

消防査察の指摘を無視編集

火災発生の1年前(1971年5月)、千葉市の田畑百貨店で閉店後の深夜に火災があったことをきっかけに、消防当局は閉店後の防火区画シャッターやエスカレーターの防火シャッターカバーを閉鎖するように指導方針を大きく変更した[278]。それに伴い大阪市消防局は、1971年5月25日と26日に管内の百貨店や商業施設に対して夜間査察を実施した。同時に南消防署も管内の百貨店などに対して特別点検を実施した。大阪市消防局と南消防署は、査察と点検の結果を各百貨店の関係者を集めて報告し、同時に説明会もおこない、千日デパートの管理課長も出席していた。同デパートについて市消防局と南署が指摘した内容は以下のとおりである[279]

  1. 2階F階段入口の横引きシャッターが故障していて使えない状態であり、閉鎖できるよう修理すること。
  2. 各フロアの防火区画シャッターのシャッターラインが確保されていない個所があり、改善すること。
  3. 閉店後にフロアの防火区画シャッター、エスカレーター、階段の防火シャッターを閉鎖すること。

消防署の査察の結果を受けて管理課長は、各テナントの協力を得てシャッターラインの確保は実施したが、2階F階段横引きシャッターの修理と閉店後の防火区画シャッターの閉鎖については実行しようとせず、消防署の指導を無視した[280]。2階F階段シャッターの故障については、消防署から再三にわたり改善を指導されており、1970年12月にも管理課長は南消防署から同所の故障について指摘されていたが、そのことを上司に報告するも、何も改善されなかった[280]。その後も一向に改善も修理もされず、火災発生日を迎えた。防火設備の設置に関する中途半端な対応の例として、自動火災報知機(熱式感知器)は一部の階を除いて設置されていたものの、火災延焼階である2階から4階にだけは取り付けられていなかった[281]

脆弱な保安体制編集

千日デパートの防火区画シャッターは一部を除き、そのほとんどが手動式で、地下1階から4階までで合計68枚あった。これを限られた人数の保安係員だけで開店時と閉店時に巻き上げたり、降ろしたりするのは労力的に厳しく、実効性は無かった。保安係の職務のうちの一つに「店内諸工事等の立会いならびに監視取締り業務」があり、本来ならば店内工事に際して保安係員が工事に立ち会う義務があったところ、昭和40年ころから一部を除いて工事に立ち会っていなかった。保安係員は、開業当初の1958年当時は25から26名の人員がいたものの、1967年(昭和42年)に納入業者制を廃止し賃貸契約制に移行したのを機に人員が削減され、火災当時の1972年(昭和47年)には日勤専従者2名を含む14名で業務を行っていた。また給与面などの待遇はあまり良くなく、退職者が発生しても、その補充が容易にはできなかった。したがって保安係員だけで68枚の防火区画シャッターを開閉することは難しく、テナントの協力を得て売場の防火区画シャッターを開店時と閉店時に開閉することも困難な状況であった。テナントの一部は管理部長と交渉して天井裏を倉庫として利用したり、1階外周店舗を物置にして、そこからビル内に出入りできるように改造したり、消火栓の位置を変更したりする者もいて、テナントの防火意識は充分ではなかった。またテナントの多くは、デパートビルの防火管理は、デパート管理部が行うべきものと考えていた。デパート側とテナント側、双方の共同防火意識は希薄だった。

テナントの宿直を認めず編集

ニチイ千日前店は、賃貸契約時の管理部との取り決めで、出店している3階と4階のC、E、F階段の出入口にある防火扉と防火シャッターの閉鎖、エスカレーターの防火シャッターカバーの閉鎖は、ニチイ社員が実施することで合意していた。しかし、売場内の防火区画シャッターの閉鎖については双方の間で取り決めは成されていなかった。管理部は、テナントが閉店後の店内で残業する場合は、管理部に届けを出すことを義務付けており、テナント従業員が宿直することを認めていなかった。ただしニチイ千日前店だけは例外で、残業は届け出無しに23時までおこなえた。残業が終わったあとは、売場の防火シャッターを閉鎖し、照明等の電源を切り、人が取り残されていないことを確認し、従業員通路(D階段出入口)を施錠をしたうえで管理部に引き継ぐことになっていた。7階プレイタウンに関しては、管理権原が完全に別なので独自に宿直員を置くことが認められていた。またプレイタウンでは23時閉店以降の店内巡回を保安係に委託しており、プレイタウンを経営する千土地観光が保安係員1名分の人件費を負担していた。

各テナントが店内の工事をする場合は、管理部の許可を受ける必要があった。管理部はテナントから付加使用料という名目の管理費を毎月徴収していて、保安係員の給与に充当されていた。

7階プレイタウンの防火管理上の問題点編集

希薄な防火管理者の当事者意識編集

7階プレイタウンは、消防法における防火対象物の一つであり、区分は2項・(イ)にあたる。プレイタウンの管理権原者は千土地観光の社長であり、また防火管理者はプレイタウン支配人が選任されていた[282]。通常であれば支配人に就任(1970年9月)したと同時に防火管理者の任にも就くところ、前任者からの引継ぎに9か月間の空白期間があり、防火管理者の変更届がしばらく出されておらず、実際選任されたのは1971年5月頃であった[282]

プレイタウンは蚊帳の外編集

千日デパートを経営する日本ドリーム観光とプレイタウンを経営する千土地観光は、親会社と子会社の関係にありながら、親会社が経営管理するビルにテナントとして入店している子会社の店舗が管理外に置かれ、防火管理上も完全に無視され、7階プレイタウンは孤立状態に置かれていた。そして千日デパートとプレイタウン双方の管理権原者と防火管理者が防火管理や避難誘導について協議したことは無かった。また共同で行うべき消防訓練や避難訓練を行ったことは一度もなく、そもそもビル火災を想定した対策や訓練を実施する発想がまったく無かった。

消防査察、9つの指摘編集

プレイタウンは、消防法が定めるところの特定防火対象物であり、個別に消防検査を定期的に受ける。南消防署の検査では、1970年12月から1971年12月までの1年間に4回の立ち入り検査(防火査察)を受けていた。そのうちの1971年12月8日の検査で9項目の改善指示を勧告され、同月20日の再検査で以下の事項を再び指摘された[177]

  • 12月8日の検査で「救助袋の破損している個所を早急に補修するか、新品に交換すること」と指摘されたが一向に改善されないので、以下の指導がなされた[177]
  1. 救助袋の取替えと使用禁止、その旨を貼紙すること。
  2. B階段出入口前のカーテンを取り除いて非常口であることを明確化すること。
  3. 屋内避難階段への誘導灯設置。
  4. 非常警備設備の非常電源付置と自動サイレン、放送設備併置の4項目が放置状態であると指摘された。
  • その他の5項目は以下のとおりである[161]
  1. 各防火戸にはドアチェックを付けること。
  2. 南側避難用通路の雑品は避難の支障になるので除去すること。
  3. 舞台と休憩室、更衣室での喫煙管理の徹底。
  4. 店内の装飾用品は防火処理を施したものを使用すること。
  5. 修業点検を確実に励行し火災予防に万全を期すこと。

支配人は、南消防署の検査に2回立ち会っていて、立ち会わなかった検査については、立ち会った社員から報告を受けていた[283]。そして消防署からの指摘された箇所を上司である千土地観光の社長に報告したが、社長は取り合おうとはしなかった。その後、支配人は進言をすることはなかった[283]

火災が延焼した要因編集

開けっぱなしのエスカレーター開口部編集

2階から4階までのエスカレーター開口部に設置されている防火シャッターカバーおよび3階E階段出入口の防火シャッターが閉店後に閉鎖されておらず、その部分から最初に上下階へ火災が延焼した。4階から5階に通じているエスカレーター開口部の防火シャッターカバーは、火災時には閉鎖されており、4階からの火炎を食い止めて5階への延焼を完全に防いでいる。5階から7階までは延焼による被害は殆どなく、煙によって煤を被っただけである。つまり、もしも3階から4階までのエスカレーター開口部と3階E階段の防火シャッターが火災発生時に閉鎖されていたならば、3階から上下階へ火災が延焼した可能性は低くなっていたと考えられた。また3階で行なわれていた電気工事現場周辺の防火区画シャッターは作業中に閉鎖しておらず、火災を限られた区画内に閉じ込めることができなかった。工事上開放を要するものを除いて防火区画シャッターを閉鎖しておけば、さらに火災を3階のごく狭い範囲に閉じ込めることができたと考えられており、防火区画シャッター閉鎖の必要性と義務は、後の刑事裁判において重要な争点となった。

