南海サハ4801形客車(なんかいサハ4801がたきゃくしゃ)とは、かつて南海電気鉄道に在籍した客車である。

概要 編集

1940年(昭和15年)まで行われていた南海鉄道の南紀(紀勢西線)直通列車[1]1951年(昭和26年)4月に復活した[2]。当初は日本国有鉄道(国鉄)所属客車(オハフ33形など)が南海に乗り入れていたが、これを国鉄の要望もあり南海所属車両に置き換えるための専用客車として[2]、山手線(現阪和線)の買収国有化時に南海が引き上げたサハ3801形3804(旧クタ800形804)の車籍および機器流用名義で、国鉄スハ43形をベースとしたサハ4801形客車が1952年(昭和27年)5月に帝國車輛工業にて1両(サハ4801)のみ製造された。南海としては少しでも豪華な車両と考えたものの、国鉄から3等車相当とすることを求められるなど制約を受けつつも、後述の通り独自色のある車両となった[2]

車体そのものは基本となった国鉄スハ43形とほぼ同一であるが、屋根上の通風器は左右両側に分割されたガーランド式(吸出し式、7×2個)で中央には2列のランボードが設置され、車体色が当時の南海の電車と同じ緑色となっていた[3]。 また、デッキ上部に白地に赤字で「南海」と社名を表示する当時の国鉄の特別二等車用と同様式の表示灯が備えられていた[3]。車体寸法もスハ43形とは多少異なっており、レール面から通風器までの高さおよび屋根上面までの高さはいずれもスハ43形より195mmないし115mm低い3825mmおよび3750mmある一方で、床面高さはスハ43形より25mm高い1210mmであり[3]、台車中心距離もスハ43系より500mm短い13500mmとなっていた[2]

また、社線内では常に編成最後尾となるため[3]緩急車並に標識灯が妻面に埋め込まれているのが特徴であった。後述の通り車掌室機能を備えていることも含め国鉄の客車に準じれば形式記号は「◯ハフ」となるが、南海線内においては電車に牽引される当形式は電車の付随車に用いられる「サハ」が付与された[2]。また、車体の所属表記[注 1]は「ナンカイスミノエ」(のち「南海スミノエ」)となっていた[2][3]

車内は白熱灯が主流の時代だった当初より蛍光灯照明となっており[2](当初は照明カバーを付けていたがのちに撤去し蛍光管を露出)[3]、内装には淡黄色のアルミデコラ化粧板が使用され、向かい合わせ固定クロスシートの座席はラテックススポンジを用いており、肘掛けも含めてスハ43形とは異なる形状のものであった[2]。また、和歌山市寄り海側の1ボックスは車掌台となっており、車掌弁やブレーキハンドル、配電盤を備えた[2]。これにより定員はスハ43形より4人少ない84人となっていた[3]

暖房は社線(南海本線)内は牽引する電動車から供給される直流600V電源による電気暖房[注 2]を、国鉄線内は併結される国鉄客車を介して蒸気機関車あるいは暖房車から供給される蒸気暖房をそれぞれ使用し、この関係で蒸気暖房管に加えて電気暖房のための給電用ジャンパ栓が追加されている。扇風機1963年に改造で設置されている[2][3]

台車は、新造時はサハ3801形から流用された、鉄道省制式の球山形鋼を使用するイコライザー式台車であるTR14形相当のY-16[2][注 3]であったが、1963年キハ5501形・キハ5551形用に準じた軽量構造のウィングバネ式台車であるTR51N形を別途新製して交換を実施している[3][注 4]

運用 編集

南海線内では、200馬力級の大出力モーターを搭載するモハ2001形3両[注 5]に牽引されて特急列車扱いとして走行した。また、国鉄線内では初期は蒸気機関車に牽引されていたため、煙が車内に入らないように機関車の次位となる妻面にカバーを掛けていた[3]

本形式は1両のみであったため、検査や多客時の増発・増結時には国鉄から客車を借り入れていた。その多くはオハ35系のオハフ33形であったが、スハフ42形や当時最新鋭の10系軽量客車であるナハフ11形が使用されたこともあった[3]

1959年(昭和34年)に南紀直通用気動車として国鉄キハ55系気動車の同形車キハ5501形・キハ5551形が投入されて以降、本車は南紀直通の主力の座を気動車に譲り、事実上夜行列車紀勢本線#夜行普通列車を参照)専用となった。ただし新宮難波行の夜行普通列車和歌山市駅の発車が始発列車前の4時30分頃であった[4]こともあり1961年には消滅し[注 6][5]、昼行の「南紀2号」(国鉄線内準急列車)で南海線内に戻ることとなった[6]1966年頃以降[6][7]は難波発の夜行普通列車で新宮駅に5時過ぎに到着した後、直ちに新宮駅6時30分頃発の昼行普通列車で難波駅に戻るという運用になっていた[8]

