南満州鉄道

大日本帝国の特殊会社

南満洲鉄道(みなみまんしゅうてつどう)は、日露戦争終結後、1905年明治38年)に締結されたポーツマス条約によって、ロシア帝国から大日本帝国に譲渡された東清鉄道南満州支線長春旅順間鉄道)のこと[1]。また、支線を含む鉄道事業および付属事業を経営する目的で、1906年(明治39年)に設立された特殊会社南満洲鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどうかぶしきがいしゃ、旧字体南滿洲鐵株式會社[2]英語: The South Manchuria Railway Co., Ltd.)) を指す[1]。南満州において鉄道運輸業を営み、日本の満洲経略における重要拠点となった[1]。略称は満鉄(まんてつ、滿鐵)。

南満洲鉄道株式会社
The South Manchuria Railway Co., Ltd.
社章
Mantetsu Honsha.jpg
大連の南満洲鉄道本社
種類 株式会社
本社所在地 大日本帝国の旗 大日本帝国 (租借地)大連
満州国の旗 満州国新京特別市(1931年以降)
本店所在地 関東州大連市東公園町30
設立 1906年11月26日
事業内容 旅客鉄道事業、貨物鉄道事業他
代表者 当項目「歴代代表者」節を参照
資本金 当項目「資本金」節を参照
売上高 当項目「営業実績」節を参照
主要株主 大日本帝国政府(50%)
主要子会社 華北交通大連都市交通満州航空昭和製鋼所
関係する人物 後藤新平(初代総裁)
特記事項:1945年9月閉鎖、1957年清算結了。
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概要編集

 
南満洲鉄道を走る列車

南満洲鉄道株式会社(満鉄)は、日露戦争終結後、1905年明治38年)9月に締結されたポーツマス条約によって、ロシア帝国から大日本帝国に譲渡された東清鉄道(中東鉄道)南満州支線長春旅順間鉄道)約764キロメートル、および支線を含む鉄道事業(支線合わせて総延長約1,100キロメートル)および付属事業を経営する目的で、1906年(明治39年)11月に設立された半官半民の国策会社である[1]。その前身は、日露戦争における満州軍野戦鉄道提理部であり、当初保有していたのは、占領に成功し、ロシアから譲与を認められた長春以南の南満洲支線の鉄道施設および付属地、そして物資輸送のため日本軍が建設した軽便鉄道安奉線安東奉天間鉄道)とその付属地であった[3]。満鉄は、撫順炭鉱および煙台炭鉱も併せて経営し、各鉄道駅前などに設定された鉄道附属地(満鉄附属地)において都市経営と一般行政(土木・教育・衛生)を担うなど広範囲にわたる事業を展開した[1][3]。本社は関東州大連市(現、中華人民共和国遼寧省大連市)に置かれた[4]

1931年昭和6年)9月に満洲事変が勃発し、1932年(昭和7年)3月に満洲国が成立すると同国内の鉄道全線の運営・新設を委託された[1]。また、1935年(昭和10年)には日満間で鉄道売却の協定が成立し、形式上は満洲国の所有に帰することとなった[1]。それにともない、満洲国首都の新京特別市(現、中華人民共和国長春市)に本部が置かれ、事実上の本社となった。

最盛期には日本の国家予算の半分規模の資本金、80余りの関連企業をもつ一大コンツェルンで、鉄道総延長は1万キロ、社員数は40万人を擁した[5]。満鉄は、鉱工業をはじめとする多くの産業部門に進出し、日本の植民地支配機構の一翼をになったが、1945年(昭和20年)、第二次世界大戦末期のヤルタ協定によって連合国への接収が決まり、戦後は中華民国ソビエト連邦の共同経営となった[1]。同時に、南満洲鉄道株式会社は敗戦国日本において閉鎖機関となった。満鉄が保有していた鉄道は、中華人民共和国成立後の1952年、中国に返還され、現在は中国長春鉄路と呼ばれている[1]

事業内容編集

 
麻布にあった満鉄東京支社(1936年撮影)

1904年5月、日露戦争もまだ序盤の段階で、黒木為楨率いる第1軍鴨緑江を渡って進撃しているとき、当時参謀次長であった児玉源太郎が、陸軍奏任通訳であった上田恭輔に対し、イギリス東インド会社について調査するよう依頼した[6]。上田の回想によれば、これは元々後藤新平が言い出したことを台湾総督府における彼の上司であった児玉が取り上げたものだったという[6]

満鉄は単なる鉄道会社にとどまらなかった。日露戦争中に後藤新平の影響を受けて児玉源太郎が献策した「満州経営梗概」に、「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ」とあるように、「百般の施設」によって日本の植民地経営を具体化していくための組織であった[6]。この文書は児玉・後藤ラインの満洲経営方策を示すものとして、また実際に満鉄の基本的性格を規定するに至った文書として重要である[6]

満鉄は鉄道経営に加えて満洲の農産物を一手に支配し、炭鉱開発(撫順炭鉱など)、製鉄業(鞍山製鉄所)、港湾、電力供給、牧畜ホテル業(大連旅順奉天などのヤマトホテル)、航空会社などの多様な事業を行なった[7]。同時に鉄道付属地の一般行政を把握し、この地域の土木・教育・衛生事業を展開し、徴税権をも行使するなど、一企業を超えた権限を手中に収めて南満州地域の一大拠点となった[7]。こうして満鉄はその影響力の巨大さから「満鉄王国」「満鉄コンツェルン」と称されるコングロマリットへと成長した[7]。ただし、満洲国成立後は、満洲における最大の権力者は関東軍総司令官に移り、関東軍は工業部門の統制を図るため、満鉄から各種会社を切り離したうえで重工業開発がすすめられた[8]

後藤新平の発案により、1907年4月に設けられた満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクのひとつであった[9]。これは、満鉄のユニークを表しているともに、後藤の個性とアイディアがこめられていた[9]。調査部は、総務、運輸、鉱業、地方の各部と並ぶ重要部局であり、当時、日本企業で他に調査部を持っていたのは三井物産だけであった[9]。後藤は台湾総督府民政長官時代にも旧慣調査などを大々的に展開しており、それを植民地経営に活用していた[9]。また、日露戦後の政情不安の満洲で企業活動を展開するためには調査活動が不可欠でもあった[9]。スタッフは全員で100名前後で経済調査、旧慣調査、ロシア調査に分かれ、他に監査班と統計班があった[9]。また、インフォーマルな情報収集活動も、満鉄が各地に設けた満鉄公所においてさかんに行われており、ここでは日本人のみならず中国人も多く働いていた[10] [11]

なお、当初本社が置かれることが勅令で定められていた東京には、1907年の改正勅令で本社が大連に改められたので支社が置かれることになった[4]。東京支社は、東京市麻布区麻布狸穴町におかれた[注釈 1]

鉄道附属地行政編集

 
大連大広場。満鉄は沿線に近代的都市計画による都市建設を行なった

満鉄には、ロシア帝国から引き継いだ鉄道附属地での独占的行政権を与えられていた[12]。附属地には、鉄道そのものに附属する、鉄路を中心とした幅62メートルの治外法権地域と駅ごとに設けられた一定面積の附属地があった[12]。駅に附属する土地の広さは駅によって異なり、やはり治外法権の特権があった[12]。それを管轄するのが満鉄地方部であり、大連、奉天、長春(のちの新京)などでは大規模な近代的都市計画が進められた[12]。日本が進出したころの奉天駅の附属地は墓地や戦争で使用された塹壕が無数に残り、荒涼とした原野も含まれていた[12]長春駅の周囲もまた、最初はほとんど荒蕪地であったという[12]。こうしたところに、満鉄社員、日本からの商社マン、日本軍人らの住宅街が建設され、日本人相手の食品店、雑貨店、理髪店百貨店宿泊施設娯楽施設などがつくられたのである[12]。満鉄附属地では、上下水道電力ガスの供給、さらには港湾学校病院図書館などのインフラストラクチャーの整備が進められ、満洲経営の中心となった。

しかし、満洲全域が日本および関東軍の勢力下に入ると、鉄道付属地に限られた軍事・行政権は必要なくなり、1937年昭和12年)に満洲国に返還された。これにともない、地方部の行なっていた付属地行政(土木・衛生・教育)は満洲国政府に移管され、満鉄地方部は廃止された。大量の満鉄職員(その多くは教員)が満鉄から満州国へ移籍した。

関東軍編集

関東軍は、日露戦争後にロシアから獲得した租借地、関東州と南満州鉄道付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身で、1919年(大正8年)に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍朝鮮軍支那駐屯軍などと同じたる関東軍として独立した。関東軍司令部は同年4月12日、関東州旅順市初音町に設置され、翌日13日から事務を開始した[13]。当初の編制独立守備隊6個大隊を隷属し、また日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団(隷下でなくあくまで指揮下)のみの小規模な軍であった[14]。満洲事変の際の総兵力は公称1万400であったが、実際には8,800にすぎなかった[14]

関東軍と満鉄社員の接触は1920年代から始まっており、特に関東軍と満鉄調査部ロシア班のスタッフとの交流は早かったが、その動きは決して大きなものではなかったという[15]。満鉄の方が関東軍よりも歴史が古く、老舗意識が濃厚で関東軍を一段下にみる風潮があり、第一次世界大戦後の反軍的雰囲気のなかでは軍に対して非協力的姿勢が顕著であった[15]。ただし、そのなかでも満鉄調査課長の佐田弘治郎やロシア班主任の宮崎正義は関東軍との連携を模索していた[15]。宮崎が関東軍参謀の石原莞爾と出会うのは、1930年秋の旅順のヤマトホテルにおいてであった[15]

資本金編集

  • 設立時 - 2億円。うち1億円は政府の現物(鉄道施設とその付属物)出資。
  • 1920年大正9年) - 4億4千万円(第1次増資)
  • 1933年昭和8年) - 8億円(第2次増資)
  • 1940年昭和15年) - 14億円(第3次増資)

歴史編集

桂・ハリマン協定と満洲問題協議会編集

ポーツマス条約と桂・ハリマン協定編集

日露戦争の勝利により、日本は旅順 - 長春郊外寛城子間の鉄道(南満洲鉄道)と、これに付随する炭坑の利権をロシア帝国より獲得し、そのことは1905年9月5日調印のポーツマス条約にも明文化された[16]。ポーツマス会議での小村寿太郎外相の交渉相手であったセルゲイ・ウィッテは、ロシア帝国蔵相としてシベリア鉄道および東清鉄道の建設を強力に推し進めた人物であった[17]。会議において日本側は当初、南満州支線の旅順・ハルビン間の譲渡を望んだが、ウィッテは日本軍が実効支配する旅順・長春間に限って同意した[18][19]。日本側はその代償として、ロシアが清国より既に得ていた吉林・長春間鉄道(吉長鉄道)の敷設権の譲渡を受けた[19][注釈 2]

日本国首相、桂太郎
アメリカの「鉄道王」、エドワード・ヘンリー・ハリマン

伊藤博文井上馨らの元老第1次桂内閣の首相桂太郎には、戦争のために資金を使いつくした当時の日本に、莫大な経費を要する鉄道を経営していく力があるかについて自信がもてなかった[16]。そのため、講和条約反対で東京に暴動のきざしがみえるなか、日露戦争中の外債募集にも協力したアメリカの企業家エドワード・ヘンリー・ハリマンが1905年8月に来日した際、これをおおいに歓待した[16]。ハリマンは、日本銀行高橋是清副総裁と大蔵次官阪谷芳郎の意を受けたロイド・カーペンター・グリスカム英語版駐日アメリカ合衆国公使の招きによって、クーン・ローブ商会ジェイコブ・シフや自身の娘などとともに来日した[20][21][22]