前法不遡及の原則編集

千日デパートビルは、昭和36年の消防法施行令制定以前の防火対象物ということで「前法不遡及の原則」に従い、全館のスプリンクラー設置義務から免れており、自動で火災を消火する設備に頼ることが出来なかった。またその他の防火設備、または消火設備に関しても設置義務の適用から免れており、例えば自動火災報知機、煙感知式自動防火シャッター、排煙設備などは設置されておらず、火災拡大の一因となった。

大量の可燃性商品編集

出火元の3階と4階のニチイ千日前店で取り扱っていた主な商品は、可燃性の衣料品や繊維商品であり、それらの商品が大量に陳列されているところへ火災が発生したため、瞬く間に火災は燃え広がり、フロア全体がフラッシュオーバーを起こしたことで爆発的に延焼するに至った。また2階についてもフロア全体に小売店舗が密集して営業し、商品を大量に陳列していたので、延焼拡大を招き易い状態だった。千日デパートは、昭和30年代から40年代の多くの百貨店や商業施設と同じように、外窓をベニヤ板などで遮蔽し、外光を取り入れないようにして壁の一部、またはインテリアデザインとして利用しており、それにより消防隊の消火活動に遅れを生じさせたことも火災拡大の一因として挙げられる。

プレイタウンに大量の煙が流入した要因編集

ビル最上階で営業していたプレイタウン編集

プレイタウンは最上階である7階に位置していた。火災の煙は、建物内の竪穴に到達すると煙突効果で急上昇をはじめる。その速さは秒速3メートルから5メートルに達し、ビルの最上階から真っ先に溜まっていく[284]。7階が猛煙と有毒ガスに襲われたのは必然だった[285]

エレベーターシャフトの隙間編集

プレイタウン専用のA南エレベーターは、地下1階と7階を結ぶ直通エレベーターであり、両階のエレベーター出入口を除いてエレベーターシャフト内に開口部は存在しないはずである。ところが2階と3階の天井部分に手抜き工事による隙間が残っていて、火災階から流入した煙が煙突効果により、エレベーターシャフトを通じてプレイタウンへ大量に流れ込む一因となった[134]

A南エレベーターシャフトの2階と3階部分の北壁は、床スラブと天井梁との間をコンクリートブロックを積み重ねて塞ぐ構造になっているが、床から天井梁までの高さが3.18メートルあるにもかかわらず、床から立ち上がっているコンクリートブロック壁が2.39メートルしかなく、天井梁との間に縦79センチメートル、横1.88メートルの隙間が開いていた。またコンクリートブロック壁の南側(内側)に厚さ3センチメートルのモルタル壁が天井梁から88センチメートル垂れ下がっていたが、ブロック塀とモルタル壁との間には約33センチメートルの間隔があり、すき間を埋める役目を果たしていなかった。普段は床から2.3メートルの高さに貼られたフロア天井板によって件の隙間は隠されていて、誰もその欠陥に気が付くことはなかった。そして火災時、フロア天井板が高熱に晒されて崩落したとき、煙が「隙間」からA南エレベーターシャフト内へ大量に流入した。

また2階のA南エレベーターシャフトにも同じような欠陥があり、上下に1.1メートル、横方向に1.83メートルの隙間が開いており、モルタル壁の垂れ下がりは1.15メートルあった。ブロック壁とモルタル壁との隙間は4センチで3階ほど大きくはなかったが、モルタル壁そのものに上下約7センチメートル、横方向10センチメートル、さらに縦3 - 5.5センチメートル、横10センチメートルの「2つの穴」が開いており、その部分から煙がエレベーターシャフトに流入した。7階エレベーター出入口からは秒間25立方メートル、総量4.5トン、3700立方メートルにおよぶ煙がフロアへ噴出した[286]

空調ダクトから噴出した煙と熱気編集

火災延焼階である3階と4階、さらには6階と7階を竪穴で垂直に繋いでいるプレイタウン事務所前の空調ダクト(リターンダクト)から大量の煙が流入した。千日デパートでは、自主的に空調ダクト内に防煙ダンパーを3か所設置していたが[287]、それらはいずれも故障していて作動せず、プレイタウン内で多くの犠牲者を発生させる一因となった[287]。ダクトから噴出した煙は、秒間1.7立方メートル、総量3トン、2500立方メートルであった[286]。空調ダクトから噴き出した煙は特に高温であり、事務所前のダクト吸入口すぐ横に7段で積み上げられていたビールケース(ポリエチレン製)の山が、一列すべて溶け落ちるほどの勢いだった[134][288]

階段防火シャッターの故障編集

7階プレイタウンに通じていた4つの階段のうち、E階段の3階部分と、F階段の2階部分の防火シャッターが一部閉鎖されておらず、その部分から大量の煙が流入し上昇した。3階E階段の防火シャッターは、高さが2.48メートルあるにもかかわらず、火災発生時に65センチメートルしか降ろされていなかった[289]。2階F階段は吹き抜け閉鎖用の横引きシャッターが故障しており、南消防署の査察を受けるたびに修理改善を指導されていたにも関わらず、長年放置され火災発生時にも全く改善されていなかった[289]。避難しようとした従業員がホステス更衣室に直結したE階段非常口を開けたために大量の煙が更衣室に流入した[290]。また屋上へ避難しようとプレイタウン関係者がF階段シャッターを開けたことにより、秒間9立方メートル、総量12トン、9700立方メートルにおよぶ煙と有毒ガスおよび熱気が7階に流入した[286]。F階段シャッターを開けた直後に停電が発生し、電動シャッターを再び閉鎖することができなくなったことも災いした[210]

なぜプレイタウンで多くの犠牲者が出たのか編集

火災発生の報知および情報が7階に伝わらず編集

7階プレイタウン滞在者に対して、火災発生の報知および正確な情報がまったく伝わらず、異常覚知が大幅に遅れ、初期の避難行動を起こす機会を失った。火災発生直後に電気工事作業者の1人が3階の火災報知機を押したが(22時34分頃)、それはデパートビル全館に火災発生を知らせる自動火災報知機ではなく、1階保安室に火災を知らせる機能しかなかったため、プレイタウンには火災発生の情報が全く伝わらなかった。それどころか火災状況の報告を受けた1階保安室がデパート閉店後のプレイタウンに対して持っている唯一の連絡手段「外線電話(加入電話)」で連絡すらしなかった。このためプレイタウン滞在者は火災発生の正確な情報を素早く受け取り、7階から迅速に避難する機会を失った。消防隊の第一陣は現場到着の際、デパートビル保安係員に対し「上はやっているのか(=プレイタウンは営業しているのか)」と尋ねたところ、保安係員らは何を訊かれているのか意味が理解できず、答えられなかったという。また保安係員は、なぜプレイタウンに通報しなかったのかと問われ「当然7階では火災に気付いていると思ったから連絡しなかった」と答えている。

プレイタウン関係者らは、7階に流れてきた煙について、ある者はエレベーターの故障が原因だと考え[291]、またある者は地下1階のプレイタウン専用ロビーで小火があったのだろうと考え[291]、以前にも同じことがあったから今回も大丈夫だと判断した[291]。さらには漂っている煙はプレイタウン電気室が火災を起こしているからだと思い込んだ者もいた[185]。調理場にいた従業員らは空調ダクトから噴き出す煙と熱気に対して、ダクトのどこかが火元だろうと考え、訳も分からずダクト吸入口にバケツで水を掛け続けた[291]。ホールにいた客やホステスらの中には「調理場で魚か干物でも焼いているんだろう」と考えた者さえいた[179]

7階に煙が流入したことを関係者らが最初に覚知したのは22時35分から36分頃であり、大量の黒煙と有毒ガスが流入するまで約4、5分の時間があった。この間に何らかの方法で火災の正確な情報がプレイタウンに知らされていれば、全く意味のない無駄な消火活動をしたり、漫然と煙が漂う状況を見過ごしたりすることなく、すぐさま避難行動に移れたと考えられている。その時点でまだ稼働していたエレベーター、若しくはB階段でいくらかの避難は可能だった。火災初期に迅速な避難がなされていれば、ホステス更衣室と宿直室に滞在していた11名を除いて、170名程度のプレイタウン滞在者は無事に地上へ避難出来ていた可能性が高いとされている[292]

