南部信恩
南部 信恩(なんぶ のぶおき)は、江戸時代中期の大名。陸奥国盛岡藩5代藩主。官位は従五位下・備後守。
![]() 南部信恩 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 延宝6年9月22日(1678年11月6日) |
死没 | 宝永4年12月8日(1707年12月31日) |
改名 | 久信、信恩 |
官位 | 従五位下・備後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 陸奥盛岡藩主 |
氏族 | 南部氏 |
父母 | 南部行信、岩井与市郎娘・慈恩院 |
兄弟 |
実信、信恩、利幹、青山幸督正室、 牧野英成正室、南部直政正室、艶姫、幕子ら |
妻 |
毛利綱元娘・真寿院 黒沢氏娘・浄智院 |
子 |
利視、永井直期正室ら 利幹 |
経歴編集
延宝6年(1678年)9月22日、4代藩主・南部行信の三男として江戸麻生屋敷にて誕生した。元禄14年(1701年)5月1日、行信の嫡子になった。前年に兄・実信が亡くなったためである。同年5月15日、5代将軍・徳川綱吉に御目見する。同年7月25日、毛利綱元の娘と結婚する。同年12月18日、従五位下・備後守に叙任する。元禄15年(1702年)11月27日、行信が死去したため家督を継ぐ。
元禄16年(1703年)4月15日、初めてお国入りするための暇を得る。同年、儒教に傾斜した父により重用され、藩主廃立にまで介入する儒臣を先代の遺命として断罪し、儒学傾斜策の弊害を改める。しかし、同年内に領内に凶作、江戸で元禄地震が起こる。大地震により江戸藩邸が全て全壊し、藩財政に打撃が与えられた。
信恩は宝永4年(1707年)12月8日に30歳で死去した。異母弟の利幹が養子となり家督相続した。信恩死後に実子の利視が生まれ、利幹の養嗣子となった。