ハリマン一行の来日の目的は、世界を一周する鉄道網の完成という遠大な野望のために、南満洲鉄道さらには東清鉄道を買収することであった[22][23]。ハリマンは、日本の財界の大物や元老たち、桂首相らと面会した際、日本はロシア帝国から譲渡された南満洲鉄道の権利を、アメリカ資本を導入して経営すべきだと主張し、アメリカが満洲で発言権を持てば、仮にロシアが復讐戦を企ててもこれを制止できると説いた[22]9月12日、彼は日本政府に対し、1億円の資金提供と引きかえに韓国の鉄道と南満州鉄道を連結させ、そこでの鉄道炭坑などに対する共同出資・経営参加を提案した[16][23][24]。日本は鉄道を供出すれば資金を出す必要はなく、所有権については日米対等とはするものの、日露ないし日清の間に戦争が起こった場合は日本の軍事利用を認めるというものであり[21]、南満洲鉄道を日米均等の権利をもつシンジケートで経営しようという提案であった[23][注釈 3]

この提案を、日本政府は好意的に受け止め、元老の伊藤、井上、山縣有朋はこの案を承認、桂太郎首相は南満洲鉄道共同経営案に限って賛成した[24][25]。ハリマンの提案が好意的に受け止められた理由は、ハリマンの売り込みの手腕もさることながら、「満州鉄道の運営によって得られる収益はそれほど大きくなく、むしろ日本経済に悪影響を与える」という意見が大蔵省官僚・日銀幹部の一部に根強かったためであり、「ロシアが復讐戦を挑んできた場合、日本が単独で応戦するには荷が重すぎる」という井上馨の危惧もその一因であった[21]。桂太郎はハリマン帰米直前の10月12日、仮契約のかたちで桂・ハリマン協定の予備協定覚書を結んで、本契約は小村が帰国したのち、外交責任者である小村の了解を得てからのこととした[22][24]

ポーツマス会議より帰国した小村寿太郎は、ハリマン提案に断固反対し、桂や元老たちがこれを受けたのは軽率であったと反省を求めつつ、その撤回を説得して歩いた[16][22][23][24]。形式的には、南満洲鉄道の日本への譲渡は、ポーツマス条約の規定によって清国の同意を前提とするものであり、その点からしても、桂・ハリマン協定は不適切であることを主張した[16][26]。すなわち、清国の承認を得て確実に日本のものとならない以上、その権利を半分譲るなどということはできかねるという論理を小村は持ち出したのである[22]。小村の見解に桂らも納得し、10月23日の閣議において破棄が決定した[16][24]。小村の報告によって、ハリマン=クーン・ローブ連合のライバルであるモルガン商会英語版から、より有利な条件で外資を導入することができ、アメリカ資本を満洲から排除しようと考えていたわけではなかったことも判明し、伊藤・井上らの元老や大蔵省・日銀など財務関係者も破棄を受け容れた[21]。正式な契約書を交わす前であったところから、日本政府はアメリカ合衆国の日本領事館に打電し、ハリマン一行の乗った船がサンフランシスコの港に到着するとすぐに覚書破棄のメッセージを手交するよう手配し、同地の総領事の上野季三郎が到着したサイベリア号に乗り込んで、覚書中止(suspend)のメッセージを伝えた[16][22][27]

四平街協定と満洲善後条約編集

1905年10月30日、日露両軍は四平街において、撤兵手続きと鉄道線路引渡順序議定書に調印した(四平街協定[28]。日本側代表は満洲軍参謀福島安正陸軍少将、ロシア側代表は参謀次長のオラノフスキー陸軍少将であった[28]。これにより、長春以南の南満洲支線が日本側に引き渡された[28]。四平街以南の線路が実際に日本軍の占領下に入ってから約1年半が経過していたが、車両や施設は応急的なものであり、また全線にわたって信号機もなかった[28]。ここではロシアの5フィートの広軌を日本国内採用の3フィート6インチの狭軌に改め、軍用に供されており、実際に野戦鉄道提理部が管理していたのは昌図までであった[28]。車両は機関車211両、貨車4,064両、客車88両に達していたが、元来は国内用を厳寒の地で走らせたものの、防寒施設が不足していたため水槽給水管圧力計が氷結し、それによって水不足が生じて蒸気不昇騰の事故を起こすことが多かった[28][注釈 4]。このような状態の鉄道を本格的な鉄道として運営するためには、抜本的な改良が必要であった[28]。日露両国は昌図以北公主嶺までを1906年5月31日、公主嶺から長春の寛城子分界点までは8月31日に引き継ぐこととした(実際に引き継いだのは8月1日)[27][28]。なお、四平街以北の鉄道ゲージは5フィートのままであり、施設はロシア軍退却時にかなり破損していた[28]。これについては、いずれは国際標準軌(4フィート8.5インチ)に改築する作業が必要であった。

 
日本国外相、小村寿太郎

小村寿太郎外務大臣はアメリカから帰国してわずか2週間後の1905年11月6日、ポーツマス条約の決定事項を承認させるため清国に向かい、11月17日からは北京会議に臨んだ[27][29]。日本側全権は小村と駐清公使内田康哉、清国側は欽差全権大臣慶親王奕劻を首席全権とし、外務部尚書の瞿鴻禨中国語版、直隷総督の袁世凱が全権となって交渉に臨んだ[27]。清国は日露開戦直後、内田駐清公使からの勧告などもあって、1896年露清密約(李鴻章・ロバノフ協定)によってロシアとの間に攻守同盟が結ばれていたにもかかわらず、中立を声明していたため、元来、ポーツマスでなされた清の頭越しのロシア利権の日本への譲渡を認める気は全然なかった[21]。したがって交渉はポーツマス会議以上に難航し、満洲善後条約(北京条約)が結ばれたのは12月22日のことであった[29]

小村は、この条約において露清条約から引き継いだ鉄道利権の条項の遵守を盛り込むよう図り、その結果、南満洲鉄道には日本人清国人以外は関与できないこととなった[26][注釈 5]。租借期間はロシアの東清鉄道租借期間が36年間であったことから、すでにロシアが租借して3年分を差し引き33年とした[27]。他に清は長春はハルビンなど、16市の開放を約束し、密約として南満洲鉄道の利益を妨げる併行線を敷設しないことを認めた[30]。さらに、ロシアから譲渡された鉄道沿線に日本が守備隊を置く権利を清国に認めさせた(のちの関東軍[21]

小村はまた、安東・奉天間の安奉鉄道および奉天・新民屯間の新奉鉄道を東清鉄道南支線と同様の条件で経営すること、また、ロシアから権利を譲られた吉長鉄道については日本に敷設優先権を認めるよう要求した[27]。安奉鉄道と新奉鉄道は日本が日露戦争中に実際に敷設した路線であっただけに、日本としては容易に譲歩できず、清国側も日本の経営権を認めており、結果として撤兵期間1年、改良工事期間2年、改良工事以後の経営権15年間を認め、計18年間の租借を認めた[27]。新奉鉄道については、清国はすでに1898年10月の京奉鉄道借款契約においてイギリスに敷設優先権を与えていたこともあり、交渉が長引いたが、結局これには応じなかった[27]。吉長鉄道についても、ほぼ清国の要求どおり清国が建設することとなった[27]。結果としては、新奉鉄道は日本から清国に売却され、清国によって改築・経営されることとなり、遼河以東の改築資金の半額は日本からの借款となった[27]。そして、吉長鉄道は日本が建設費の半分について借款供与することとなったのである[27]

英米からの抗議と西園寺の非公式旅行編集

 
満洲へお忍び旅行をした首相、西園寺公望

1906年3月、日本は満洲で門戸開放を実行していないのではないか、あるいはロシアの支配にあったときよりむしろ閉鎖されているのではないかという正式な抗議がイギリス(3月19日)、アメリカ(3月26日)の両国よりもたらされ、注意を呼びかけられた[16][23][31]。特に駐日イギリス公使のクロード・マクドナルドは直接伊藤博文韓国統監に厳しい内容の書簡を送っている[32][注釈 6]。また、袁世凱からも日本の中国東北における諸施策は満洲善後条約に違反するとの通告が伊藤にもたらされた[33]

4月14日、首相西園寺公望は極秘に東京を離れて自ら中国東北におもむいて満洲の実情を把握するための非公式旅行をおこなった[33]。これを勧めたのは児玉源太郎だといわれる[33]。一国の首相が実情調査のために現地視察を行うことは実際は難しく、そのため、大蔵次官若槻禮次郎に満洲派遣の辞令を発し、その随員に外務省の山座円次郎、農商務省の酒匂常明、鉄道作業局の野村龍太郎と、もうひとり西園寺自身を加えるという念の入れようであった[33][注釈 7]。お忍び旅行の目的は、清国側の考えや態度を確認し、清国官吏の心証をよくし、また彼らとの交友を通じて戦後の満洲経営のための地ならしをしようというものであった[33]。そこで西園寺は満洲に対する列強の関心の強さを実感し、清国官吏がロシア軍にかわる日本軍の支配に強い反感を抱いていたことを知るのである[33]。3週間の旅行を終えた西園寺は、満洲問題について会合を開き、方針を協議することとした[33]

改修工事編集

一方、ロシアから南満洲支線を引き継いだ野戦鉄道提理部では、ただちに改修工事に着手した[27]。上述のように昌図・四平街間は施設がかなり損壊されており、双廟子駅中国語版に至っては跡かたもなく破壊されていた[28]。さらに、双廟子 -四平街間は、枕木もレールも撤去されており、その間の橋桁、場所によっては橋脚も破壊されていた[28]。野戦提理部は、1906年9月6日には双廟子まで、10月1日には公主嶺まで、そして11月11日は孟家屯(現在の長春南駅)までのゲージを狭軌に改築し、大連との間に直通列車の運行を開始した[27][28]

すでに1905年10月21日には、奉天以南の区間で軍用以外の運輸営業を開始しており、11月25日には昌図までこれが延長されていた[28]。1906年に入ると引き継ぎを終えて修理が完成した区間から一般の人びとにもこれを利用できるようになった[28]。戦争終了後1905年いっぱいまでは軍隊の復員輸送が主であり、一般輸送をおこなうほとんどなかった[28]。しかし、復員輸送が終わるとしだいに中国東北部の縦貫幹線としての性格を強め、多くの人びとが満洲に対して強い関心を示すようになり、日本国内では職を求めて満洲に出かける人が多くなった[28]。なかにはいわゆる「一旗組」もあった[28]旅館、食料品店、理髪店、飲食店、衣料品店、遊郭などの個人営業、また企業も満洲に進出し、その職員が大連、大石橋遼陽、奉天といった都市はもとより、都市と都市の間の小さな町にも入り込んで生活の基盤をつくろうとしていた[28]。鉄道は、これらの人びとの活動をささえる重要な交通手段でもあった[28]

満洲問題協議会編集

 
満鉄設立委員長、児玉源太郎
「満洲問題協議会」では伊藤博文との間で激しい論争になった。

日本軍は撤兵期限ぎりぎりまで満洲に軍政を布き、日本の勢力を同地に植え付けようとしていた[23]。1906年5月22日、英米との関係悪化を憂慮した伊藤博文が中心となって元老、閣僚、軍部首脳などを集めて首相官邸で「満洲問題に関する協議会」を開催した[23][31][34]。このとき、日露戦争の功労によって声望が高まり、首相待望論さえ出ていた陸軍参謀総長の児玉源太郎は「兵力の運用上の便利を謀り陰に戦争の準備」を行うとともに「鉄道経営の中に種々なる手段を講ずる」という積極的満洲経営論を唱え、伊藤らと対立した[31][34]。伊藤は関東州租借地の清国への返還と軍政の早期廃止方針を唱え、山縣ら陸軍関係者は誰も児玉を擁護しなかったので、伊藤の主張が通って軍政廃止が決定した[23][31][34]