防火責任者らによる避難誘導はおこなわれず編集

支配人をはじめとする従業員らによる組織的かつ迅速で適切な避難誘導がほとんど行われなかった。従業員らによる避難誘導らしきものは、レジ係が支配人の指示でおこなった「ホステスの皆さんは落ち着いてください」という店内放送と[293][194]、煙が充満したエレベーターホールに殺到した者たちをホールに押し戻すためにボーイらが発した「こちらにはいけない」「下がって」というような制止の言葉[196]、両手を広げて避難者の流れを押し止める手振りだけである[178]。防火管理者であるプレイタウン支配人は、平素より下層階で火災が発生した場合を想定した避難方法や避難経路をまったく考えておらず、客や従業員らに対する避難誘導ができなかった。いちおうプレイタウンでは自衛消防組織なるものを作り、防火に対する気構えは見せていたが、あくまでもプレイタウン内の火災発生時に迅速に消火活動を行う目的であって、下層階で発生した火災に際して客や従業員らを避難誘導することを念頭に置いたものではなかった[294]

防火管理者は、従業員を対象にした避難訓練をほとんどおこなっていなかった。いちおう火災の前年(1971年)に消火器の使用方法と点検に加えて実施してはいたが、参加者はわずかに26名で、全従業員の四分の一にも満たず、訓練の効果は認められなかった。避難訓練の際にプレイタウンやデパートビルの避難設備などに関する正確な情報を避難誘導を行うべき従業員らに与えなかったことにより、誤った情報による避難誘導で物置の中へ誘導された者がいたり、救助袋の正しい使用方法を避難者が理解できずに墜落死を招いたりした。また防火管理者である支配人は、客や従業員らに対する避難誘導においても最高責任者の立場であるにもかかわらず、避難誘導もおこなわず、真っ先に消防のはしご車で救出されている。

唯一の安全な避難階段、有効に使われず編集

避難階段が有効に使用できなかった。プレイタウンは地下1階と屋上を繋ぐ4つの階段(A、B、E、Fの各階段)に繋がっているが、そのうちのA、E、F階段については常時施錠されていて使用不可能であり、防火扉2枚で遮蔽されたバルコニー付きの特別避難階段であるB階段(特異火災事例の図面を参照)が、唯一避難に使える階段となっていた。B階段は事実上プレイタウン専用の階段になっており、プレイタウンの営業中は地下1階と7階の扉に鍵は掛けられておらず、関係者が自由に使用することができた。また地下1階と7階を除いては各フロア出入口は施錠されており、火災の発生時に煙や火炎の流入を抑え、B階段内を煙による汚染から防ぐ機能を備えていた。

火災の初期に消防士の1人がB階段を駆け上がって内部探索を行った際に、4階までは全く煙も炎も無く、難なく昇れたという。しかし5階まで来たとき、上階から黒煙が降り注いできて消防士の行く手を遮った。それでもなんとか6階まで行ってみたが、それ以上の侵入は不可能だったという。それは、B階段自力脱出者2名が7階B階段の扉を開放したまま脱出したために7階に流入した猛煙がB階段にも流れ込んだためである。つまり、7階のB階段出入口の鉄扉2枚が完全に閉まっていた状態なら、B階段はすべての階で安全な状態になっていたと考えられ、刑事裁判においても裁判所は「B階段こそが安全確実に地上へ避難できる唯一の避難階段である」と認定した。

パニックの発生編集

客や従業員らが通常の情報として知っている「唯一の脱出(移動)手段」である2基のエレベーターが猛煙の噴出と、ボーイらの制止によって使用を断念させられ、初期の避難行動が完全に絶たれたことにより、プレイタウンの避難者たちは、火災の正確な情報と避難誘導が殆どないなかで、どこへ逃げていいのか、どこへ向えばいいのか、誰に従えばいいのかが全く分からなくなり、ホール内が停電で暗闇になったことも相俟って極限のパニック状態に陥っていった[295]

冷静に行動できなくなった人たちは、フロア内を当てもなく右往左往し、無駄に体力を消耗した。あたかも地面がすぐ目の前にあるかのように感じられ、いま飛び降りさえすれば猛煙と熱気から逃れられるという錯覚から、飛び降りてしまった人々が多数いたことは、まさにパニック状態による異常な心理状態がもたらしたものである[296]。またプレイタウン内の死亡者のなかに、死因が「胸部腹部圧迫による窒息死」という者が3名いた。これはパニック状態になって逃げ惑う群衆に押しつぶされたか、または転んだ時に踏みつけられたかによる状況で死亡したと考えられている。極限のパニックゆえに冷静な判断力が避難者から失われた結果、プレイタウンのフロア内または飛び降りなどで多数の死亡者が出ることに繋がった。

一方で、B階段を使って脱出に成功したクローク係とホステスの計2名のように、あらかじめ避難に必要な情報を持っていたことは重要であり、非常事態発生時に生き延びる確率が上がる[297]。体力や運動神経の機敏さも重要である。ダイビングの経験を生かしてアーケードのワイヤー目掛けて飛び降りて助かった男性客などはその典型である[298]。無駄な行動や合理性を欠いた行動を慎むことは特に重要であり、消防のはしご車で救出された人たちは、飛び降りや物置のブロック塀破壊などの行為に走らず、冷静に我慢して窓際で救助を待ったことで助かる確率が高まった。またバンドマンたちのようにリーダーの指示に従い、無駄な行動をおこなわず小部屋に待機していたことにより生存に繋げられたことは、統率の取れたリーダーの下で行動することの重要性を示すものである[299]。いち早く窓際に移動した人たちは、空間(間取り)を熟知していたことで救出される確率を高めた。これらはボーイなどの従業員に多かった。

その他の要因としては、プレイタウンは酒場ということで、客やホステスのなかにはアルコールの影響により正常な判断が出来なかったり、避難行動が緩慢になったりしたケースもあったと考えられる。実際、男性客1名が客席で座ったまま死亡している。消防の救出活動においては、千日前通の違法駐車車両により、はしご車の部署が遅れ、救出活動に遅れを生じさせた。またデパートビル東側の商店街アーケードの存在が、はしご車による円滑な救出活動の妨げとなったことも挙げられる。

