南西アフリカ (南アフリカ委任統治領)
かつてアフリカ大陸南部に位置した植民地および委任統治領
- 南西アフリカ
- Suidwes-Afrika (アフリカーンス語)
Zuidwest-Afrika (オランダ語)
Südwestafrika (ドイツ語) -
← 1915年 - 1990年 →
(国旗(1928年 - 1990年)) (国章(1963年 - 1980年)) - 国の標語: Viribus Unitis(ラテン語)
南西アフリカの位置-
公用語 英語
アフリカーンス語
オランダ語(1915年 - 1983年)
ドイツ語(1984年 - 1990年)言語 ナマ語
ヘレロ語
ロジ語首都 ウィントフック 通貨 南西アフリカポンド(1920年 - 1961年)
南アフリカランド(1961年 - 1990年)現在 ナミビア
南西アフリカ(なんせいアフリカ、英語: South West Africa、アフリカーンス語: Suidwes-Afrika、オランダ語: Zuidwest-Afrika、ドイツ語: Südwestafrika)は、20世紀の大半の時期において、南アフリカ連邦による統治がされていたアフリカ大陸南西部の地域名である。概ね現在のナミビアに相当する地域である。
前史としてのドイツの植民地編集
詳細は「ドイツ領南西アフリカ」を参照
1884年からドイツの植民地となっていたこの地は、ドイツ領南西アフリカ (Deutsch-Südwestafrika) として知られていた。この地域は、特にゲリラのリーダであるヤコブ・モレンガ(英語: Jacob Morenga)が主導した、数々の暴動を経験しており、ドイツは統治に難儀した。主要港・ウォルビスベイ・ペンギン諸島は、ドイツ統治前の1878年、既にイギリスに併合され、ケープ植民地の一部となっていた[2]。1910年に南アフリカ連邦が成立すると、ウォルビスベイはケープ州の一部となった[3] 。1890年にイギリス・ドイツ間で締結された、ヘルゴランド=ザンジバル条約で、ベチュアナランド国境からザンベジ川までの回廊が、ドイツの植民地に加わった。この回廊はドイツの首相であるレオ・フォン・カプリヴィにちなみ、カプリヴィ回廊 (Caprivizipfel) と名付けられた[4]。
南アフリカによる統治編集
第一次世界大戦において、南アフリカ連邦軍が占領し、戦後に国際連盟委任統治領として、南アフリカが統治した。第二次世界大戦後は、国際連合の信託統治領となるも、南アフリカはそれを拒否し、統治を継続した。結局、当地は1990年にナミビア共和国として独立した。
脚注編集
- ^ フルウールトは、共和制移行後も1966年に殺害されるまで首相を務めた。
- ^ Succession of States and Namibian territories, Y. Makonnen in Recueil Des Cours, 1986: Collected Courses of the Hague Academy of International Law, Academie de Droit International de la Haye, Martinus Nijhoff Publishers, 1987, page 213
- ^ Debates of Parliament, Hansard, Volume 9, Issues 19-21, Government Printer, 1993, page 10179
- ^ Caprivi Strip | Namibia. Namibian.org. Retrieved on 2012-12-18.