これにより英米の警戒心は解かれたが、実際には軍政は目的を達成しており、英米商人の力は衰え、満洲は日本の市場と化していった[23]。児玉は当初官設機構を考えていたが、このころには民間会社の方式によるべきだとの考えに変わっていた[33]

満洲問題協議会では、児玉源太郎と元老の伊藤博文・井上馨とのあいだで大きく見解が相違していた[35]。児玉は満洲経営機関を中央に設置すべきことを主張したが、伊藤はそれに対し、満洲はまぎれもなき清国領土であり、そこに「植民地経営」の展開する余地はないとの反対論を唱えた[31][35]。また、伊藤が韓国への日本人の入植にはほとんど関心を払わなかったのに対し、児玉は平壌以北への日本人の入植事業を検討しており、当時、児玉の幕下にあった新渡戸稲造ドイツ帝国における内国植民政策、すなわち、西プロイセンポーゼンなどドイツ領ポーランド(いわゆる後の「ポーランド回廊」)へのドイツ系移民の導入を通じたドイツ化政策を参考にしてはどうかという意見を伊藤・児玉双方に建策した[35]。伊藤や井上は、日米合弁の「満韓鉄道株式会社」を設立して韓国における鉄道経営をも事実上アメリカ側に譲渡しようとしており、南満洲鉄道会社の設立にあたっても、満鉄は文字通りの鉄道経営に限定すべきとの見解(小満鉄主義)に立脚していた[35]。井上に至っては満鉄の清国への返還さえ考えており、それに備えて株主に対する損失補填のための積立金の計上を検討していた[35]。一方、児玉源太郎とその台湾での部下である後藤新平は、満鉄はたんなる鉄道会社ではなく、満鉄付属地での徴税権や行政権をも担う一大植民会社たるべきだとの見解(満鉄中心主義)を標榜しており、彼らは東インド会社を範とした満洲経営を進めるべきだとの論に立っていた[35]

両者の意見は相互に大きく隔たっているが、出先陸軍権力の統制の必要性は伊藤も熟知するところであり、児玉・後藤のコンビが達成した、下関条約による領有開始後10年にして本国からの補充金なしで運営可能となった台湾財政独立の実績は、政府内外から高く評価されたこともあって、伊藤らの小満鉄主義は力を失った[35]

南満洲鉄道の設立編集

勅令第142号の公布と満鉄設立委員の任命編集

1906年6月7日、明治39年勅令第142号で南満洲鉄道株式会社設立の件が公布された[4]。この勅令は付則をふくめて22か条から成り、業務を鉄道運輸業とし(第1条)、株式は日清両国政府・日清両国人に限って所有を認めることとし(第2条)、日本政府は、炭坑をふくめた満鉄の財産による現物出資ができるものとした(第3条)[4]。本社を東京市、支社を大連におくこと(第6条、ただし1907年3月5日の勅令第22号により本社を大連、支社を東京市に改めた)、役員は総裁1名、副総裁1名、理事4名以上を置き(第7条)、総裁・副総裁は勅裁を経て政府が任命すること(第9条)、政府は会社の業務監視のため南満洲鉄道株式会社監理官を置くこと(第12条)が定められた[4]。同勅令の付則第18条には、設立委員の規定があり、定款の作成と第1回株式募集がその任務とされた[4]

7月13日第1次西園寺内閣は、児玉源太郎を設立委員長とする80名におよぶ満鉄設立委員を任命した[4][31]。この委員のなかには京釜鉄道会社の設立にもかかわった渋沢栄一竹内綱といった財界人、のちに満鉄総裁となる仙石貢や野戦鉄道提理だった武内徹といった技術者、外務省からは山座円次郎政務局長、石井菊次郎通商局長、関東州民政署事務官の関屋貞三郎、ほかに大蔵省、逓信省など関係省庁の官僚、貴衆両院の議員、さらに軍部首脳もふくまれていた[31]。こうした顔ぶれは、純粋な民間企業というよりは国策会社としての性格の濃いものであったことを示している[31]

上記のように、設立委員が定款の作成にあたることになっており、定款の調査委員は調査委員長が渋沢栄一、以下、山座円次郎、岡野敬次郎荒井賢太郎仲小路廉山之内一次和田彦次郎堀田正養大石正巳土居通夫中野武麿大岡育造佐々友房の計13名であった[4]。このうち、山座・荒井・仲小路の3名は1月発足の満洲経営委員会(委員長は児玉源太郎)の当初メンバー6名にも名を連ねており、株式会社組織をとりながら同時に政府機関としての性格をもたせる役割をになった[4]。設立委員長だった児玉源太郎が7月23日に急逝し、24日には喪が発せられた[4]。25日、新委員長に就任したのは寺内正毅陸軍大将であった[4]

設立命令書と株式募集編集

8月1日、外務大臣・大蔵大臣・逓信大臣の連名による「南満洲鉄道株式会社設立命令書」(外務・大蔵・逓信大臣秘鉄14号)が下付された[3][4]。命令書は全文26か条で非公開とされた[4]。公表された勅令よりも具体的な業務の範囲、資本金総額、政府の保護、会社に対する政府の命令権などが規定されていた[4]。設立業務は、この命令書をもとに寺内委員長のもとですすめられた[4]

第1回株式募集は9月10日に開始された。募集株式10万株(2,000万円)、締め切りの10月5日までに役員持株1,000株を除く9万9,000株に対して、総申込株数は1億664万3418株に達し、申込人数は1万1,467人であった[4]。少額申込の111人402株については割当てから外したが、それでも所要株数に対して1077倍という株式ブームの状況を呈した[4][36]。清国人からの申込みもいくらかはあったが、この高倍率では割当てから排除されても疑義をはさむ余地がなかった[4]。いずれにしても、この倍率は満鉄が当時植民地経営企業としての経済的機能を一般から広く期待されていたことを物語っていた[4]。清国政府は結局、締め切りを過ぎても応募してこなかった[4]。11月10日、清国政府は満鉄設立について厳しい調子の抗議を寄せた[4]

設立と営業開始編集

 
初代満鉄総裁、後藤新平
 
初代副総裁で第2代総裁の中村是公

1906年11月26日、南満洲鉄道株式会社が半官半民によって設立され、初代総裁には台湾総督府民政長官だった後藤新平が任じられた[20][26][37]。設立は上述の通り、勅令に基づいてなされ、総裁は勅任、資本金は2億円であった[38]。しかし、政府は日露戦争の戦費の処理と軍拡財源の捻出に苦しんでおり、巨額の資金を出すことはできなかった[38]。政府は、1億円をロシアから引き継いだ鉄道とその附属財源および撫順炭田・煙台炭田などの現物出資とした[20][38]。残りの1億円は、日清両国の出資とされたが、満鉄設立を不当とする清国は参加せず[26]、民間からの投資は日本での株式募集が2000万円、のこり8000万円は外資による社債で賄うこととした[20][38]。当時の日本人が満鉄に寄せた期待は大きく、第1回株式募集では1000倍を超える応募が殺到したのは上述のとおりである[4]。一方、外債募集は、1907年から1908年にかけて3回にわたり、もっぱらイギリス市場に求められた[23][38]。イギリスで調達したのは600万ポンド(約6000万円)であり、フランス市場ではフランス政府の支援があったにもかかわらず、条件が合わずに外債募集は不成立に終わった[23][38]

政府による事業資金は日本興業銀行から社債などのかたちで投資され、南満洲鉄道への投資は同銀行の対外投資総額の約7割を占めていた[39][注釈 8]。ところが実は、興業銀行関係対外投資の74パーセントが輸入外資に頼っており、その主たる資金調達先は英米両国であった[39]。その点では英米金融資本への従属が生じており、一見「資本輸入による資本輸出」というべき逆説的な状況がみられる[39][注釈 9]

後藤新平を満鉄総裁に推挙したのは、台湾総督在任のまま満洲軍総参謀長(1906年4月11日より陸軍参謀総長)となった児玉源太郎であった[20][34][37]。後藤は、当初満鉄総裁就任を固辞していたが、後藤にとっては恩人であった児玉が1906年7月に急逝したので、これを天命と考え、児玉の遺志を引き継ぐ決心をして総裁職を引き受けたといわれる[20][34]。後藤は台湾経営での辣腕ぶりが評価され、低コストでの満洲経営を山縣・伊藤らの元老や立憲政友会(西園寺公望原敬ら)といった人びとからも期待された[32][34][37]。日露戦争後の満洲は、いわゆる「三頭政治」(関東都督府、奉天総領事館、南満洲鉄道)と称される状況のもとで経営の主導権が争われていたが、日本の領土ではない純然たる清国主権のもとで植民地経営をおこなおうとすることにそもそもの要因があった[34]。後藤には「三頭政治」の解消と「自営自立」の実現が期待されたのである[34]。後藤は、満鉄の監督官庁である関東都督府の干渉によって満鉄が自由に活動できないことを懸念し、総裁就任の条件として、満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を兼任することで首相の西園寺公望と合意した。また、人材確保のため、官僚出身者は在官の地位のまま満鉄の役職員に就任することが認められた。

 
撫順炭鉱の経営も満鉄が行った

南満洲鉄道は、都市・炭坑・製鉄所から農地までを経営し、独占的な商事部門を有し、さらに大学以下の教育機関研究所も擁していた。日本租借地である関東州および南満州鉄道附属地の行政をたずさわるのが関東都督府(のちの関東庁)であり、その陸軍部がのちに関東軍として沿線に配置されるようになった。

総裁となった後藤は、「満鉄十年計画」を策定し、さっそく積極的な経営を展開し、部下の中村是公とともに、戦争中に狭軌に直して使用したレールの改築をともなう満鉄全線の国際標準軌化や大連・奉天間の複線工事、撫順線と安奉線の改築工事を急ピッチで進める一方、あわせて、撫順炭坑の拡張、大連港の拡張と上海航路の開設、鉄道附属地内各都市の社会資本整備などを強力に推し進めた[20][34][38]

こうして、満鉄は国策を遂行する株式会社に位置づけられ、その機軸においては「文飾的武備」が唱えられた[20]。すなわち、満鉄は単なる鉄道会社ではなく、満洲の地で教育、衛生、学術など広義の文化的諸施設を駆使して植民地統治をおこない、緊急の事態には武断的行動を援助する便を講じることができるということを方針としたのであり、このようなことから創業当初から満鉄調査部が組織され、調査活動が重視されたのであった[20]。後藤新平は「午前八時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代からの腹心で当時40歳の中村是公を副総裁に抜擢したほか、30代、40代の優秀な人材を理事はじめ要職に採用した。三井物産門司支店長だった犬塚信太郎は未だ32歳という若さで理事にスカウトされた。

標準軌への改軌編集

レールの間隔の変更(改軌)は、初期満鉄の大きな問題だった。もともとロシアの敷いた軌間は5フィート(1,524mm)の広軌であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部が日本から持ち込んだ内地用の車両が走行可能なように3フィート6インチ(1,067mm)の狭軌に改築していた[40]

しかし、朝鮮半島、中国東北部、長城以南の中国を通じての一貫輸送の体系を整えるという観点からすれば、この鉄道は朝鮮や中国の鉄道と同じ軌間、すなわち、4フィート8.5インチ(1,435mm)の国際標準軌間に改めておかなければならなかった[40]

南満洲鉄道株式会社が野戦鉄道提理部から以下の鉄道・炭坑その他の施設を移管されて営業を開始したのは、1907年4月1日のことであった[40]