火災の教訓とその後の対策編集

千日デパート火災の余波編集

  • 千日デパート火災を受けて消防庁は、火災から2日後の1972年(昭和47年)5月15日に全国の都道府県に対し、危険性のあるビルの総点検を早急に行うよう通達した。特に対象とされたのが、劇場、キャバレー、百貨店などビルの高い階に不特定対多数の人々を収容する用途に供される防火対象物で、また商店、事務所、飲食店などが一つの建物に入居している「雑居ビル」については、避難体制、通報体制、防火消火設備の機能性について重点的に調べることにした[300][301]
  • この通達を受けて大阪市消防局は、5月15日から1週間かけて大阪市内の「要注意ビル277個所」に対し、総点検を実施した。結果、277個所のうち235個所のビルが「防火管理不適当」と判定された。誘導灯の設置が不適当と判定されたビルは171個所、誘導灯の維持管理が不適当だとの判定は163個所、非常警報設備の設置および維持に対して改善を指示されたビルは140個所に及んだ。さらに通路および階段に雑品を置いていたために改善を指示されたビルは140個所、消防訓練実施の改善指示が145個所、避難器具の故障や破損の改善指示が121個所に及んだ。営業しながら改装工事を行っていたビル24個所に対しては防火安全性の確保を指示した。避難関連指示は合計1014件だった。6月3日の時点で指示された事項が改善されていないとして、消防法の規定に基づき改善命令が出されたビルは193件、防火管理面の改善指示が340件、警報関連の改善指示が507件、改善命令が74件だった[302]
  • 東京消防庁においても同通達に基づき、5月15日夜に都内の雑居ビル1980個所のうち、代表的な7か所の盛り場について抜き打ちで査察した。その結果は、救助袋の破損があったり、従業員が救助袋の正しい使い方を知らなかったりと、「プレイタウン」と全く同じ状況がみられた。またビル外壁の垂れ幕が救助袋の窓を塞いでいたり、救助袋の収納方法が間違っていたり、避難階段や避難通路が物置状態になっていた店もあった。そもそも救助袋の存在自体を知らない従業員がいるなど、火災時の避難に対する無関心さが浮き彫りになった[303][304]。その後、東京消防庁管内の各消防署が6月10日までの間に雑居ビルや百貨店を中心に火災時の避難と安全性および防火管理について査察を行った。対象は、劇場、キャバレー、百貨店、ホテル、飲食店などの不特定多数を収容する4階建て以上の1442個所のビルで、消防法における特定防火対象物である。結果は、対象の90%が欠陥ビルと判定され、AからDまでの4ランクに分けた判定では、安全性の高いAランク判定がわずか7%という結果となった[305]
  • 5月16日、第68回国会・参議院地方行政委員会会議において「千日デパート火災に関する件」が「地方行政改革に関する調査」の議題として取り上げられた。火災の教訓として「避難誘導の周知徹底、避難訓練の実施」「複合用途ビルの共同防火管理体制の強化」「避難路を煙から守るための措置」が重要であるとして、建設省や自治省、消防庁などの関係各所が今後の対策に万全を期すことを確認した。また建築基準法や消防法の「既存不適格建物」および「法律不遡及の原則」の問題についても議論された。そのほかにホステスの労災について、はしご車を中心とした消防救助設備について、そしてなぜ火災で燃えていない7階で多くの犠牲者が出たのか、なぜ適切な避難誘導がなされなかったのか、などについて午前の時間を目一杯使って集中議論された。また衆議院地方行政委員会においても午前および午後の会議で本火災が議題として取り上げられた。内容は参議院地方行政委員会とほぼ同じであるが、プレイタウンの防火管理者(支配人)について、ある委員は「(プレイタウンで)一番の責任者が救助袋の入口を開け、非常口の鍵を開けるべき人が、一番先に逃げて助かっていて、117名が死亡しているのはどういうことなのか。あとに残された者は何もしようがない」と政府委員に質問した。同日開かれた衆議院建設委員会においても議題として千日デパート火災が取り上げられた。
  • 5月17日夜、渡海自治大臣が消防庁幹部らを伴い、東京都内の地下街や盛り場、屋上ビアガーデンなどを安全パトロールした。地下街については排煙設備、緊急通報体制、防火区画など、最新の設備が整っていて自治大臣も満足したが、その後に訪れたキャバレーと屋上ビアガーデンの避難設備があまりにもお粗末で機嫌が悪くなった。6階のキャバレーからエレベータ室を改造した避難ハシゴで屋上に出て、隣のビルの7階に移動するというが、隣のビルの窓が避難ハシゴの代用であり、その窓は普段から鍵が掛かっているところを非常時にボーイがハンマーで叩き割るのが手順という実態に自治大臣は「これじゃあ安心して酒も飲めないじゃないか」と呆れかえったという[306][307]
  • 5月18日、東京・五反田で第24回全国消防長会総会が開かれ、火災の再発防止に向けて至急取り組むべき課題が議論された。本件火災に基づいて国に要望すべき事項とされたのは以下のとおりである。
  1. 防火管理責任体制の強化
  2. 高層ビルと地下街における業種別の用途制限ならびに可燃物量を階ごとに制限
  3. 内装の不燃化基準強化
  4. 防火区画、排煙設備等の基準強化
  5. 避難経路の安全確保のため屋外階段またはバルコニーやタラップ設置義務の強化
  6. 非常扉は災害発生時に自動で閉まる装置を取り付け
  7. 既存建物に対するスプリンクラー設備や自動火災報知設備の遡及適用
これらについて提案がなされ、関係法令の改正を自治省消防庁を通じて関係省庁に要望することが緊急決議された[308][309][310]
  • 5月19日、永田町の衆議院第二議員会館で消防演習および避難訓練が実施された。「会館7階で出火、館内に煙が充満、逃げ遅れ多数」という想定で実施された。避難訓練については、特に救助袋を使った避難に重点が置かれた。小渕恵三議員(のちの官房長官、首相)も救助袋の中に入って避難を体験した[311][312][313]
  • 5月22日、近畿管区行政監察局は、千日デパート火災における行政の運用面を調べた報告を行政管理庁におこなった。その結果、建築基準法、消防法、労働基準法や防災行政に多くの疑問点があることがわかったことから、翌月中旬から全国15都道府県の大都市で行政監察を始めることになった。対象とされたのは地下街、旅館の防災体制全般であった[314][315]
  • 6月2日、消防庁は消防審議会に対して千日デパート火災を教訓にした新しい検討事項を提出し了承された。消防法に基づき防火管理体制や消防用設備の基準を強化する目的で、防火対象物の管理権原を持つ者の責務、防火管理者の責務、消防計画の提出、避難訓練の届出について具体的な項目が盛り込まれた。また防火管理と消防用設備面で広い範囲にわたって施設側に義務を課す項目が数多く並んでいた。これらの検討項目は審議を経て、消防法と建築基準法の施行令改正の形となって具体化することとなった[316]
  • 1973年(昭和48年)5月9日、東京・霞ヶ関の空きビルとなった「旧厚生省・第一別館」を使ってビル火災の燃焼状況を調査するための実物火災実験がおこなわれた[317]。実施したのは建設省建築研究所、自治省消防研究所、通産省製品科学研究所で、実験は同館2階に千日デパート火災の出火当時と同じ量に相当する化繊2トン、木材2トンの「合計4トン」の可燃物を設置し点火した[317]。その結果、点火14分後に5階に煙が充満、通気口より激しく噴き出し始め、33分後に毎分1000立方メートルの強制送風を開始したところ、階段部分の煙は薄らいだが、出火階はバックドラフト現象を起こした[317]。この実験で各階における煙の流動性、一酸化炭素濃度と強制送風による避難路確保の可能性などについて計測し、今後のビル火災対策上の貴重なデータを得た[317]

法令の改正編集

千日デパート火災を教訓として、全国消防長会総会、消防審議会などで再発防止に向けた議論および検討がなされた結果、国会審議を経て消防法令、消防規則、建築基準法令が改正されることになった[318][319]

本件火災以降に改正された消防法令および規則は、1972年(昭和47年)12月1日に消防法施行令の一部改正(政令第411号)[318]、1973年(昭和48年)6月1日に消防法施行規則の改正(自治省令第13号)[318]、1974年(昭和49年)6月1日に消防法の一部改正(法律第64号)[318]、1974年6月1日に消防施行令改正(政令第188号)、1974年7月1日に消防法施行令の一部改正(政令第252号)[318]、1974年12月2日に消防法施行規則の一部改正(自治省令第40号)である[318]。また建築基準法令については、1973年(昭和48年)8月23日に建築基準法施行令の一部(政令第242号)が改正された[320]。本節では、改正された法令のうち消防法令の「消防法施行令・政令第411号(1972年)」と「消防法・法律第64号(1973年)」について、また「建築基準法令の建築基準法施行令・政令第242号(1973年)」について記すことにする。また表示制度の端緒となった「消防設備『良』マーク制度」についても併せて記すことにする。

なお、この節の本文で記した法令の内容、用語、条項は、当該法令が改正された当時(1972年から1974年まで)のものである。したがって現行(2019年)の法令とは異なる部分がある。

消防法施行令の一部改正(政令第411号)編集

1972年(昭和47年)12月1日、消防法施行令を一部改正する政令が公布された(政令第411号・第17次改正)[321]。施行は1973年(昭和48年)6月1日で、一部は公布日に施行された[322]。本件火災では、火災発生の報知と情報がプレイタウン滞在者に伝わらなかったことで多数の逃げ遅れに繋がったこと、管理権原者および防火管理者の責務と役割に不明確な部分があったため、避難誘導や防火管理の不手際に繋がったこと、また安全な避難口(B階段)の場所がプレイタウン滞在者に判らなかったことなどにより、多大な人的被害を出したことへの教訓を活かすため、これらを重点的に見直す内容となった[323]。改正の主な内容を以下にまとめた。

防火管理に関する事項

1.防火管理者を定めるべき防火対象物の規定を強化した。
劇場、キャバレー、飲食店、百貨店、ホテル、病院、サウナ等の特定防火対象物の用途に使われる部分が存在する複合用途防火対象物で「収容人員が30人以上」の防火対象物は、防火管理者を定めなければならない、とされた[324][325]。従来は「収容人員50人以上」となっていて、不特定多数の人を収容する施設と身体的弱者を多く収容する施設について、より規定を厳しくした[326]

