南千住町
日本の東京府北豊島郡にあった町
南千住町(みなみせんじゅまち)は、かつて東京府北豊島郡に存在した町の一つ。1889年(明治22年)の市制町村制によって誕生した。
みなみせんじゅまち 南千住町 | |
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廃止日 | 1932年10月1日 |
廃止理由 |
編入合併 東京市編入・荒川区新設 南千住町、日暮里町、三河島町、尾久町→東京市荒川区 |
現在の自治体 | 東京都荒川区 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 東京府 |
郡 | 北豊島郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 1.89 km2. |
総人口 |
56,010人 (昭和5年国勢調査、1930年10月1日) |
隣接自治体 | 北豊島郡三河島町、東京市浅草区、下谷区、南足立郡千住町、南葛飾郡隅田町 |
南千住町役場 | |
所在地 | 東京府北豊島郡南千住町 |
座標 | 北緯35度43分53秒 東経139度48分17秒 / 北緯35.73139度 東経139.80486度座標: 北緯35度43分53秒 東経139度48分17秒 / 北緯35.73139度 東経139.80486度 |
ウィキプロジェクト |
地理
編集現在の地名ではおおむね南千住のほぼ全域と、東日暮里一丁目の一部に相当する。
地名
編集1928年11月までの地名
- 大字 千住南
- 字 南、菅谷、若宮、堰頭、諏訪面、大門、千塚、河原崎、中原、大曲、砂尾
- 大字 下谷通新
- 字 通新町
- 大字 三ノ輪
- 字 道久保、河原崎、箕里、飛地
- 大字 地方橋場
- 字 内沼、玄蕃沼、堤根、砂尾堤先、汐入、石橋、真先、元宿
- 大字 下谷三ノ輪
- 字 下谷三之輪
- 大字 千束
- 字 西
- 大字 三河島
- 字 江川端、石橋、辻元、正庭
歴史
編集奈良時代にはこの周辺は「武蔵国豊島郡荒墓郷」と呼ばれていた。荒墓郷は現在の台東区、荒川区、北区南部あたりを占めるかなり広大な地域であった。
江戸時代中ごろには足立郡の千住宿(千住一~五丁目、掃部宿、河原町、橋戸町)と千住大橋でつながり、小塚原町と中村町が千住宿南組と呼ばれるようになった。明治に入ってから正式な地名も千住宿南組(明治11年に千住南組と改称)となっている。
1889年(明治22年)、千住南組の大部分、地方橋場町の大部分、三ノ輪村の大部分および千束村の一部、三河島村の一部と下谷区通新町、下谷区三ノ輪町の飛地が合併され南千住町となった。千住南組の残りは新・三河島村へ、地方橋場町の残りは浅草区へ、三ノ輪村の残りは新・三河島村と下谷区へ、千束村の大部分は下谷区と浅草区へ、三河島村の大部分は新・三河島村へそれぞれ編入された。東京府の案ではこれらの地域すべてを下谷区と浅草区に編入しようとしていたが、内務省に却下されたため、このように旧来の村が中途半端に分割されることになってしまった。
沿革
編集- 1868年
- 1869年
- 1871年
- 1872年1月8日(明治4年旧暦11月28日):東京府は大区小区制により旧・府内を六大区に区分する。現・荒川区域は第五大区一四小区から十六小区の管轄となる。後に千住南組は十七小区となる。
- 1873年(明治6年)3月:東京府は府内全域を十一大区に再編する区画改正を行い、現・荒川区域は第十大区一小区、三小区、四小区となる。
- 1878年(明治11年)11月:
- 1889年(明治22年)5月1日:市制町村制により、千住南組の大部分、地方橋場町の大部分、三ノ輪村の大部分および千束村の一部、三河島村の一部と下谷区通新町、下谷区三ノ輪町の飛地が合併され南千住町となる。
- 1926年(大正15年)4月:北豊島郡役所が廃止され、東京府直轄となる。
- 1928年(昭和3年)12月:従来の大字・小字を改廃し、一〜十丁目の10大字を設置。
- 1932年(昭和7年)10月1日:東京市編入により、南千住町は日暮里町、尾久町、三河島町とともに荒川区となる。大字一〜十丁目はそのまま南千住町一〜十丁目となる。
人口の変遷
編集- 1920年 50,713
- 1925年 54,755
- 1930年 56,010
行政
編集施設
編集- 南千住町役場庁舎
出身有名人
編集- 川村三郎(町会議員、懇話時報社主)[1]
- 住所は千住南[1]。
脚注
編集- ^ a b 『早稲田大学校友会会員名簿 大正14年11月調』150頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年4月9日閲覧。