* 大連 - 孟家屯 (現、長春南駅) … のちの満鉄連京線
* 南関嶺 - 旅順間
* 営口支線
* 柳樹屯支線
* 煙台支線
* 撫順支線
* 安東・奉天線

満鉄に対する政府命令書には、国際標準軌への改築と大連・蘇家屯間の複線化が定められていたが、会社がまず着手したのは各線の軌間改築工事であった[40]。ロシア設置の広軌を狭軌に改める工事については、枕木はそのままで片側のレールを移動すればよいだけの工事であったので転轍機以外の部分は比較的容易に進めることができた[40]。しかし、狭軌を標準軌に改軌する工事は枕木更新をともなう場所も多く、しかも一般の列車運行をストップしないで行わなければならなかったので決して簡単ではなかった[40]1908年明治41年)、大連 - 長春の本線の改築が終わった。不要になった狭軌の機関車は日本に還送されることになり、周水子駅で異例の機関車の送別会が行なわれた。また、日露戦争中に軽便鉄道として敷設された安奉線も標準軌に改築された。

日清間の紛争編集

清国は、満洲善後条約で日本が獲得した利権の無力化を図って行動したため、日清間では次々と紛争が生じた[41]。具体的には、

  1. 清国側が新奉鉄道(新民屯 - 奉天)の奉天停車場を奉天城付近に移し、途中で満鉄線を横断する計画を満鉄に打診したが、日本は貨物の流通ルートが変わり、満鉄が打撃を受けるとしてこれを拒否した件
  2. アメリカの奉天総領事ウィラード・ディッカーマン・ストレイト英語版が奉天巡撫の唐紹儀を促してイギリスのポーリング商会と新法鉄道(新民屯 - 法庫門中国語版)の工事請負契約を結んだことに対し、日本側が抗議した件
  3. 撤去予定の大石橋営口間鉄道について、貿易港である営口と満鉄の連絡線として重要であるため、清側にその存続を認めさせる件
  4. 日本が経営していた撫順・煙台の炭坑の権利が不明確であるとして、経営をつづけるために権利を確固としたものに改める件
  5. 安奉鉄道沿線の鉱山採掘について日清両国人の合同事業とする件

などであった[41]。この件は第1次西園寺内閣においては解決をみず、第2次桂内閣へと持ち越された[41]

政党政治と満鉄編集

明治から大正にかけて、藩閥政治の時代から政党政治の時代がおとずれると満鉄内部にも大きな変化がもたらされた[42]1913年(大正2年)12月、第2代総裁中村是公、副総裁国沢新兵衛が更迭された[42]。後藤新平や中村是公を後援してきた長州閥から立憲政友会系の政治家へと時代の流れが変化してきたのである[42]。中村・国沢の更迭も大正政変第3次桂内閣が倒れて山本権兵衛内閣が成立した直後のことであり[42]、これは政友会出身の内務大臣原敬の差し金であったといわれる。そして、総裁に政友会系鉄道官僚で鉄道院の副総裁だった野村龍太郎が、副総裁には政友会の幹部だった伊藤大八が就任した[42]。伊藤大八が中心となって理事の交代が強力に推し進められ、犬塚信太郎を除くすべての理事が政友会系に代えられた[42]。こうした動きは草創期より後藤らと苦楽を共にしてきた社員からは、満鉄幹部のポストが政党の利権の対象になったかのように映り、両者はしばしば激しく対立した[42]

折しも、この時期、鉄道院、朝鮮鉄道、満鉄3社によって設定された「三線連絡特別運賃」は満鉄の衰亡を招きかねないものであったので、事態はいっそう紛糾した[42]。野村、伊藤の動きに危機感をもった満鉄調査課の村田懋麿大連駅駅務助手の竹中政一らが特別運賃反対運動の先頭に立ち、犬塚を説得して世論に訴えた[42]。こうして特別運賃は事実上撤回された[42]。伊藤副総裁はそれまで行なわれていた理事の合議制を廃止し、総裁の権限強化を提案したが、これに創立以来の理事であった犬塚が強硬に抵抗した[42]。その結果、野村、伊藤、犬塚の3名は、1914年7月の株主総会で更迭された。

 
シベリア出兵(1918年、ブラゴヴェシチェンスクに入城する日本軍と日の丸を振って出迎える市民などを描いた作品。空からは航空隊により布告文が撒かれた)
『救露討獨遠征軍画報』(1919年)より
 
1920年発行の南満洲鉄道株式会社株券(第1次増資期)

この7月、ヨーロッパでは第一次世界大戦が勃発している[43]。大戦は直接戦場にならなかったアメリカ合衆国や日本に大戦景気と呼ばれる特需をもたらしたが、朝鮮台湾、満洲を含む中国大陸にも好景気をもたらした[43]

大隈重信内閣は1914年7月、野村と伊藤に代わり、中村雄次郎を満鉄総裁に送り込み[42]、中村は1917年7月まで総裁を務めた。中村は、軍人出身で陸軍省次官、総務長官、八幡製鉄所長官を歴任した人物であった[42]。こうして内閣が交替すると総裁以下の幹部が代わるしくみができていった[42]。アジアが好景気に沸くなか、加藤高明外相は、1915年1月に中華民国袁世凱政権に対し「対華21カ条要求」を突きつけた[43][44]。その第2号には旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長することがふくまれていた[43][44]。要求事項である第2号自体は問題にならなかったが、希望事項として掲げた第5号が漏洩すると中国ナショナリズムを引き起こし、日貨排斥運動が起こった[43][44]。アメリカ合衆国もこれには警戒心を強め、同盟国であったイギリスからも第5号要求はあきらめるよう通告があった[44]。ナショナリズムの動きは満洲地方にも波及し、排日熱が高まるなかで、「居留民の引上げ」「撫順警戒厳」(『満洲日日新聞』1915年4月6日付)、「大連駅の大混雑」(同4月7日付)といった混乱が生じた[43]

1917年のロシア革命は、それにも増して満洲に大きな衝撃をあたえた[45]。その後、日米英仏など15か国による革命干渉戦争(シベリア出兵)がおこなわれたこともあって、満洲は戦場の一部と化したのである[45]。ロシア革命に対する満鉄の反応は迅速であった[45]。満鉄は1917年6月、理事の川上俊彦をロシアに派遣し、二月革命以降の状況を視察させた[45]11月15日、川上は帰国して本野一郎外相にボルシェヴィキによるロシア十月革命も含めた「露国視察報告書」を提出した[45]。この報告書は寺内正毅や原敬などにも重視され、当該期の日本の外交政策に決定的な役割をあたえた[45]。その後もロシアの動向に大きな関心をいだいていた満鉄は、調査課を中心に調査活動やロシア研究を活発化させた[45]

一方、満鉄内部では、1917年に総裁の役職名が理事長に変更されるとともに、国沢新兵衛が理事長に就任した。1918年大正7年)原敬内閣が成立すると、原は1919年大正8年)4月、国沢理事長を更迭した。同時に理事会を廃止してトップを社長に改め、再び野村龍太郎を起用、副社長に政友会系鉄道官僚の中西清一を起用した[46]1920年、中西は塔連炭坑と内田汽船の船を相場よりも高い価格で購入したが、塔連炭坑は政友会の幹部である森恪が経営する炭坑であった[46][47]。また、内田汽船の経営者も政友会系の内田信也であった[47]。炭坑や汽船を満鉄に売却した代金は政友会の選挙資金に充てられたという疑いがもたれた(満鉄疑獄事件[47]1921年、野党の憲政会はこの問題を帝国議会で追及したが、問責決議案は与党の反対で成立しなかった[47]。司法の場でも中西は背任罪告訴された。また社員の中にも職を賭して抵抗したものがあった。興業部庶務課長であった山田潤二は、野村と中西に直言し、これが容れられないとなると職を辞して、検事に対し決定的証拠を提出した[46]。中西は逮捕、起訴されたが、東京控訴院での控訴審では証拠不十分として無罪となった[47]

1921年の野村社長退任のあと、満鉄の社長は、早川千吉郎川村竹治安広伴一郎が務めた。社員は政党の介入に対し団結を考えるようになり、1927年昭和2年)には社員会が結成された。

山本条太郎と張作霖爆殺事件編集

 
「満鉄中興の祖といわれた山本条太郎

1926年7月1日蒋介石北京政府撲滅を目指すとして北伐を宣言して軍事行動を開始した[48]。蒋介石率いる国民革命軍南京上海を占領して、1927年5月、山東省にせまると、田中義一内閣は同省の在留日本人保護を理由に派兵声明を発した(山東出兵[49]

6月27日から7月7日にかけては東京で東方会議が開かれ、出先の軍人・外交官・行政官によって中国情勢の検討がなされたが、満蒙政策については、奉天派軍閥の領袖、張作霖を排除して傀儡政権を満洲に作るべしとする意見と張作霖勢力とは連携して日本の満蒙権益を維持・拡大しようという意見とに大きく分かれていた[49]。前者には後に張作霖を爆殺して満洲占領を実行にうつそうという関東軍の一派がふくまれており、後者の意見は田中義一首相兼外相や陸軍省首脳部のものであった[49]。大陸政策に深くかかわっていた実業家出身の衆議院議員(当時はまだ当選2回)、山本条太郎は後者の意見に立っており、田中首相は東方会議ののち、山本を満鉄社長に任じた[49]。山本条太郎は大胆な改革を行い「満鉄中興の祖」ともいわれた[50]。副社長には山本の腹心の松岡洋右が就任した[50]

山本は、三井物産上海支店で貿易の手腕を発揮し、1901年には上海支店長に就任、帰国後は三井物産理事、常務取締役を歴任したのち、1920年には立憲政友会に入党して衆議院議員選挙に立候補して当選し、1927年には政友会幹事長となった切れ者であった[50]。山本の持論は「産業立国論」であり、人口問題食糧問題金融恐慌失業問題の解決のため、「満蒙分離」を条件に、鉄道網の拡充を柱とした満洲開発の推進を唱えた[50]。そのうえで、満洲を農業、鉱工業、移民の受け入れ地とすべく、満鉄を活用しようとした[50]。具体的には、製鉄事業と製油事業の充実、マグネシウムアルミニウム関連工業ならびに肥料工業の振興、さらに移民拓殖を推し進める一方、「経済化」と「実務化」をスローガンに関連企業の統廃合を図って経営合理化を進めた[50]。さらに山本は松岡副社長ともに満鉄敷設問題を具体化し、

* 吉会線 … 敦化から老頭溝中国語版を経て図們江(豆満江)に至る線
* 長大線 … 長春から大賚(現、大安市)に至る線
* 吉五線 … 吉林から五常に至る線
* 延海線 … 延吉から海林に至る線
* 洮索線 … 洮南から索倫鎮(ソロン鎮)に至る線

の計5線の敷設を張作霖との交渉を通じて基本合意を実現した[50]。当時、張作霖は北京にあって南方の軍閥や蒋介石と戦闘しており、山本と松岡は北京を訪ねて新線敷設の折衝を行ったが、張作霖はのらりくらりと交渉の引き延ばしを図り、ようやく山本らの要求を呑んで鉄道工事の許可を出した[15]。しかし、この件は細目の交渉をこれから進めようという段になって張作霖その人が亡くなってしまうのである[50]

1928年昭和3年)6月4日、満鉄の専用列車が奉天郊外のクロス地点(京奉線と満鉄線の立体交叉点)付近で爆破され、北京から奉天に帰るため乗車していた張作霖が重傷を負い、2日後に死亡した(張作霖爆殺事件[51][52][53]。張作霖の爆殺を企てたのは、関東軍の高級参謀河本大作大佐、実行したのは独立守備隊東宮鉄男らであった[51][52]。河本らは張作霖を殺害して、父親との不和が噂されていた張学良を擁立しようとした[53][注釈 10]。東宮は中国人の苦力2人を殺害し、爆破を北伐軍の犯行とみせかけようとした[51]