2.防火管理者の資格を明確化した。
防火管理者の業務を遂行するには、防火に関する知識を有している必要があり、管理権原者との間で連携が取れていなくてはならないので、防火管理者の資格を有しているものは、管理する防火対象物において、適切に業務をおこなえる管理的または監督的地位にあること、と定められた[327]。従来は防火管理者の資格が定義されていなかった。

3.管理権原者および防火管理者の責務を強化した[321]
防火管理者は、防火管理上の業務を行うときは、管理権原者の指示や判断を求めなければならないとされた[328][325]。また管理権原者は、防火管理者に対して必要な指導と監督をおこない、防火管理者の業務を実施させる責務を負う、とされた。 従来は防火管理者の責務として「誠実にその職務を遂行しなければならない」としか条文に書かれていなかった[326]。また管理権原者の防火管理者に対する指導監督的役割を明確化した。
また防火管理者は、省令の定めにより消防計画を作成し、それに基づき消火、通報、避難訓練を定期的に実施しなければならない、とした[329][326]。従来は「省令の定めに」という部分が抜けていた[326]。この条項は政令公布日(1972年12月1日)に施行された[322]

4.共同防火管理を要する防火対象物の範囲を拡大した。
劇場、キャバレー、飲食店、百貨店、ホテル、病院、サウナ等の特定防火対象物に使われる部分がある複合用途防火対象物は、地下を除いて階数が3以上のものが共同防火管理が必要とされた[330]。従来は「地下を除いて階数が5以上」とされていて、以前よりも範囲を拡大し基準を厳しくした[331][332]。不特定多数の人を収容する施設と身体的弱者を多く収容する施設を対象とした。

防炎防火対象物に関する事項(省略)防炎防火対象物を参照。
消防用設備等に関する事項

1.スプリンクラー設備
(ア)特定防火対象物のうち平屋建て以外の防火対象物で床面積が6000平方メートル以上のものには、スプリンクラーを設置しなければならない、とされた(自治省令で定める部分を除く)[333][334]
従来は、百貨店などの建物で、売場面積の合計が9000平方メートル以上かつ4階以下、または6000平方メートル以上の場合は5階以上の建物が対象とされていたが、階数の規定を無くし、より設置基準を厳しくした[335]。また平屋建てについては避難が容易であることから設置対象から外した[335]
(イ)特定防火対象物に使用する部分がある複合用途防火対象物で、特定防火対象物の用途に使われる部分の床面積の合計が3000平方メートル以上の階のうち、当該部分がある階全体にスプリンクラーの設置が義務付けられた[336][337]
従来は、雑居ビルなどの場合、用途ごとに防火対象物の基準を適用してスプリンクラー設置の有無を決めていたが、複合用途防火対象物は、使用時間が用途によって異なること、防火管理が別々に行われること、また不特定多数の不案内な人たちが多く利用することを考慮し、設置基準をより厳しくした[338]。該当部分だけにスプリンクラーを設置したのでは消火効果が十分に発揮できないこともあり、該当する階全体に設置するよう改められた[339]
(ウ)防火対象物の11階以上の階にはスプリンクラーの設置が義務付けられた[340][341]。従来は、11階以上の階に関して特定防火対象物で防火区画された部分以外の面積が100平方メートルを超える場合に設置義務があったが、高層階は消防活動が困難なことから、防火区画や建築基準の如何にかかわらず、設置を義務付けた[338]。またスプリンクラーヘッドの技術基準も強化された[342][343]

2.自動火災報知設備
(ア)百貨店、飲食店等の特定防火対象物で延べ面積が300平方メートル以上に自動火災報知設備の設置が義務付けられた[344][345]
従来は、500平方メートルで設置の義務があったが、不特定多数の利用者が出入りする建物については、火災の早期発見および早期通報が重要であるとして基準が強化された[346]。千日デパート火災においては、火災の報知と通報、情報伝達が早期になされなかったことで多数の死傷者を出すに至っている。
(イ)複合用途防火対象物で延べ床面積が500平方メートル以上かつ当該部分の床面積が300平方メートル以上のものは自動火災報知設備の設置を義務付けられた[347][348]
(ウ)防火対象物の11階以上の階に設置を義務付けた[349][350]
自動火災報知設備の基準に関しては、劇場、キャバレー、飲食店、百貨店、病院、社会福祉施設、サウナおよび特定防火対象物の用途に使われる部分がある複合用途防火対象物については、既存の建物においても「遡及適用」の対象とされた[351][319]。この基準は1975年(昭和50年)12月1日から施行するとされ、設置完了までの猶予期間が設けられた[322]

3.漏電火災警報器
特定防火対象物の用途に使われる部分がある複合用途防火対象物について、延床面積が500平方メートル以上かつ当該部分の床面積合計が300平方メートル以上、契約電流50アンペアを超える複合用途防火対象物に漏電火災報知器の設置を義務付けた[352][350]
従来は、複合用途防火対象物については、「それぞれの用途」に対して適用されていたものを用途を問わず50アンペアを超える場合には設置を義務付けていた[353]

4.非常警報設備
不特定多数を収容する施設においては、火災発生時に避難が円滑に行われなければならない観点から、音声による誘導が必要であることから放送設備の設置が義務付けられた[350]
対象となったのは複合用途防火対象物で収容人員が500人以上のもの[354][353]。劇場、キャバレー、百貨店、飲食店、サウナ公衆浴場で収容人員300人以上のもの[355][353]。寄宿舎・共同住宅、学校、図書館・美術館で収容人員800人以上のもの[356][353]

5.避難器具
(ア)防火対象物の3階以上の階のうち、避難階または地上に直通する階段が2以上設けられていない階で、収容人員10人のものには避難器具の設置を義務付けた[357][358]。これは、いわゆる「ペンシルビル」の避難対策で新設された。
(イ)避難器具の設置および維持に関する技術基準が強化された(詳細省略)[359][358]

6.誘導灯および誘導標識
(ア)特定防火対象物に使われる部分がある複合用途防火対象物に避難口誘導灯、通路誘導灯、客席誘導灯および誘導標識を設ける場合は、建物全体に誘導灯を設置するように義務付けられた[360][361]。従来は、用途ごとに設置基準が定められていたが、避難を一体的におこなう必要ことから改められた。
(イ)「避難口」を明示した表示も認められることになった[362][361]。従来の誘導標識は「避難する方向を明示するもの」と定められていた[361]。本件火災の被害拡大の一因として、唯一の安全な避難階段であるB階段の避難口の場所が判らず、ほとんどのプレイタウン滞在者が脱出できなかったことへの教訓である。

7.適用が除外されない消防用設備[注釈 27]
消防法第十七条の二第1項で定める消防用設備等のうち、自動火災報知設備に関しては、当該規定を適用する防火対象物に特定防火対象物を新たに加えた[363][364]。従来は旅館、ホテル、宿泊所、病院、療養所、文化財だけが適用の対象とされていた[365]

消防法施行令・別表第一に関する事項

従来の複合用途防火対象物「16項」を「16項(イ)」と「16項(ロ)」に区分した[366][367]
本件の千日デパートのような特定防火対象物の用途に使われる部分がある複合用途の建物(いわゆる雑居ビル)は、建物に不慣れな不特定多数の人々が利用するので、火災が発生した場合に避難が困難になる恐れがあり、危険度が極めて高いことから「16項(イ)」を新たに作り、分類し直した。従来の「住居兼店舗」または「住居兼倉庫」を想定した複合用途防火対象物は「16項(ロ)」とした[367]

従来の「16項」の条文は、「前各項(1項から15項)に掲げる防火対象物以外の防火対象物で、その一部が前各項に掲げる防火対象物の用途のいずれかに該当する用途に供されているもの」とだけ書かれており、「16項(イ)」は、「前各項に掲げる防火対象物以外の防火対象物のうち、その一部が前各項に掲げる防火対象物の用途のいずれかに該当する用途に供されているもので、1項から4項まで、5項(イ)、6項または9項(イ)に掲げる防火対象物の用途に供される部分が存するもの」と定義され、「雑居ビル」および「商業ビルなどの大規模な複合用途」という概念が明確化された[367]消防法施行令・別表第一を参照。

消防法の一部改正(法律第64号)編集

1974年(昭和49年)6月1日、消防法の一部を改正する法律が公布された(法律第64号)