1972年(昭和47年)3月15日のダイヤ改正で、戦前の南海鉄道時代からの長い歴史を誇った客車による紀勢線乗り入れ列車の運行を廃止[注 7][注 8]した。最終運行日は3月13日発下り(新宮行11列車→926列車)および折返し14日発上り(難波行123列車→12列車)であった[2]。これに伴い役目を失った本車は、他社に譲渡されることもなく1972年6月10日付で除籍となり、廃車解体された。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 国鉄では「大ミハ」(大阪鉄道管理局宮原客車区)のように鉄道管理局を示す漢字1文字と車両基地を示す電報略号の片仮名2文字で車両の所属先を表記する。
  2. ^ この電気暖房は戦前の南紀直通列車である黒潮号でも使用されていた伝統あるシステムであった。なお、戦前は鉄道省からの借り入れ客車で運行していたが、それらは電気機関車牽引の湘南列車用に直流1500Vを電源とする電気暖房装置が搭載されている車両が特に選ばれていた。
  3. ^ Y-16はメーカー名などのアルファベットの頭文字と心皿荷重を組み合わせた南海の社内呼称。本来サハ3801形←阪和電気鉄道(南海山手線)クタ800形←筑波鉄道ナハフ101形・ナロハ201形は日本車輌製造製であるため、この台車はN-16となるべきものであるが、いかなる事情からか「Y」を形式に冠している。公式には筑波鉄道ナロハ201形204→阪和電気鉄道クタ800形804→南海サハ3801形3804からの流用とされ、その車籍も継承したが、実際には3804は本形式竣工後の1952年夏に橋本で台車を装着したまま留置されていた姿が撮影されており、本形式には部品が一切流用されていないことになる。本形式に転用されたY-16台車は、同型の筑波鉄道ナロハ201形202→阪和電気鉄道クタ800形803→南海サハ3801形3803のものが端梁部を改造の上で転用されたという。
  4. ^ 紀勢本線内で台車に故障が発生した場合に、同じ南海からの乗り入れ車であるキハ5501形・キハ5551形と同じ部品を使用していれば、修理が容易に実施可能になるとの理由による。
  5. ^ 実際には社線内の需要の関係でクハ2801形が別途連結されるケースが多く、ほとんどの場合本車を合わせて3M2T編成で運行された。モハ2001形が全廃された1970年以降は、牽引を担当する電動車が150馬力級のモーターを搭載するモハ1551形に変更され、当初はダイヤ維持のために全電動車による4M1T編成で、後には運用上の都合からダイヤを変更しサハ1901形1両を含む3M2T編成で運行された。また、住ノ江検車区への回送の際には原則的にモユニ1041形が牽引していた。
  6. ^ ただし和歌山市経由難波行を併結しない新宮発(後に名古屋発)天王寺行としての夜行普通列車の運行は続けられた。
  7. ^ 1973年貴志川線を除く南海の鉄道線全線で1500Vへの昇圧が行われるため、本車を牽引できる電車の全廃が決まったこと、さらに難波駅の大改造工事が既に予定されており、その際に機回し線が撤去されることから客車運用が不可能になることがその要因であった。
  8. ^ 南海線への乗り入れ廃止後も和歌山市駅発新宮駅行きの夜行列車は国鉄客車使用で引き続き存続し、和歌山駅で国鉄阪和線天王寺駅発の列車に併結して運行していた。それは天王寺駅 - 新宮駅間の夜行列車が12系に置き換えられる1984年(昭和59年)2月のダイヤ改正まで続けられた。

出典 編集

  1. ^ 竹田辰男『阪和電気鉄道史』鉄道資料保存会、1989年、116頁。ISBN 978-4885400612 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 藤井信夫「南海電気鉄道 南紀直通夜行列車の変遷」『鉄道ピクトリアル』No. 985私鉄の夜行列車、電気車研究会、2021年5月、pp. 66 - 77、ISBN 978-4-89980-168-9 
  3. ^ a b c d e f g h i j k 編集部「南海〜国鉄 南紀直通列車の足跡」『鉄道ピクトリアル』No. 985私鉄の夜行列車、電気車研究会、2021年5月、pp. 35 - 40、ISBN 978-4-89980-168-9 
  4. ^ 『日本国有鉄道監修時刻表』第401号、日本交通公社、1959年7月、336頁。 
  5. ^ 『日本国有鉄道監修時刻表』第427号、日本交通公社、1961年9月、106及び374頁。 
  6. ^ a b 『国鉄監修 交通公社の時刻表』第477号、日本交通公社、1965年11月、143及び507頁。 
  7. ^ 『京阪神からの旅行に便利な交通公社の時刻表』第124号、日本交通公社関西支社、1966年4月、44 - 49頁。 
  8. ^ 『国鉄監修 交通公社の時刻表』第539号、日本交通公社、1971年1月、108及び365頁。 

関連項目 編集