当時「満洲某重大事件」と呼ばれたこの事件の処理について、田中義一首相は元老の西園寺公望らの意向を入れて真相を究明し、陸軍軍人の関与が確認されたら厳しく処断するつもりであり、昭和天皇にも当初そのように上奏した[55]白川義則陸相も田中の意を受けて事件の真相を明らかにして処分しようと動いた[55]。しかし、上原勇作閑院宮載仁親王の両元帥はじめ陸軍の長老や他の陸軍首脳は田中・白川の方針に反対であり、白川は結局、張作霖の列車が爆破された線路の守備の責任のみを問う行政処分にとどめることを陸軍の総意とすることとした[55]。田中内閣の他の閣僚も、田中の方針に反対したので、田中もその圧力に抗しきれず、最終的には、行政処分のみにとどめる方針に転じた[55]昭和天皇は、この田中の変化に強い不信をいだき、牧野伸顕鈴木貫太郎にも諮問したうえで田中首相を問責した[56][注釈 11]

満洲の張作霖と中国本土の蒋介石という両反共政権による中国分割を前提に、その双方と交渉しつつ日本の権益を擁護するというのが、田中の「等距離外交」(服部龍二[57])であった[52]。しかし、この外交路線は爆殺事件によって崩壊した[52]。張作霖の後継者張学良は、蒋介石の国民政府と妥協する路線をとり、国民政府側も張学良を東北政務委員会主席委員に任命して、張学良政権を満洲においてある程度自立的存在であることを認める方針をとった[52]。1928年12月、張学良は国民政府の青天白日旗を掲げて易幟を行った[52]。これにより日本側には、いわゆる「満蒙権益」について誰を相手に交渉するのかという問題が生じてくる[52]。実際に張学良は、当時日本との間で最大の懸案事項となっていた鉄道交渉を、日本側の圧力をかわすため中央政府交渉に移管させようとしており、蒋介石側もそれに応じた[52]。田中外交は、こうして完全に行き詰まってしまったのである[52]

爆殺事件の後、山本条太郎は臨時経済調査委員会を発足させ、これを既存の満鉄調査部と並存させつつも、より実際の立案にかかわる調査活動を委託せしめた[50]。1929年6月20日、満鉄には再び理事会が設置され、トップの役職名は総裁に戻された。1929年7月、田中は首相を辞任した[56]。山本は田中という後ろ盾を失ったこともあり、8月14日、満鉄総裁の座をおりた。新しい総裁には仙石貢が就任した。

満洲国の成立と満鉄編集

田中外交が行き詰まりをみせるなか、関東軍においては石原莞爾を中心に満蒙領有論が具体化されつつあった[58]。もとより、これ以前にも対華21か条要求の際の明石元二郎などのように陸軍部内で領有論が唱えられたことはあったが、石原のそれは行政組織のあり方にまで踏み込んだものであり、具体性においても計画性においても従前の比ではなかった[58]。石原の満蒙領有論は元来、世界最終戦論を念頭に置く限りにおいて、満洲プラス中国本土領有論なのであって、それ抜きには長期持久戦を戦い抜くだけの自給自足体制は確立しえないものである[58]。一方、関東軍内部には「門戸開放、機会均等主義を尊重」しながら、事を進めるべきだとの論もあり、この論を唱えていた中心人物が板垣征四郎であった[58]。板垣の見解は、事変の長期化によって満蒙領有論の後退し、代わって独立国家樹立論が台頭するにおよんで、次第にその発言力を増していった[58]

満鉄包囲網と世界恐慌編集

1929年秋に始まった世界恐慌は日本に深刻な影響をもたらしたのみならず、満洲にも多大な影響を及ぼした[59]。恐慌により満鉄の営業成績が著しく悪化したことに加え、中国側は満鉄並行鉄道の建設を計画しており、もし、これが実現すると満鉄経由の貨物輸送がさらに減少し、経営は危機的状況に陥ることが懸念された[59]。なお、中国では、1930年5月から、蒋介石と反蒋介石連合との間で中原大戦が始まっているが、その帰趨を決したのは張作霖の後継者、張学良であった[60]。1930年9月、閻錫山のもとに汪兆銘馮玉祥など反蒋の人々が立場を越えて集まり政権を成立させたが、反蒋の立場から期待されていた満洲の張学良は9月18日、蒋介石支持の立場を鮮明にしたのである[60]。張学良は、国民政府との協議のなかで、東北政務委員会と東北交通委員会は、中央集権の強化を目指す立場には反しているとはしながらも、その存続を主張して蒋介石から了解を得ていた[61]

 
1945年における満州国の鉄道路線図(赤-社線、緑-北鮮線、青-国線)

東北交通委員会は、日本の満洲権益の中核である満鉄を中国鉄道で包囲し、満洲中の貨物を満鉄から奪還し、満鉄の機能を麻痺させる計画を立てていた[61]。すなわち、満鉄をはさむ東西の2大幹線を建設し、これを北平(北京)・奉天間に集中させて、そのルート上に新たに築港して連絡させるならば、満鉄を包囲してその死命を制するのみならず、ソ連の権益鉄道である東支鉄道(東清鉄道)にも重大な脅威を与えることができるという構想である[61]。資金調達は官民合弁で、なおも不足する場合には、鉄道が外国支配を招かないよう厳しい条件を付したうえで外国資本(特にアメリカ資本、ドイツ資本)を受け容れることとした[61]。すでに7月より錦州南方の葫蘆島ではドイツ資本による大規模な海龍地区の港湾建設工事が始まっていた[61]。東北交通委員会が計画する2大幹線が完成すれば、満洲南北の要地から中国鉄道を経由して葫蘆島へ至る距離は、満鉄利用で大連に行くのに比べて著しく短縮されるため、満鉄にとって一大脅威となることは充分に予想された[61]。すでに完成している中国鉄道は、北寧(北平‐奉天)、奉海(奉天 - 海龍)、吉海(吉林 - 海龍)、吉敦(吉林 - 敦化)の東4線、北寧、四洮(四平街 - 洮南)、洮昴(洮南 - 昴昴渓)、斉克(チチハル - 克山)の西4線は連絡運転を開始しており、このうち、奉海・吉海の両線については連絡割引を実施するなど、満鉄圧迫策を強めた[61]

世界恐慌の影響は満洲においても端的にあらわれ、たとえば1930年(昭和5年)度に大連港で扱った輸出入貨物は、前年度に比べて輸出約200万トン、輸入約50万トン減少した[61]。これは、当然満鉄の輸送収入を悪化させ、満鉄の鉄道事業の収益は前年の3分の1に落ち込み、2,000人の従業員の解雇を余儀なくされた。さらに、長期的に低落していた銀相場が1930年に入って暴落したことも、銀建運賃をとっていた中国鉄道には有利である反面、金建運賃をとっていた満鉄には大きな痛手であった[61]。すなわち、銀貨国において金建運賃を採用している満鉄にあっては、銀暴落は必然的に運賃高騰を招くのであって、安価なライバル線に貨物輸送が奪われるのは当然のことだったのである[61]

世界恐慌、銀安、満鉄包囲網といった悪条件が重なり、1930年以降の満鉄をめぐる情勢は深刻なものとなっていった[61]1930年国勢調査では、関東州と南満洲鉄道付属地帯(満鉄付属地)に居住する日本人は、それぞれ10万人を超えていた[62]。在満日本人22万8,000の大部分は満鉄附属地に重し、満鉄ならびにその付属会社に直接間接に依存して生計を立てていたのである[61]

浜口雄幸内閣の外相、幣原喜重郎は、北伐以後の国権回復運動が満鉄包囲網の形成へと向かうことで「満鉄を死地に陥れ」るものとなるという危機感をもち、1930年11月上旬、対満鉄道交渉方針を打ち立て、懸案事項に関する大幅な譲歩方針を決定した[61]。つまり、田中内閣のときの山本・張作霖協定5鉄道のうち、正式請負契約の未だ成立していない3鉄道、すなわち吉五線(吉林 - 五常)、延海線(延吉 -海林)、洮索線(洮南 -索倫鎮)についてはすべて中国の自弁敷設に任せることとし、正式契約の成立している2路線についても、長大線(長春 - 大賚)は中国が自弁鉄道を敷設するよう努め、吉会線については敦化-老頭溝間のみを日本が敷設し、老頭溝-図們江に関しては当分権利を留保するにとどめることとして、中国側の国権回復熱の沈静化を図ろうとしたのである[61]。ただし、中国側が敷設を予定している鉄道のうち満鉄にとって致命的と考えられる、鄭家屯-長春、鄭家屯-彰武、洮南-ハルビン、洮南-通遼については、その敷設を阻止するためにあらゆる手段を講じることとした[61]。そして、これまで満鉄平行線として抗議してきた吉海線(上述)と打通線(打虎山-通遼)については、永続的な連絡協定が満鉄と中国鉄道とのあいだで結ばれることを条件に抗議を撤回することとした[61]。幣原の案は必ずしも全面的な妥協ではなかったが、山本・張協定からみれば甚だしい後退であり、また平行線の吉海・打通への異議を撤回する一方で洮南-通遼などの建設を絶対阻止しうるかについては甚だ疑問であると言わざるを得ず、全面的後退を余儀なくされることも考えられた[61]。幣原の方針は、11月14日付の訓令によって重光葵駐華代理公使に伝えられた[61]

満州事変編集

 
1931年9月18日から19日にかけて関東軍(独立守備隊)の攻撃をうけた北大営
 
日本陸軍第2師団の奉天入城(1931年9月18日)

1931年昭和6年)9月18日、関東軍は、張学良が北平に滞在し、奉天軍閥の主力が長城以南に結集、さらに残存留守部隊が東三省に分散配置されていた間隙をぬって、奉天郊外柳条湖で満鉄線路爆破事件(柳条湖事件)を引き起こした[63][64]。そして、それを中国側の仕業と発表して懸案の満洲占領作戦を実行にうつした[63]。関東軍の作戦計画は、各部隊を迅速に奉天に集中させ、戦闘開始の劈頭で東北軍主力を叩き、その権力中枢を麻痺させようというもので、そうすれば四分五裂する張学良軍を攻撃したり、買収したりするのは比較的た易く、こうした硬軟さまざまな手段を駆使して各個撃破をめざすという考えであった[14]。いずれにしても、関東軍は第2師団と独立守備隊から成る公称1万余(実際は8,800)の少数兵力をもって、留守部隊とはいえ戦車航空機重火器、若干の毒ガス兵器を装備した張学良軍20万余と対峙したのである[63]。関東軍は野戦訓練を重ね、24センチ榴弾砲を秘密裏に奉天に運び入れて夜襲威嚇射撃により相手の虚を突く軍事行動を展開した[63]。実際、榴弾砲の轟音と地響きとは、東北軍のみならず奉天市民を恐怖に陥れたのであった[63]。北平にあった張学良は日本軍の挑発に乗らないよう無抵抗を指示し、そのため奉天軍の軍事拠点であった北大営と奉天城は短期間で占領された[63]。攻撃命令を下したのは、板垣征四郎大佐であった[65]

柳条湖事件勃発のときから政府は陸軍の謀略であることを強く疑っており、本庄繁関東軍総司令官からの増援要求も一蹴されていた(9月19日)[66]。閣議では不拡大方針が確認され、幣原喜重郎外相や井上準之助蔵相が南次郎陸相に対し、部隊の原駐地への帰還を強く迫った[66]。そこで関東軍は吉長線経由で吉林に第2師団主力を送り込み、わざと奉天の警備を手薄にして朝鮮軍に来援を要請した[66]金谷範三参謀総長は当然のことながら出兵を制止した(9月19日)[66]