千日デパート火災発生から約10か月。未曾有の大災害からの警戒心からだったのか、しばらくは治まっていた大規模なビル火災が再び起こり始めていた[注釈 28]。1973年(昭和48年)3月8日に福岡県北九州市の済生会八幡病院火災(死者13名、負傷者3名)を皮切りに[323]、同年5月28日には東京新宿歌舞伎町の第6ポールスタービル火災(死者1名)[323]、6月18日には北海道釧路市オリエンタルホテル火災(死者2名、負傷者35名)[323]、そして9月28日には大阪府高槻市の西武高槻ショッピングセンター火災(死者6名、負傷者13名)が発生した。年末に向けて、より一層の火災への警戒が高まりをみせていた。「秋の火災予防運動」が展開されていた最中の11月29日、熊本県熊本市下通の大洋デパートで白昼に火災が発生し、死者104名[368][369][370][注釈 29]、負傷者124名[371][注釈 30]を出す大惨事が再び起こった[320][319]。政府や消防関係当局は、千日デパート火災の惨事を教訓に消防および建築関係法令などを改正し、避難訓練の実施を図り、消防設備等の検査や査察を強化するなど、様々な対策や再発防止を図ってきた[320][319]。だが、その努力が不十分だったことが明らかになり、ついに消防法令において既存不適格の防火対象物に対し「消防用設備等設置の遡及適用」をおこなうことになった[320][319]

消防法改正の主な内容

既存の防火対象物に対して消防用設備等の遡及適用を新設した[318][320][319]。特に重要な内容は、特定防火対象物のうち、劇場、キャバレー、百貨店、ホテル、旅館、病院、公衆浴場(サウナ)、複合用途、地階がある建物、地下街については適用除外を除くとしたことである。つまり、それらの用途については、たとえ既存不適格状態であっても、要件を満たした場合には例外なく法令で定められた消防用設備を技術基準に従い設置する義務を負うということである。また用途変更の場合も遡及適用の対象とされた。さらに法施行時に既存不適格の特定防火対象物が大規模な工事(新築、増築、改築、移転、修繕、模様替え)をおこなっていた場合には、消防用設備等の技術基準を遡及適用するとした。用途によって消防用設備等の設置を完了しなければならない期限を具体的に定めた。百貨店、地下街、複合用途の特定防火対象物については、1977年(昭和52年)3月31日までに(施行日は翌日の4月1日から)[318]、また旅館、病院その他の特定防火対象物は、1979年(昭和54年)3月31日(施行日は翌日の4月1日から)までに消防用設備等の設置を完了することとし、その維持を義務付けた[318]

遡及適用される消防用設備等は、以下の設備が対象とされた。
  • 消火設備については、消火器、屋内消火栓、スプリンクラー設備、水噴霧消火節等、屋外消火栓、動力消火ポンプ
  • 警報設備については、自動火災報知機、ガス漏れ火災警報設備、漏電火災警報器、消防機関通報設備、非常警報器具、非常警報設備
  • 避難設備については、避難器具、誘導灯、誘導標識
  • 消火活動に必要な施設については、連結送水管、排煙設備、連結散水設備、非常コンセント設備等

その他には、防火管理に関する事項として、防火管理者の業務が法令や規定、消防計画に従っておこなわれていないときは、防火対象物の管理権原者に対して必要な改善措置を命令することができるようにした[319]
命令の発動は、消防計画を定めていない場合、消防計画を届けていない場合、避難訓練が行われていない場合に発動することができ、違反には罰則が設けられた。また消防用設備等の検査を受けること、また消防用設備等の点検及び報告をおこなうことが義務付けられた[319]。違反には罰則が設けられた。

建築基準法施行令の一部改正(政令第242号)編集

1973年(昭和48年)8月23日、建築基準法施行令の一部を改正する政令が公布され(政令第242号・第13次改正)[372]、1974年(昭和49年)1月1日に施行された[373]。ただし第136条の改正規定は公布日から施行とされた[374]

本件千日デパート火災と1973年3月の北九州済生会病院火災においては、煙によって多数の死傷者を出すに至ったことから、本政令改正の主な要点は、煙対策と避難施設の規定に関しておこなわれ、それらを強化する内容となった[372][319]。改正の主な内容を以下にまとめた。

防火区画に関する規定強化

常時閉鎖式防火戸の導入を規定し、防火区画における防火戸の常時閉鎖を原則とした[372][319]。(防火区画・第112条)
1.耐火建築物等の防火区画に用いる甲種防火戸[注釈 31]または乙種防火戸[注釈 32]は、面積が3平方メートル以内で常時閉鎖状態を保持する防火戸で、直接手で開くことができ、かつ自動的に閉鎖するもの、またはその他の防火戸は以下の各号の構造にしなければならない、とされた[375]
(ア)随時閉鎖することができること[375]
(イ)居室から地上に通じている主な廊下、階段、その他の通路に設ける防火戸は、当該戸に近接して当該通路に常時閉鎖式防火戸が設置されている場合には、従来の規定は適用されない[375]
(ウ)当規定による区画に用いる甲種防火戸[注釈 31]および乙種防火戸[注釈 32]にあっては、建設大臣の定める規定に従って、火災により煙が発生した場合または火災により急激に温度が上昇した場合のいずれかに自動的に閉鎖する構造にすること[376][319]。また建築基準法令の規定による区画に用いる甲種防火戸[注釈 31]、または建築基準法令の規定による区画に用いる乙種防火戸[注釈 32]にあっては、避難上および防火上支障ない遮煙性能を有する構造とすること[376]
従来においても防火戸は、「随時閉鎖、手動開閉可能、火災による温度急上昇で自動閉鎖」の規定はあったが、煙が発生した場合に自動閉鎖すること、煙を遮蔽する性能を有する構造に関してまでは規定していなかった[377]
千日デパート火災では、プレイタウンに直結していた特別避難階段「B階段」出入口の扉2枚は、ドアチェックが装備されていなかったとみられ(随時閉鎖機能が無い扉)、2名の脱出者がB階段を使用して脱出したあと、扉2枚が開け放たれた状態になっていた。その影響で7階フロアから煙がB階段に逆流し、消防隊の内部探査に支障を来たした。
防火設備としての防火戸 特定防火設備としての防火戸を参照。

防火ダンパーの材質、性能等を具体的に規定した[374][319]。(防火区画・第112条の16)
1.空調ダクトが耐火構造の防火区画を貫通する場合に設ける防火防煙ダンパーは、以下の場合に自動で閉鎖する構造にすること、とされた[376]
(ア)火災により煙が発生した場合[378]
(イ)火災によりダクト内が急激に温度上昇した場合[378]
2.防火防煙ダンパーの構造は、前記(ア)(イ)以外に以下の構造にすること、とされた[376]
(ア)鉄製であること。また鉄板の厚みは1.5ミリメートル以上であること[376]
(イ)ダンパーが閉鎖した場合に防火上支障のある隙間が生じないこと[379]
(ウ)建設大臣がダンパーとしての機能を確保するために必要があると認めて定める基準に適合する構造とすること[379]
従来も防火防煙ダンパーの設置は規定されていたが、その技術基準があいまいで「防火上有効にダンパーを設けること」としか規定されていなかった[380]
千日デパート火災では、プレイタウン事務所前の廊下に設置していた空調ダクト吸入口から大量の煙が流入したことで多数の死傷者を出すに至った。ダクト内には防火防煙ダンパーが3か所設置されていたにもかかわらず、いずれも作動しなかった。

2以上の直通階段設置を義務付ける用途の範囲を拡大

2方向避難の原則から2以上の直通階段を設ける場合の適用範囲を拡大した[374][319]。(2以上の直通階段を設ける場合・第121条)
建築物の避難階以外の階が以下の各号に該当する場合には、避難階または地上に通じる2以上の直通階段を設けなければならない、とされた[381]
1.酒場やキャバレー、ナイトクラブ等の用途に使用する階(新設)[382]
ただし、5階以下の階で居室の床面積が100平方メートルを超えず、避難バルコニーまたは屋外通路などがあり、避難階から地上に通じる規定の直通階段が設けられていて、避難階の直上または直下の5階以下の階で床面積が100平方メートルを超えないものは除外される[383]
2.病院または診療所に対する規定に対し、新たに児童福祉施設等を加えた[384]
病院または診療所の用途に使われる階で、その階における病室の床面積の合計または児童福祉施設等の用途に使われる階で、その用途の居室面積の合計が50平方メートルを超えるもの[384]
3.6階以上の階に居室がある場合[385]
ただし、1から3に掲げた用途に使用する階以外で、その階の居室床面積の合計が100平方メートルを超えず、その階に有効な避難バルコニーまたは屋外通路等および既定の地上へ通じる直通階段が設けられているものは除く[384]
従来は「6階以上の階」とは規定されていなかった[384]
4.5階以下の階で居室の床面積の合計が直上階で200平方メートル、その他の階で100平方メートルを超えるもの[386]
従来は「5階以下の階」とは規定されていなかった[384]

