千歳郡

日本の北海道(胆振国)石狩支庁にあった郡

千歳郡(ちとせぐん)は、北海道胆振国石狩支庁にあった

北海道千歳郡の位置(黄:明治期)

郡域 編集

1875年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、千歳市恵庭市にあたる。

歴史 編集

郡発足までの沿革 編集

飛鳥時代から平安時代初期にかけて、後の恵庭市に相当する地域では茂漁古墳群(柏木東遺跡)と呼ばれる群集墳が築かれた。これは江別市江別古墳群北東北末期古墳と同様の古墳で、和同開珎律令時代六位以下の位階を示す帯金具などが出土おり、斉明天皇5年(659年)に阿倍比羅夫が政所・郡領を置いた後方羊蹄(しりべし)を千歳郡付近とする説[1]もある(#外部リンク参照。参考:奄美群島の歴史#古代)。また、平安時代に流通していた皇朝十二銭隆平永宝が現在の恵庭市の茂漁8遺跡から、同じく富寿神宝などが千歳市ウサクマイ遺跡群から出土している。

江戸時代の千歳郡域は東蝦夷地に属し、島松川流域には石狩十三場所のひとつであるシュママップ場所松前藩によって開かれた。その範囲には現在の恵庭市に相当する地域も含んでおり、幕末ころまで存在した。運上屋では住民の撫育政策であるオムシャも行われた。一方、現在の千歳市に相当する地域にはシコツ場所が開かれていたが、こちらは後に南に隣接するユウフツ場所に編入されている。また、江戸時代初期万治元年には千歳神社の起源である弁天堂が建立された。

江戸時代後期、国防のため寛政11年千歳郡域は公儀御料(幕府直轄領)とされ、箱館奉行の治世下、文化年間には勇払から千歳に至る千歳越が開削されている。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり仙台藩が警固をおこなった。安政4年には銭函から千歳に至る札幌越新道(千歳新道)の恵庭-千歳間が勇払場所請負人・山田文右衛門によって開削されている[2]。天領時代に開削された千歳越や札幌越新道は後の札幌本道国道36号の前身にあたる。松浦武四郎弘化3年のほか安政4年と同5年、千歳を訪れた。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して千歳郡が置かれた。

郡発足以降の沿革 編集

 
北海道一・二級町村制施行時の千歳郡の町村(18.恵庭村 19.千歳村 青:区域が発足時と同じ市町村)
明治9年の大区小区
  • 第21大区
    • 6小区 : 千歳村、蘭越村、烏柵舞村、長都村、漁村、島松村

脚注 編集

  1. ^ 北海道歴史家協議会編「歴史家―第四号」河野廣道 後方羊蹄=江別苫小牧の間などの説がある
  2. ^ 『北海道道路誌』北海道庁 大正14年(1925年)6月10日出版

参考文献 編集

外部リンク 編集

関連項目 編集