関東軍は9月21日には吉林を占領し、同日、かねてより来援を要請されていた林銑十郎を司令官とする朝鮮軍が独断で鴨緑江をわたり、満洲に入った[63][66][67]。本来、国境を越えての出兵は軍の統帥権を有する天皇の許可が必要だったはずだが、林はその規定を無視した[66][68]。そして9月28日までには袁金鎧を奉天地方維持委員会委員長に、煕洽を吉林省長官に誘い出して彼らを用いて奉天省吉林省の張学良からの独立を宣言させた[63]黒竜江省の占領もねらったが、早期の占領は無理と判断すると黒竜江省首席代表の馬占山とは妥協し、北部満洲の治安の安定を図った[63]

当時の満鉄総裁であった内田康哉以下の満鉄首脳は当初、事変の不拡大を望んでいたが、理事の中で唯一、事変拡大派であった十河信二の周旋で内田が本庄司令官と面談すると、内田は急進的な事変拡大派に転向し、満鉄は上から下まで事変に協力することとなった。しかし、満洲情勢は混迷の一途をたどっていた[69]。関東軍の一撃は確かに奉天軍閥を麻痺させることには成功したが、それは満洲土着の「馬賊」や「匪賊」の跳梁を促し、これに東北軍の敗残兵が加わることによって内陸部はもとより満鉄沿線の治安も悪化して、ハルビン占領はおろか関東軍はその主力を満鉄沿線にとどめて治安維持にかかりきりになるような有り様であった[69]。加えて、敗残兵による在満朝鮮人虐殺事件が連日報じられており、鉄道付属地には内陸部から避難した在満朝鮮人が陸続となだれ込んで、深刻な事態となっていたのである[69]。若槻禮次郎内閣はしかし、ここに至っても慎重であり、増派を認めなかった[69]

手詰まり状態に陥った石原がここで考えたのが、張学良の対満反攻拠点であった錦州への空爆である[70]。10月8日、石原莞爾は本庄に無断で錦州軍政府に爆撃を加えた(錦州爆撃[63][70]。錦州爆撃は規模としては小さいものであったし、また、これによって軍政府が機能しなくなったわけでもなかったが、国際社会はこの事件に大きな衝撃を受けた[70]天津支那駐屯軍は、今度は自分たちの出番だと色めきだって錦州への南方からの陸路侵攻を図ったが、南と金谷はこれに機敏に動き、厳しい制止と増派の不可を宣して支那駐屯軍の暴走はひとまず食い止められた[70]。12月初旬頃の関東軍の作戦行動は南北ともに行き詰まっており、昭和天皇の事変不拡大の意思も固かった[71]第2次若槻内閣と参謀本部は連携して関東軍の策動を抑え込んでいた[71]国際連盟の論調も風向きが変わり、極東における安定勢力は結局日本なのだから、しばらく日本の力で満洲の無政府状態を収拾するほかないとして、ジュネーヴでは満洲の委任統治構想が急浮上していた[71]。英仏伊の3国は錦州一帯に中立地帯を設定し、そこに国際警察軍のような組織を進駐させるという打開策の提示に動き始めていた[71]。こうした状況を受けて若槻内閣は、奉天に内田満鉄総裁を委員長とする「満洲対策協議委員会」を設置して、本国政府の意向を出先に周知徹底させるためのシステムを満鉄を中心に作り上げようとした[71]。こうして、事態は政党内閣によって収拾されつつあるようにみえた[72][注釈 12]

しかし、アメリカ合衆国のヘンリー・スティムソン国務長官の記者発表によって事態が急転する[73]。スティムソンは、アメリカ駐日大使を経由した幣原外相談として今後関東軍の錦州攻撃は行われないであろうとの談話を発表するが、これが日本国内のメディアで報道されるや、幣原は外国の政権担当者に軍事作戦を約束しており、これは統帥権干犯にあたるとして猛烈な反発を招いたのである [73]皇道派平沼騏一郎らの流れを汲む右派、関東軍の行動を支持していた人びとはこぞって幣原を攻撃し、幣原・南・金谷の求心力は低下した[73]。動揺した若槻内閣は結局、12月に退陣した[73]

満洲国と満鉄改組編集

第2次若槻内閣総辞職によって、立憲政友会の犬養毅に大命が下される一方、死に体だった関東軍は息を吹き返した[73][74]。1932年2月までに東三省のほとんどを占領し、3月には清朝の廃帝溥儀を執政として満洲国を名目上独立させ、事実上の支配権をにぎった[74]。戦火は上海にも拡大して激しい戦いが続いた(第一次上海事変)が、列国の強い抗議もあって5月には停戦した[74]。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の在満洲国特命全権大使となったが、この職は関東軍司令官が兼任していた。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入った。1932年4月、軍部に批判的だった江口定条副総裁は憲政会に近いこともあって解任され、これを知らなかった内田康哉総裁が辞表を提出する事態となったが、内田は軍部の慰留を受けて辞任を撤回した[75][76]。内田はしかし、この年の7月、満鉄総裁を辞し、林博太郎が新総裁となった。

1932年3月に満洲国が成立すると、満鉄は同国内の鉄道全線の運営・新設を委託された。また、1935年(昭和10年)には日満間で鉄道売却の協定が成立し、形式上は満洲国の所有に帰することとなった。それにともない、満洲国の首都、新京(長春)に満鉄本部が置かれ、事実上の本社となった。こうしたなか、1935年より満鉄総裁となった松岡洋右は大調査部構想を掲げ、調査部門の強化を図った。この頃、満鉄中央研究所の日下和治博士を筆頭とするチームが、大栗子鉄山で産する良質な鉄鉱石を低温精錬して得られたスポンジ鉄を製造し、アーク炉内で再度溶解、成分調整して炭素量の多い鋼(特殊鋼)と炭素量の少ない純(日下純鉄)の製造の開発に成功した[77]

満洲国が成立する前から、満鉄は鉱山開発や森林開発を進めてきており、なかでも最も力を注いできたのは鞍山製鉄所を中心とする鉄鋼業と撫順炭坑を中心とする石炭であった[8]。満洲国成立後は、満洲の経営の中心は満鉄から関東軍に移り、満洲国政府にも日本から高級官僚が送られてきて力を持つようになった[8]。しかし、関東軍にとって満鉄だけが支配できない組織であった[8]。満鉄を支配できなければ、満鉄が経営している工業部門を統制できない[8]満州国の経済における満鉄の独占的地位が問題となったのである。そこで、満鉄が支配している各種会社を満鉄から切り離して特殊会社とし、満鉄を鉄道と調査部門に特化させる方向が示された[8]。この満鉄改組によって、満鉄の事業は次々に減らされたのであるが、炭鉱部門については、かなりの部分がなおも満鉄に残された。

満洲国における本格的な重工業開発は、1936年に始動した産業開発5か年計画に沿って行われた[8]。それは25億円を投じて鉄鋼・石炭・兵器自動車飛行機などの重工業を重点的に育成することを目標としていた[8]。この5か年計画を指導した中心人物が、戦後内閣総理大臣となった岸信介であった[8]。岸は商工省の高級官僚であったが、日本政府が直接資本を投入することにはさまざまな制約があった[8]。そこで、当時新興財閥と呼ばれた鮎川義介の日本産業株式会社(日産コンツェルン)を満洲に引き入れる方策がとられた[8]。日産は、傘下に日産自動車日立製作所日本鉱業日本化学工業など130社、従業員15万人を擁する一大コンツェルンであったが、それがそっくり満洲へと移転したのである[8]。すでにシナ事変(日中戦争)の始まっていた1937年12月のことであり、社名も満州重工業開発(通称、「満業」)に改めた[8]。満業は2億2500万円を出資し、1938年3月、満鉄は鞍山製鉄所をはじめとする重工業部門を満業に提供した[8]。こうして、満業には昭和製鋼所や満洲炭坑など、重工業のほとんどが集中した[8]

一方、満鉄中央研究所の特殊鋼開発の成果にもとづき、1937年以降は大連鉄道工場が軍刀の大量生産を企画した。1938年には刀剣製作所が設立され、1939年以降「満鉄刀」として量産された。同年3月、松岡総裁により「興亜一心」と命名され、1振り40円で販売され、1944年(昭和19年)まで約5万振りが製造された[77]。満鉄刀は寒冷地で使用しても折れず曲がらず、切れ味も優れているとして高い評価を得た[77]

松岡洋右によって調査部門の強化であったが,1942年1943年の2度にわたる「満鉄調査部事件」(満鉄調査部の研究者が左翼的であるとして大量に検挙された)により、調査部門も活力を失った。

子会社の東亜勧業は満蒙開拓団の入植地確保のため、関東軍の指示で用地買収を行なった。

敗戦と満鉄閉鎖編集

南満洲鉄道は、1945年昭和20年)の日本の降伏の直前に満洲に侵攻したソ連軍に接収された。満鉄保有の諸施設は同年8月27日に発表された中ソ友好同盟条約により、中華民国政府とソビエト連邦政府の合弁による中国長春鉄路に移管された。その後、国共内戦によって1949年中華人民共和国が成立し、1955年には中国政府への路線引き渡しが完了した。南満洲鉄道株式会社は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)よりポツダム宣言にもとづいた閉鎖機関令が公布され、1945年9月30日にさかのぼって閉鎖された。ただし敗戦後も、満鉄東京支社の財産などが残っていたため、清算は1957年までかかった。

天水会と満鉄会編集

満洲における満鉄は、消滅したものの、現地の鉄道輸送の人員や技術者が不足しており、最後の満鉄総裁、山崎元幹ら旧満鉄社員の多くはソ連や中華民国の依頼によって現地に留められ、鉄道運行などの業務に従事させられた。これは留用と称され、中華人民共和国建国後も続き、現地から他の地域の鉄道建設へと駆り出された[78]天水-蘭州間の天蘭線開通は、その成果である。天蘭線建設に従事した人々は、帰国後の1953年、「天水会」を組織した。なお戦中の満鉄総裁であった大村卓一は、中国共産党軍に逮捕され、暴行を受けたのち獄死した。

一方、日本国内では、1946年(昭和21年)、未払い退職手当の支払い、旧社員の就職斡旋などを目的として、「満鉄社友新生会」が発足した[79]。具体的には、

  1. 旧社員債権の確保
  2. 旧社員家族の更生と援護
  3. 残留社員の引揚げ促進

が目標にすえられた[80]。満鉄東京支社ビルの売却益を原資として、1953年(昭和28年)2月より在外活動関係閉鎖機関特殊清算事務所からの退職手当支払いが始まった[80]。しかし、全国に散在する旧社員に退職手当を支給することは難しかったため、厚生省からの指導を受け、1954年(昭和29年)7月、「財団法人満鉄会」に改組された[80]。同年11月の認可ののち、退職手当支払いにあたり、あわせて満鉄社員及び満洲関係引揚者の援護厚生などを行った[80]。満鉄会の会員は多い時で約15,000人にのぼり、都道府県ごとの分会や在籍時の職種等による分会も設立された[79]。しかし、会員の高齢化にともなって減少し、退職手当支払いという当初の目的を達したこともあり[79]2012年10月に最後の大会を開催し、2013年3月末をもって解散した。解散後、満鉄会が保有していた資料は、2017年(平成29年)に国立国会図書館へ寄贈された[80]

満鉄の遺産編集

 
大連の旧満鉄本社(2007年10月撮影)
2014年に遼寧省文物保護単位に指定され、現在は博物館として利用されている。

満鉄が満洲の地に残した各種インフラは、日本が撤退して中国に返還されたのち、1980年代に改革・開放政策が始まるまで、鞍山製鉄所や大慶油田とともに、不安定な状態が長く続いた中華人民共和国の経済を長く支えた。長春(新京)や大連、瀋陽(奉天)といった沿線主要都市では現在でも日本統治時代の建築物を多数確認することが出来る。満鉄関連の建物は多くが修復されながら現在も使われており、満鉄大連本社は現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所としてその建物を使用しているほか、大連などにある旧ヤマトホテルは現在も大連賓館や遼寧賓館などとして営業を続けている。満鉄各線で運行されていた車両の一部は、ジハ1型など現在も現地で稼働するものもあるが、老朽化などの理由で徐々に廃車が進んでおり、一部は静態保存されている。