避難階段および特別避難階段の構造を強化した[374][319]。(避難階段および特別避難階段の構造・第123条)
(ア)屋内に設ける避難階段の階段に通じる出入口には、常時閉鎖式防火戸である甲種防火戸もしくは乙種防火戸、またはこれ以外の法令が規定する甲種または乙種防火戸を設置すること[387]、また直接手で開くことができ、かつ自動的に閉鎖する戸および戸の部分が避難する方向に開くことができるものとすること、とされた[387]
(イ)特別避難階段の出入口に設ける甲種防火戸または乙種防火戸の構造は、屋内からからバルコニーまたは附室に通じる出入口には規定の甲種防火戸を[388]、バルコニーまたは附室から階段に通じる出入口にも同じ甲種防火戸を付けること、とされた[388]

地下街の区画の規定(地下街・第128条の3)

1.地下街の各構造が他の地下街の各構造と接する場合は、耐火構造の床もしくは壁、または法令で規定する常時閉鎖防火戸である甲種防火戸で区画しなければならない[389]
2.地下道においても前項と同じ構造で区画する、とした[389]
新たに防火戸の技術基準を高めた規定を適用した[390]

内装制限の強化

特殊建物に対する内装制限を強化した[319]。(特殊建築物等の内装・第129条)
特殊建築物の居室の壁および天井の室内に面する部分の内装仕上げは、3階以上で不燃材料または準不燃材料であること[391]。ただし、3階以上に居室を有しない建築物は従来どおり不燃材料、準不燃材料または難燃材にすることができる、とした[391]
従来は「3階以上の階」という規定がなかった[390]

なお以下の項目は省略した。
木造等の建築物の防火壁(第113条)、共同住宅の住戸の床面積算定等(第123条の2)、非常用の昇降機の設置を必要としない建築物(第129条13の2)、敷地内の空地および敷地面積の規模(第136条)

消防設備「良」マーク制度の導入編集

1972年(昭和47年)11月28日、「予防査察の強化について」と題する消防庁次長通達が出され(消防予第198号)、「消防設備良マーク制度の導入」が決められた[392]。制度の適用対象は特定防火対象物の第一種査察対象物かつ耐火建築物とされた[392]。これは消防用設備等の設置が法令の基準を満たしている特定防火対象物に「良マーク」を与えて入口などに表示させ、防火管理者などの認識を深めて消防用設備等の完全履行を促し、防災意識を高めることを意図した制度である[393]。国の指導による表示制度導入は初めての試みであった。この表示制度は、後の「特例認定制度(適マーク)」や「優良防火対象物認定表示制度(優マーク・東京消防庁)」などの表示マークや公表制度、認定制度全般に繋がるきっかけとなった制度である[392]

全国に先駆けて東京消防庁が制度の導入を決めた。1973年(昭和48年)3月から4月にかけて、都内のホテルや旅館等2735件の特定防火対象物について、東京消防庁全67消防署が一斉に立ち入り検査を実施した[393]。その結果、消防用設備等が完備され、防火管理も適正におこなわれている「95の施設」に対して「良マーク」が交付されることになった[393]。交付は5月19日から開始され、有効期間は1年。立入検査の結果によって更新されるが、有効期間内であっても法令違反等があった場合は回収するとした[394]。また「良マーク」は、建物の出入口の見やすい位置に掲示することが義務付けられた[394]。自治省消防庁の通達に基づいて実施される制度であることから、各消防本部の実状に応じて全国的に実施していく予定とされた[394]。「良マーク」制度の運用が広がりを見せようとした矢先、大洋デパート火災が発生し、再び大きな被害が出てしまった。このあと消防法令の改正がおこなわれたことなどから1974年(昭和49年)12月、東京消防庁は「良マーク」の運用を凍結した[392]

刑事訴訟編集

本件火災に関して大阪府警特別捜査本部は、1973年(昭和48年)5月29日に以下の管理権原者および防火管理者らを業務上過失致死傷容疑で大阪地方検察庁に書類送検した[395]。送検されたのは日本ドリーム観光・千日デパート管理部次長、同管理課長、同保安係長の計3名およびチャイナサロン「プレイタウン」を経営する千土地観光・代表取締役とプレイタウン支配人の計2名、ニチイ千日前店店長の合計6名である[395]。大阪地方検察庁刑事部は1973年8月10日、書類送検された6名のうち、日本ドリーム観光・千日デパート管理部次長、同管理課長の2名および「プレイタウン」を経営する千土地観光代表取締役とプレイタウン支配人2名の計4名を業務上過失致死傷罪起訴した[396]。デパート管理部保安係長およびニチイ千日前店店長の計2名は証拠不十分により不起訴処分となった[397]。右2名の不起訴理由は、保安係長については保安室の火災報知機によって火災を覚知しておきながら7階プレイタウンに連絡せずに同階滞在者の避難を遅らせた容疑によって送検されたところ、保安室で火災を検知したころには7階でも煙の侵入を覚知していたことは明らかなので、通報しなかったことに落度はないと判断された[398]。またニチイ千日前店店長については、店内工事に際して監視責任を果たさなかった容疑で送検されたところ、工事立会人を置かなったことは確かに落度であるが、火災発生と電気工事を関連させる証拠がないと判断され、いずれも不起訴処分が確定した[397]刑事訴訟第一審は、大阪地方裁判所で1984年(昭和59年)5月16日に判決が出され、デパート管理部次長を除くその他の3被告全員に無罪を言い渡した[152]。なおデパート管理部次長については、第一審係属中に死亡したため1977年(昭和52年)6月30日に公訴棄却となった[399]。検察は原審判決には事実誤認があるとして控訴した[400]控訴審大阪高等裁判所1987年(昭和62年)9月28日判決)では、一転して原判決破棄で被告人全員が有罪とされ[401]、千日デパート管理部管理課長に禁錮2年6月・執行猶予3年、千土地観光の2被告には禁錮1年6月・執行猶予2年の有罪判決が言い渡された[401]。3被告は判決を不服とし、最高裁の判断を仰ぐため上告した[402]。1991年(平成2年)11月29日、最高裁判所第一小法廷で開かれた上告審において、裁判官全員一致の意見で上告は棄却となり、3被告の有罪が決定した[14]。火災事件発生から裁判終結まで18年6か月の歳月が経過していた[402]。なお本件火災発生の翌日に「O電機商会」の電気工事監督が現住建造物重失火および重過失致死傷の容疑で逮捕、送検されていたが、被疑者本人の供述以外に証拠は存在せず、供述の内容も二転三転して一貫性が無く、後に否認に転じるなど、犯人と断定する証拠がないとして1973年8月10日、大阪地方検察庁刑事部は工事監督の不起訴処分を決定した[395]#出火原因

民事訴訟編集

千日デパートは火災翌日の5月14日から閉鎖された。営業再開を急ぎたい日本ドリーム観光は、大阪市建築局の指示に従い、建設省建築研究所に建物の体力診断を依頼した。診断の結果、建物は地震に耐えられる強度がなく、柱などを補強する必要があるというものだった。その結果を受けて日本ドリーム観光は、補強により売場面積が縮小すること、補強費用の負担は新築するのと変わりがない、という理由でビルの取り壊しと新しい商業ビルの建設を急ぐためにテナントは強制退去の対象とされた。しかし、これに対しデパート再興を願う専門店街側が中坊公平を団長とする訴訟団を結成した上で日本ドリーム観光を相手に訴訟を起こし、新歌舞伎座の前でむしろ旗を掲げて抗議する騒ぎとなった[403]

