南部 利敬(なんぶ としたか)は、江戸時代中期から後期にかけての大名陸奥国盛岡藩の第10代藩主官位従四位下侍従

 
南部利敬
南部利敬
時代 江戸時代後期
生誕 天明2年9月29日1782年11月4日
死没 文政3年6月3日1820年7月12日
改名 信敬[1]、利敬
別名 通称:慶次郎
官位 従五位下大膳大夫従四位下侍従、贈従三位
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
陸奥盛岡藩
氏族 南部氏
父母 南部利正:田中氏娘・於懇の方[2]
兄弟 松平輝延継室、親姫、利敬、富姫ら
正室浅野重晟の娘・光樹院
養子利用(吉次郎善太郎雅子
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経歴

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天明2年9月29日1782年11月4日)、第9代藩主・南部利正の次男として誕生した。

天明4年(1784年)7月17日、父の死去により家督を相続した。当時わずか2歳であり、改易や減俸を恐れたためか、幕府には安永8年(1779年)生まれとして公年を届け出ている。寛政7年(1795年)2月15日、11代将軍徳川家斉御目見する。同年4月13日、初めてお国入りするために暇を請い許される。藩政初期は大いに荒れており、先々代の飢饉の影響と、この時期に起きた天明の大飢饉によって領内で多数の死者が出ていた。

寛政8年(1796年)12月19日、従五位下・大膳大夫に叙任する。文化元年12月18日(1805年)、従四位下に昇進する。文化5年12月18日(1809年)、侍従に任官する。また、蝦夷警護の功績により盛岡藩は10万石から20万石(実高はそれ以上である)に昇格した。なお、同年に司法機関にあたる評定所を設置し、法典の『文化律』を制定する。文化14年(1817年)には南部藩を盛岡藩に改称する。

文政元年(1818年)に重臣の八戸弥六郎中野筑後北九兵衛南彦八郎東勘解由に南部姓を称するのを許可し[3]、同2年(1819年)には一族で旗本寄合席南部信鄰に内分高を与えて(内分分知)大名にし、七戸藩として立藩させる。

利敬は親政後は、重臣よりも大小役人を多く登用したため、門閥重臣層が不満を持つようになる。文政3年(1820年)に死去した。嗣子がなかったため、文化10年(1813年)に養嗣子にしていた利用南部信丞の長男)が跡を継ぐと、門閥重臣層の巻き返しが行われた。

系譜

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主要家臣

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文化14年の江戸武鑑で見られる主要家臣は以下のとおり。

【世襲家老
八戸弥六郎中野筑後北監物
【その他の家老他】
東勘解由新渡戸丹波毛馬内蔵人八戸淡路藤枝宮内楢山大和南彦八郎桜庭兵庫下田将監奥瀬内記毛馬内近江野田豊後
用人
切田辺勝木藤蔵黒川司佐藤靱負白石環玉山直人安宅登長山蔵太
城使
加島舎定府)、加島七五郎(定府)
【添役】
梅内忠次郎

脚注

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  1. ^ なお、が信敬だった頃に松平輝延井伊直中との縁談が成立した姉2人は「南部大膳大夫信敬の姉」と表記される。
  2. ^ 「岩手県史 第五巻」
  3. ^ ただし、東家は後に南部姓を剥奪される。東勘解由は幕末の東政図(中務)の父。詳細は東氏参照。

参考文献

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