かつて満鉄に勤務した田中季雄は太平洋戦争後に次のように語っている[81]

戦後になって日本の大陸への進出を侵略としてとかく悪く言われるが、清国の衰退で国家の形をしていなかった現在の中国東北地域に新しい国をつくった満州国の場合は、五族(支那満州蒙古日本朝鮮)の民族協和による王道楽土の建設を目指し、満鉄はその新国家の動脈として産業発展と民生向上に大きく貢献していたと思う。満鉄が同地域に残した有形無形のものは極めて大きく、戦後の新中国の発展にも大きく役に立っているはずだ。 — 田中季雄、『日本の鉄道史セミナー』(2005)「第17章 満鉄の興亡」p.131

2017年4月6日、中国社会科学院は長春に満鉄研究の中心として「満鉄研究センター」を設立した[82]

鉄道事業編集

代表的な列車編集

 
満鉄のシンボル、特急「あじあ」

特急「あじあ」編集

1934年昭和9年)11月、大連 - 新京間に満鉄最初の特急あじあが設定された。最高速度は130km/h、表定速度は82.5km/hで、日本国鉄の特急「つばめ」の平均速度66.8km/hを上回った。流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車「パシ型」がこれを牽引した。1935年昭和10年)には運転区間は哈爾濱(ハルビン)まで延長された。

経営路線編集

 
機関車工場
 
満鉄新京駅時刻表、中国工業博物館蔵。
 
南満洲鉄道株式会社の腕章、中国工業博物館蔵。
 
南満洲鉄道旅客列車の食堂車
 
大連駅
 
大連市内にある満鉄旧址の石碑
 
大連市内に現存する満鉄の社紋(「M」とレール断面の意匠)入りのマンホールの蓋。満鉄は上下水道や電力・ガスなど都市インフラに関わる事業も行なっていた。
 
1937年の南満洲鉄道の広告パンフレット

鉄道は満鉄本来の路線(社線)つまり新京(現・長春) - 大連旅順間の満鉄本線安奉線のほかに、満洲国が1935年昭和10年)にソビエト連邦から買収した新京以北の北満鉄路(旧称・中東鉄道)をはじめとする満州国有鉄道国線)や北部朝鮮の一部の鉄道の運営および新線建設を受託し、営業キロ数は格段と伸びた。これに対応するため、満鉄は1936年昭和11年)、奉天に鉄道総局を設置、さらに1942年に本社を大連から満洲国の首都新京に移転した。

以下は、1945年昭和20年)8月時点での満鉄経営路線の一覧(委託経営路線を含む)である[83]

凡例 : [貨] 貨物線

社線編集

路線名 区間 キロ程 旧路線名・備考
連京線 大連 - 新京 701.4 本線 (開業 - 1921年7月20日)
満洲本線 ( - 1925年3月31日)
連長線 ( - 1932年10月31日)
大連埠頭 - 沙河口 [貨] 6.9 通称「埠頭線」
大連 - 吾妻 [貨] 2.9 通称「吾妻線」
安奉線 安東 - 蘇家屯 260.2
入船線 [貨] 沙河口 - 入船埠頭 5.8
旅順線 周水子 - 旅順 50.8
柳樹屯線 大房身 - 柳樹屯 5.8 休止線
甘井子線 [貨] 南関嶺 - 大連甘井子埠頭 11.9
金城線 金州 - 城子 102.1
営口線 大石橋 - 営口 22.4
煙台炭礦線 煙台 - 煙台炭礦 15.6 非営業線
撫順線 蘇家屯 - 撫順 52.9
渾楡連絡線 [貨] 渾河 - 楡樹台 4.1

北鮮線編集

路線名 区間 キロ程 旧路線名・備考
北鮮西部線 上三峰 - 南陽 36.0 図們線(朝鮮総督府鉄道
北鮮東部線 図們 - 雄基 147.3 図們線(朝鮮総督府鉄道)
雄羅線 雄基 - 羅津埠頭 18.2
南羅津線 [貨] 羅津 - 南羅津 3.0

国線編集

満州国国有鉄道委託経営線(1933年3月1日~)

路線名 区間 キロ程 旧路線名・備考
奉山線(現瀋山線 奉天 - 山海関 419.6 奉山鉄路
奉裕連絡線 [貨] 奉天 - 裕国 17.5
于洪連絡線 [貨] 于洪信号場 - 大成信号場 4.6
皇姑屯連絡線 [貨] 皇姑屯 - 北奉天 2.8
高新線 高台山 - 新立屯 60.6
大鄭線 大虎山 - 鄭家屯 366.2 奉山鉄路(大虎山-通遼)
鉄路(通遼-鄭家屯)
新義線 新立屯 - 義県 131.5
河北線 溝幇子 - 河北 91.1 奉山鉄路
錦古線 錦県 - 古北口 542.3 奉山鉄路(錦県-口北営子)
北票線 金嶺寺 - 北票 17.9 奉山鉄路
葉峰線 葉柏寿 - 赤峰 146.9
壺蘆島線 錦西 - 壺蘆島埠頭 12.1 奉山鉄路
奉吉線 奉天 - 吉林 447.4 瀋海鉄路(奉天-朝陽鎮)
吉海鉄路(朝陽鎮-吉林)
瀋陽連絡線 [貨] 奉天 - 瀋陽 10.7
将軍堡連絡線 [貨] 撫順 - 将軍堡信号場 3.6
撫順城連絡線 [貨] 撫順 - 撫順城 4.5
梅輯線 梅河口 - 満浦 255.5
新通化線 通化 - 新通化 4.2
大栗子線 鴨園 - 大栗子 112.3
平梅線 四平 - 蓮河 149.2 瀋海鉄路(西安-蓮河)
京図線 新京 - 図們 528.0 吉長吉敦鉄路(新京-敦化)
敦図鉄路(敦化-哈爾巴嶺)
龍豊線 龍潭山 - 大豊満 22.4
金珠線 江北 - 金珠 18.8 吉林鉄路(新吉林-金珠)
小新連絡線 [貨] 小姑家 - 新站 9.1
朝開線 朝陽川 - 上三峰 60.6
和龍線 龍井 - 和龍 61.1
合水連絡線 [貨] 萱穂信号場 - 合水信号場
図佳線 図們 - 佳木斯 580.2
佳木斯埠頭線 [貨] 佳木斯 - 佳木斯埠頭 3.6
興寧線 新興 - 城子溝 216.1
汪清連絡線 [貨] 汪清 - 小汪清 9.0
虎林線 林口 - 虎頭 335.7
恒山線 鶏寧 - 恒山 12.4
拉浜線 樹 - 拉法 265.5
煤窯線 舒蘭 - 煤窯 30.4 吉林鉄路
京浜線 新京 - 哈爾浜 242.0 北満鉄路
浜洲線 哈爾浜 - 満洲里 934.8 北満鉄路
浜綏線 哈爾浜 - 綏芬河 546.4 北満鉄路
開道廻線 亜布洛尼 - 横道河子 59.2
香坊連絡線 [貨] 香坊 - 東門信号場 5.1
東門連絡線 東門信号場 - 新香坊 6.2
城鶏線 下城子 - 西鶏家 103.4 穆棱鉄路(下城子-梨樹鎮)
綏寧線 河西 - 東寧 91.1
浜江線 哈爾浜 - 三 8.8 北満鉄路(哈爾浜-浜江)
樹埠頭線 [貨] 浜江 - 三 4.0
哈爾浜埠頭線 哈爾浜 - 哈爾浜埠頭 2.9 北満鉄路(哈爾浜-八区)
江南連絡線 [貨] 太平橋 - 江南信号場 2.2
浜北線 樹 - 北安 326.1 呼海鉄路(新松浦-海倫)
海克鉄路(海倫-北安)
綏佳線 綏化 - 佳木斯 381.8
鶴岡線 蓮江口 - 鶴岡 54.3
蓮江口埠頭線 [貨] 蓮江口 - 蓮江口埠頭 3.5
北黒線 北安 - 黒河 302.9
黒河埠頭線 [貨] 黒河 - 黒河埠頭 4.2
斉北線 斉斉哈爾 - 北安 231.5 斉克鉄路(斉斉哈爾-泰安)
泰克鉄路(泰安-克山)
海克鉄路(克山-北安)
寧霍線 寧年 - 霍龍門 284.0 斉克鉄路(寧年-拉哈)
平斉線 四平 - 斉斉哈爾 571.4 鉄路(四平-南)
昂鉄路(南-三間房)
斉克鉄路(三間房-斉斉哈爾)
京白線 新京 - 白城子 332.6
白杜線 白城子 - 杜魯爾 376.5 索鉄路(白城子-寧家)
楡樹線 楡樹屯 - 昂昂渓 6.4 斉克鉄路
宮原 - 田師府 86.0

新線編集

安南線 - 渾三線 - 遼宮線 - 鳳灌線 - 霍黒線 - 双源線 - 東当線(1944年4月1日廃止)

社内専用線編集

湯旺森林線

廃止線編集

社線
霊山線[貨] 首山 - 霊山操車場(1941年6月1日廃止)
西寛城子線 孟家屯 - 寛城子(1909年2月3日廃止)
国線
馬船口線 (松浦 - 馬船口、旧呼海鉄路、1936年7月1日廃止)
子山線[貨] (蛟河 - 子山、旧吉長吉敦鉄路、1936年9月1日廃止)
松浦線(新松浦 - 松浦、旧呼海鉄路、1938年6月1日廃止)
道裡線[貨] (哈爾浜 - 道裡、旧北満鉄路、1941年12月1日廃止)
新線
東当線(1944年4月1日廃止)

満鉄の車両編集

歴代代表者編集

歴代代表者は、以下の表に示す通りである[3]。なお、代表者の肩書は、4代目までは「総裁」、5代目の国沢新兵衛は「理事長」、6代目の野村龍太郎(再任)からは理事会の廃止に伴い「社長」となった。10代目の山本条太郎の任期途中の1929年6月20日から再び「総裁」に戻る[3]

氏名 在任期間 出身地 出身校 前職・備考など
1   後藤新平 1906年11月13日 - 1908年7月14日 陸奥国 須賀川医学校 台湾総督府
2   中村是公 1908年12月19日 - 1913年12月18日 安芸国 東京帝国大学 台湾総督府
3   野村龍太郎 1913年12月19日 - 1914年7月15日 美濃国 東京帝国大学理学部 鉄道院副総裁
4   中村雄次郎 1914年7月15日 - 1917年7月31日 伊勢国 陸軍兵学寮 貴族院勅選議員
5   国沢新兵衛 1917年7月31日 - 1919年4月12日 江戸 東京帝国大学工科大学 鉄道省
6   野村龍太郎 1919年4月12日 - 1921年5月31日(再任) 美濃国 東京帝国大学理学部 再任
7   早川千吉郎 1921年5月31日 - 1922年10月14日 加賀国 東京帝国大学法科大学 三井合名会社副理事長
8   川村竹治 1922年10月24日 - 1924年6月22日 羽後国 東京帝国大学法科大学 貴族院勅選議員
9   安広伴一郎 1924年6月22日 - 1927年7月19日 豊前国 慶應義塾
香港中央書院
枢密顧問官
10   山本条太郎 1927年7月19日 - 1929年8月14日 越前国 共立学校 立憲政友会幹事長
11   仙石貢 1929年8月14日 - 1931年6月13日(不) 土佐国 東京帝国大学理学部 九州鉄道社長
12   内田康哉 1931年6月13日 - 1932年7月6日 肥後国 東京帝国大学 外務大臣
13   林博太郎 1932年7月26日 - 1935年8月2日 東京都 東京帝国大学文科大学 貴族院伯爵議員
14   松岡洋右 1935年8月2日 - 1939年3月24日 山口県 オレゴン大学 中華民国総領事
15   大村卓一 1939年3月24日 - 1943年7月14日 福井県 札幌農学校 関東軍交通監督部長
16   小日山直登 1943年7月14日 - 1945年4月11日 福島県 東京帝国大学 南満洲鉄道株式会社
17   山崎元幹 1945年5月5日 - 1945年9月30日 福岡県 東京帝国大学法科大学 満州電業副社長