本件火災を扱ったテレビ番組編集

7階プレイタウンの滞在者らが火災の発生に気付いたとき、人々はどのように行動し、その行動の如何によってどのように生死を分けたかを生存者の証言や専門家の調査、動物実験などを通じて人間がパニックに陥ったとき、なぜ冷静に行動できないのかを分析した番組。また同番組は、2000年(平成12年)2月18日に「NHKアーカイブス~急成長の軋み」の中で再び放送された。
「かんさい情報ネットten.」の月曜コーナー「深層究明 ゲキ追」の中で火災から40年の節目に放送された。千日デパート火災から40年。火災の教訓は根付き、活かされているのか。火災鎮圧から間もない千日デパートに潜入し、内部を撮影したカメラマンと照明係の記憶、7階プレイタウンから生還したバンドリーダーとバンドメンバーの証言、犠牲者の遺体が安置された大融寺住職および遺族会弁護士の回想、また防災研究の第一人者・室崎益輝教授の話を交え、千日デパート火災に関わった人たちの記憶を辿った番組である。
この火災について再現ドラマや生存者へのインタビューを交えながら詳細に紹介された[134]

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 火災当時はデパートの敷地が二つの住所に跨っていて、東寄り4分の3が三番町一番地、西寄り4分の1が四番町一番地であった。
  2. ^ 防火管理者らの業務上過失致死傷罪を裁いた一審判決の判決理由のなかで、大阪地裁は「本件火災は、工事監督が3階東側を歩いている際に煙草を吸い、その煙草若しくはこれに点火する際に用いたマッチの火が原因となって発生した疑いが濃厚であるが、工事監督の行動を証拠上確定することは出来ず、火災の原因は不明と言わざるを得ない」と述べたことによる。また大阪高等裁判所で開かれた控訴審判決の判決理由においても火災原因は不明とされた。
  3. ^ ただし大阪府警察本部の検証結果では、工事監督が火の消えていないマッチの擦り軸を布団の上に投げたことによって発生した(煙草の不始末)と断定したが、被疑者を起訴するには至らなかった。
  4. ^ 内訳は、プレイタウン関係者47名、消防隊員27名、警察官6名、通行人1名である。
  5. ^ a b c d e 素人の女性がアルバイト感覚で客を接待する大衆サロンのこと。キャバクラの元祖。昭和40年代に主に関西で流行った。別名アルサロとも呼ばれる。
  6. ^ ビルに限定しないと1943年に、北海道にあった布袋座でおこった火災で208人が死亡している。
  7. ^ 事件名、公文書、学術書、出版物においては「千日デパートビル火災」と呼ぶのが一般的である。
  8. ^ a b c d 7階プレイタウンへ大量の煙が流入してきた22時42分から43分ごろにA南エレベーターで地下1階から7階へ昇ってきた男性客1名とホステス1名は、7階エレベーターホールに充満した煙に驚き、斜め向かい側のA北東エレベーターへとっさに乗り込み、地下1階へ脱出した状況が確認されているが、この2名についてはプレイタウン滞在者に含めていない。
  9. ^ a b 建築基準法・第三条によれば、原則として既存建築物に対しては法律の遡及適用はおこなわないとしているが、その適用が除外される場合があり、第三条2項によれば既存建築物が「増築、改築、修繕、大規模な模様替え」をおこなった場合は遡及適用の対象になると規定していることから、1958年(昭和33年)に大規模な改築と用途変更をおこなった千日デパートビルは、1950年制定の原法と1957年の一次改正法には適合した建物であった。
  10. ^ 本件火災発生当時(1972年5月)の消防法施行令・別表1に定める防火対象物区分では、いわゆる「雑居ビル」「複合用途」という概念は明確にされておらず、当時の「16項」が規定していた用途とは「前各項(1から15項まで)に掲げる防火対象物以外の防火対象物で、その一部が前各項に掲げる防火対象物の用途のいずれかに該当する用途に供されているもの」であり、これはすなわち「店舗と住居を兼ねた建物」を念頭に置いたものであった。したがって千日デパートビルは、特定防火対象物「4項(=百貨店、マーケットその他の物品販売業を営む店舗又は展示場)」に分類されていた。
  11. ^ 現行(2019年)の消防法令に照らした場合、千日デパートビルは「16項(イ)=複合用途防火対象物のうち、その一部が劇場・集会場等、酒場・風俗店等、飲食店、百貨店・スーパーマーケット、旅館・ホテル、病院・養介護施設・保育園等、サウナにおいて、これらの防火対象物の用途に使われているもの」に相当するが、本件火災発生当時(1972年5月)の16項は「(イ)と(ロ)」に区分されていなかった。区分されたのは1972年12月の消防法施行令の改正からである。(ロ)とは「(イ)で掲げた複合用途防火対象物以外の複合用途防火対象物」のことである。
  12. ^ 企業としては1996年にマイカルに社名変更、2011年にイオンリテールに吸収されて解散。店舗ブランドとしては1990年にサティに転換し消滅。
  13. ^ 南消防署提出の消防計画書による。消防計画書は毎年1回更新されていたが、1971年(昭和46年)5月更新の時点では7階プレイタウンは、千日デパートの自衛消防組織および防火管理責任組織に組み込まれていなかった。
  14. ^ ただし、プレイタウン1階専用出入口(B出入口)に直結したB階段昇り口には、木製扉が設けられていて、プレイタウン閉店時には同店従業員が7階B階段出入口と同時に同扉を施錠していた。
  15. ^ 1958年(昭和33年)当時は、全国共通の消防法施行令は制定されておらず、地方自治体が独自に定めた施行条例の基準で設置されていた。消防法施行令の制定は1961年(昭和36年)からである。
  16. ^ 6階旧千日劇場跡は、ボウリング場改装工事中であり、火災時にスプリンクラーの機能が残っていたかどうかは不明である。
  17. ^ 実質的には常時閉鎖状態だったが、一部のホステスは、普段からE階段出入口を使って デパート内に出入りしていたと証言している。
  18. ^ 保安係員1班6名のうちの1名は、年休を取るために必ず休む決まりになっており、通常の夜間勤務は実質5名体制であった。
  19. ^ a b 電気工事関係者は合計6名であるが、工事作業者の一人は22時25分ごろに駐車場へ車を取りに出掛けており、火災発生時および火災発見時にデパートビルの中にはいなかった。
  20. ^ 1989年(平成元年)2月13日、南区と東区が合区され中央区が発足したのを機に南署を廃止し、浪速署を発足させた。
  21. ^ 1989年(平成元年)2月13日、南区と東区が合区され中央区が発足したのを機に東署を中央署に改めた。
  22. ^ a b c 現中央署管内
  23. ^ a b c 現浪速本署
  24. ^ a b c 現浪速署管内
  25. ^ 現中央本署
  26. ^ エレベーターを使って自力脱出に成功した人について、多くの資料はプレイタウン滞在者のホステス1名としている。A南エレベーターで7階へ上ってきた男性客1名とホステス1名の計2名については、7階へ昇って来たときに、ちょうど煙が7階エレベーターホールに充満しているのを目の当たりにし、プレイタウン滞在者のホステス1名と一緒に慌てて向かい側のA北東エレベーターに飛び乗り、地下1階へ避難したもので、その2名をプレイタウン滞在者に計上するかしないかは意見が分かれるところである。多くの資料では計上していない。
  27. ^ 法令が改正された場合、新しい法令規定の適用を必ず受ける消防用設備、という意味。自動火災報知設備は、そのうちの一つ。
  28. ^ 11月6日に北陸トンネル火災が発生しているが、当該火災は鉄道車両の火災事故なので、ビル火災がテーマの当記事では考慮に加えなかった
  29. ^ 大洋デパート火災の死者数については、火災発生当日で100名、その後48時間経過した時点で3名増え、合計103名となった。ところが火災発生から7年経過した1980年12月16日に火災による一酸化炭素中毒の影響で国立熊本病院に長期入院していた負傷者1名が死亡したことにより、最終的に死者は104名となった。多くの資料はこの「7年後の死者1名」を計上していない。
  30. ^ 負傷者数については、資料によってその数は区々であるが、警察庁発行の「昭和49年度版・警察白書」によれば、最終的な負傷者数は「124名」となっている。なお大洋デパートの防火管理者や火元責任者らに対する刑事裁判においては、裁判所が認定した負傷者数は「67名」であった。これは被告らの過失によって負傷させられた客および従業員の人数なので消防隊員や消防団員などの負傷は含まれておらず、全体の負傷者数とは異なっている。
  31. ^ a b c 現行の法令が規定する「特定防火設備」に該当する防火戸のこと。遮炎性能1時間を有するものをいう。
  32. ^ a b c 現行の法令が規定する「防火設備」に該当する防火戸のこと。遮炎性能20分を有するものをいう。

出典編集

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関連項目編集

外部リンク編集

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