南海丸(なんかいまる)は、鉄道省(後の日本国有鉄道宇高航路に在籍した客船。同型船に「山陽丸」がある[1]

船名の「南海」は、南海道に由来する[要出典]

山陽丸型は当時の瀬戸内海の連絡船では設備の優秀な快速船であった[2]。また、遊覧船のような船であった[1]。遊歩甲板前部が展望室となっており、その後部と上甲板に二等客室が、遊歩甲板後部と上甲板、下層甲板に三等客室があった[1]。1930年に運搬車28両を搭載できるように改装された[1]。木部にはすべてチーク材が用いられ、畳敷きの二等客室に敷かれた絨毯は当時800円もしたものであり、洗面所や便所には大理石が多く用いられるなど、船の設備はぜいたくなものであった[3]

「南海丸」は総トン数561.19トン、長さ140.00フィート、幅28.6フィート、深さ13.86フィート[4]。主機は減速歯車付きパーソンス・タービン(反動)2基、汽缶は池田式水管缶2基で[1]、航海速力13.86ノット[5]

「南海丸」の旅客定員は以下の通り[1]

  • 1923年:二等158、三等899
  • 1930年:二等158、三等954
  • 1934年3月:二等158、三等796
  • 1934年6月:二等157、三等953
  • 1935年:二等157、三等746

神戸三菱造船所で建造[5]。1923年4月進水[6]。6月25日完成[7]。7月3日就航[7]

1930年5月11日、大阪商船の「大信丸」と衝突[8]

1934年9月22日、鉄道の不通に伴い「山陽丸」とともに宇野・相生間で臨時運行される[9]

1937年7月23日、「第二勢登丸」と衝突[10]。1943年4月6日、女木島付近で座礁したが自力で離礁[11]

1943年5月13日、「南海丸」は宇野港で沈没した[12]。5月12日22時37分に「南海丸」は旅客778名を乗せて高松港を出港し、23時31分に宇野港に進入した[13]。港内に停泊していた「古城丸」(大連汽船、1684トン)の西側を通過中、潮流に流されて弁天島沖の浮標に接近[13]。面舵を取って岩礁を避けた直後に「南海丸」は存在を知られていなかった岩礁に接触し、浸水した[12]。「南海丸」は桟橋へ向かい、23時43分から8分間で全乗客が上陸した[12]。その後、13日0時5分ごろに「南海丸」は沈没した[14]。「南海丸」は7月4日に浮揚され、修理されて10月1日に復帰した[11]

1944年10月23日、高松港口の北西約1600mで漁船と衝突[15]

1948年12月27日、運航廃止[16]。1951年4月27日、高松港で係船される[17]。1953年9月7日に「山陽丸」とともに大阪広瀬産業に売却された[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g 『宇高航路50年史』47ページ
  2. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』12ページ
  3. ^ 『宇高航路50年史』47-48ページ
  4. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』336-337ページ
  5. ^ a b 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』337ページ
  6. ^ 萩原幹生『宇高連絡船78年の歩み』336ページ
  7. ^ a b 『宇高航路50年史』263ページ
  8. ^ 『宇高航路50年史』265ページ
  9. ^ 『宇高航路50年史』267ページ
  10. ^ 『宇高航路50年史』268ページ
  11. ^ a b 『宇高航路50年史』271ページ
  12. ^ a b c 『宇高航路50年史』229-230ページ
  13. ^ a b 『宇高航路50年史』229ページ
  14. ^ 『宇高航路50年史』230ページ
  15. ^ 『宇高航路50年史』272ページ
  16. ^ 『宇高航路50年史』275ページ
  17. ^ 『宇高航路50年史』277ページ

参考文献 編集

  • 萩原幹生(編著)『宇高連絡船78年の歩み』成山堂書店、2000年、ISBN 4-425-92331-6
  • 『宇高航路50年史』日本国有鉄道四国支社宇高船舶管理部、1961年