主な満鉄出身者編集

役員編集

社員編集

営業実績編集

南満洲鉄道株式会社各種事業収支(単位:万円)[84]

会計年度(西暦) 鉄道 ホテル 船舶 自動車 港湾 鉱業 製鉄 製油 附属地 その他 合計
1907 366.7 -3.1 - - 1.2 55.3 - - -13.0 -205.5 201.7
1908 737.6 -1.2 -12.6 - 17.4 102.7 - - -12.5 -620.1 211.4
1909 919.8 -1.9 -25.5 - 24.7 123.0 - - -23.0 -439.9 577.2
1910 912.9 -7.7 -19.3 - 11.2 166.7 - - -49.7 -571.4 370.8
1911 1061.8 -4.7 -14.8 - 9.6 217.9 - - -61.5 -827.4 366.7
1912 1206.1 -3.6 -2.2 - -19.9 184.7 - - -76.8 -835.4 492.6
1913 1436.1 -2.1 -12.7 - 18.3 180.1 - - -105.1 -797.9 716.7
1914 1487.1 -5.7 -16.9 - 32.7 221.7 - - -108.6 -856.2 754.1
1915 1572.0 -4.8 4.6 - 37.1 200.7 - - -97.4 -904.2 808.0
1916 1937.9 -0.7 21.4 - 36.4 200.7 12.3 - -126.8 -1077.5 1010.8
1917 2359.9 3.7 106.3 - 39.3 602.5 - - -160.8 -1458.3 1492.6
1918 2795.4 9.8 28.6 - 3.9 713.7 - - -240.7 -1039.7 2219.3
1919 3653.2 -0.3 -25.1 - -133.5 1359.9 -148.7 - -421.6 -1876.4 2437.5
1920 4855.7 -16.8 -84.9 - -56.3 606.7 -642.3 - -616.0 -1307.0 2739.2
1921 4503.1 -21.9 -24.5 - 66.9 329.6 -287.4 - -643.2 -783.1 3138.6
1922 5364.4 -32.8 -2.2 - 128.2 671.6 -319.8 - -683.6 -500.1 3508.0
1923 5648.2 -33.7 - - 7.4 407.9 -224.1 - -829.8 -1496.4 3479.6
1924 5600.8 -24.4 - - 7.6 810.3 -295.6 - -976.4 -1640.3 3455.3
1925 5859.5 -21.5 - - 63.3 646.7 -372.0 - -1140.0 -1548.8 3486.5
1926 6197.1 -33.7 - - 99.4 548.9 -380.7 - -1256.7 -1768.7 3415.8
1927 6800.8 -26.4 - - 97.0 974.8 -15.8 - -1300.6 -1890.3 3627.4
1928 7428.1 - - - 246.2 1160.3 121.6 - -1319.5 -1834.4 4255.3
1929 7489.0 - - - 355.7 1227.5 54.3 - -1359.9 1707.3 4550.6
1930 5856.2 - - - 182.1 182.1 -66.7 3.3 -1071.9 -1066.3 2167.3
1931 4818.5 -9.7 - - 128.9 1.7 -298.0 29.0 -1087.7 -1880.4 -340.1
1932 6505.1 -8.8 - - 303.9 12.8 -390.0 53.8 -1168.7 -1150.8 6128.8
1933 7576.6 -1.3 - - 321.7 501.6 -54.4 82.5 -1067.0 -1853.0 4292.0
1934 7324.4 2.8 - - 358.0 1039.1 - 47.2 -1367.6 -2246.4 4646.8
1935 8403.0 -9.4 - - 359.5 1269.8 - 105.1 -1421.8 -3100.1 4962.4
1936 7959.7 -4.9 - - 394.6 1225.0 - 92.2 -1663.4 -1758.3 5017.4
1937 8971.3 - - - 495.1 1050.5 - 148.7 -1085.5 -3272.7 7392.9
1938 9711.1 - - - 589.5 1657.9 - 226.0 - -4897.5 7287.5
1939 10592.2 - - - 294.3 1126.0 - 127.5 - -4355.1 7784.5
1940 14494.5 - -307.1 -422.6 167.0 1348.7 - 101.9 - -7711.3 7671.1
1941 15058.9 - -111.2 5.2 136.4 1401.1 - 250.2 - -9527.4 7213.1
1942 19926.1 - -266.5 14.3 -4.4 1439.3 - 310.5 - -12930.3 8488.8
1943 22963.6 - -356.3 -419.1 -624.4 510.5 - 102.8 - -12881.4 9295.6
1944 298232.6 - -801.1 -593.5 -1141.1 -1244.5 - -549.9 - -14113.5 11379.9
合計 260178.6 -264.2 -1922.0 -1414.7 3094.7 23242.5 -3307.3 1130.8 -21557.5 -108200.8 140703.8

関連会社一覧編集

脚注編集

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注釈編集

  1. ^ 現在の港区麻布台2丁目1番2号、跡地には東京アメリカンクラブが造られた。また、東京支社の売却益は満鉄会の活動費にあてられた。現在、1979年新築の商船三井本社ビルがある。
  2. ^ ポーツマス条約の第6条は長春以南の東清鉄道南支線のロシアから日本に譲渡すること、第7条は両国の満洲における鉄道を商工業目的のために限って使用し、軍略のために用いないこと、第8条は両国間の鉄道の接続業務について早急に別役を設けることを、それぞれ定めた[19] → 条約本文は「日露講和條約(ウィキソース)」参照。
  3. ^ 「日本政府ノ獲得セル満洲鉄道並附属財産ノ買収、該鉄道ノ復旧整備改築及延長並ニ大連ニ於ケル鉄道終端ノ完成及改良ノ為資金ヲ整フルノ目的ヲ以テ一ノシンジケートヲ組織スルコト」「両当事者ハ其取得シタル財産ニ対シ共同且均等ノ所有権を有スベキモノトス」が、その骨子であった[16]
  4. ^ こうした事故の危険性は当然予想されるものであったが、対策は何ら講じられなかった。日本軍が旅順占領を果たしたとき、ロシア軍が所有していた機関車を接収し、そこに装備されていた防寒設備を見習うことを初めて知ったのであった[28]
  5. ^ ロシアと清国の間では旅順・大連租借に関する露清条約(1898年)・満洲に関する露清協定(1900年)が結ばれ、そこではロシア・清国両国人以外は鉄道に関与できないこととなっていた[26]
  6. ^ マクドナルドの手紙の内容は、以下のようなものであった。「愚見に依レハ現時日本政府ノ取ル政略ハ即チ、露国ト戦争ヲ為シタル際日本ニ同情ヲ寄セ軍費ヲ供給シタル国々ヲ全ク疎隔スル日本ノ自殺的政略ト評スルノ外ナシ」(『日本外交文書』39-1)[32]
  7. ^ 若槻と山座は酒豪としても知られていた[33]
  8. ^ 残りは、東洋拓殖会社や韓国政府への貸付などに投資された[39]
  9. ^ 鈴木良は、この状況を称して「借金帝国主義」と呼んでいる[39]
  10. ^ 河本らの計画は満蒙併合論や独立国家論の類ではなく、現地親日政権を操縦して権益を守ろうとする従来の発想にすぎなかった[53]。また、張学良は奉天督軍顧問の土肥原賢二などからは「親日の権化」とみられていた[54]
  11. ^ 最後の元老西園寺公望は、真相を究明し、犯人を厳しく処罰すべきであるという考えに立っていたものの、牧野伸顕や鈴木貫太郎とは異なり、昭和天皇による問責は、過度に政治的な行為であり、立憲君主主義のあり方から大きく逸脱するもので将来に禍根を残すとしてこれに反対した[56]
  12. ^ この間、満洲領有はおろか、独立国家の樹立も絶望的となった石原は急遽、満洲を国際連盟の委任統治下に置くべきだと主張し始め、関東軍内部でも顰蹙を買った[71]。これを機に、関東軍の主導権は板垣征四郎に移り、彼は満洲に門戸開放7・機会均等原則を適用して、アメリカ合衆国を範とする独立国家を建設すれば、アメリカとの協調も十分に可能であるとの論を展開していた[71]

出典編集

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参考文献編集

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  • 臼井勝美『満州事変』中央公論社〈中公新書〉、1974年11月。ISBN 4-12-100377-2
  • 片山慶隆『小村寿太郎』中央公論新社〈中公新書〉、2011年11月。ISBN 978-4-12-102141-0
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  • 北岡伸一『日本の近代5 政党から軍部へ』中央公論新社、1999年8月。ISBN 978-4-12-490105-4
  • 久保田博『日本の鉄道史セミナー』グランプリ出版、2005年5月18日、初版。ISBN 978-4876872718
  • 小林英夫『〈満洲〉の歴史』講談社〈講談社現代新書〉、2008年11月。ISBN 978-4-06-287966-8
  • 小林道彦『近代日本と軍部 1868-1945』講談社〈講談社現代新書〉、2020年2月。ISBN 978-4-06-518744-9
  • 佐々木隆『日本の歴史21 明治人の力量』講談社〈講談社学術文庫〉、2010年3月(原著2002年)。ISBN 978-4-06-291921-0
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  • 高山拡志「満鉄全線全駅一覧」『満鉄四十年史』財団法人 満鉄会(編)、吉川弘文館、2007年11月6日。ISBN 4642037810
  • 中村隆英『昭和史 (上)』東洋経済新報社、2012年7月(原著1992年)。ISBN 978-4492061855
  • 西澤泰彦『図説 満鉄―「満洲」の巨人』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2000年8月。ISBN 978-4-309-72645-8
  • 原田勝正「満鉄誕生 -抄-」『史話日本の歴史32 大東亜の幻』作品社、1991年4月。
  • 日向玲理「植民地経営の開始―統治形態の模索と立憲主義」『明治史講義【テーマ篇】』小林和幸(編)、筑摩書房ちくま新書〉、2018年3月。ISBN 978-4-480-07131-6
  • 平塚柾緒『図説 写真で見る満州全史』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2010年11月。ISBN 978-4-309-76152-7
  • 古屋哲夫『日露戦争』中央公論社〈中公新書〉、1966年8月。ISBN 4-12-100110-9
  • 堀井弘一郎『「満州」から集団連行された鉄道技術者たち』創土社、2015年1月。ISBN 978-4-7988-0220-6
  • 森武麿『日本の歴史20 アジア・太平洋戦争』集英社、1993年1月。ISBN 4-08-195020-2
  • 森山康平『写説 満州』ビジネス社、2005年10月。ISBN 4-8284-1221-2
  • 横手慎二『日露戦争史』中央公論新社〈中公新書〉、2005年4月。ISBN 4-12-101792-7
  • 和田春樹「第7章 近代ロシアの国家と社会」『世界歴史大系 ロシア史2 (18世紀―19世紀)』田中陽児倉持俊一・和田春樹(編)、山川出版社、1994年10月。ISBN 4-06-207533-4

関連文献編集

関連項目編集

外部リンク編集

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