南方 就正(みなかた なりまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将毛利氏の家臣。

 
南方就正
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文14年(1545年
死没 慶長14年4月23日1609年5月26日
別名 通称:又次郎→九左衛門尉
官位 宮内少輔壱岐守
主君 毛利元就輝元
氏族 中原姓門司氏庶流南方氏
父母 父:南方元次、母:井上元兼の娘
兄弟 就由就正
元俊玄寿就友就之、女
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出自編集

南方氏は元々中原氏の庶流・門司氏の一門、大積(おおつみ)系門司氏の出身。豊後国大友氏厳島神主家と同族。延元元年(1337年)頃に安芸国山県郡南方の地頭となり、名字を「南方」と称した。就正の父の元次の代に毛利興元に仕えた。

生涯編集

天文14年(1545年)、南方元次の次男として生まれる。毛利元就から「就」の偏諱を与えられ、「就正」と名乗った。

弘治3年(1557年)、兄の就由に代わって南方氏家督を相続し、山口の防衛拠点の一つである周防国右田ヶ岳城の城代となって毛利氏の山口支配に従事した。

永禄5年(1562年)、石見国の松山城(川上城)攻めの際に武功を挙げ、永禄12年(1569年)、毛利氏に滅ぼされた大内氏の残党である大内輝弘大友宗麟の支援を受けて周防に侵攻した際(大内輝弘の乱)、輝弘の軍勢を撃退する武功を挙げるなど、毛利氏配下の勇将として活躍した。

天正9年(1581年)には、織田氏の中国侵攻への備えとして備中国に進出し、忍山城を守った。

慶長14年(1609年4月23日に死去。

参考文献編集