原 種良(はら たねよし)は戦国時代から江戸時代の武将、福岡藩士。黒田二十四騎の一人[1]。通称は弥左衛門(やざえもん)、左近太夫孫三郎伊予守。号は樹中庵。子に種盛、与六がいる。

 
原種良
原伊豫種良(福岡市博物館蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 弘治3年(1557年
死没 寛永16年10月26日1639年11月21日
改名 宝珠山種良→原種良
別名 通称:弥左衛門(やざえもん)、左近太夫、孫三郎、伊予守
号:樹中庵
墓所 順心寺福岡市博多区
主君 黒田孝高長政忠之
筑前国福岡藩
氏族 宝珠山氏→原氏
父母 父:宝珠山隆信
種盛、与六
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筑前国原田氏の一族で、豊前国宝珠山氏の一族と伝えられている[2]。父は大友宗麟の家臣・宝珠山隆信。

天正14年(1586年)、豊臣秀吉九州平定の際、黒田孝高に人質として出され、案内役となる。翌天正15年(1587年)、黒田家の家臣となった。その際、姓の読みが長いとして原姓に改める。同年の城井谷攻めでは、神楽山城の防衛や雁股ヶ岳城の攻撃に当たった。その後文禄・慶長の役に従軍。関ヶ原の戦いでは安岐城の戦いで功を上げ、200石の加増を約束された[3]

慶長7年(1602年)、筑前国鞍手郡で2,000石を拝領。慶長14年(1609年)、福岡城代となる。慶長16年(1611年)、領地を夜須郡下座郡に移される。慶長20年(1615年)1月より大坂城外堀の埋め立てに参加。元和6年(1620年)、黒田長政野村祐直野口一吉と共に遠賀郡堀川の開削工事を命じられ、翌年より工事に当たるが、長政の死去により中止となる。

寛永10年(1633年)の黒田騒動後、栗山利章に代わって左右良城(麻底良城)の押さえを任され、伊予守を称した。寛永16年(1639年)に隠居し、孫の種常に家督を譲り、樹中庵と号する。同年10月26日、83歳で死去。墓所は福岡市博多区の順心寺[3]

里村昌琢に師事して連歌をたしなみ、寡黙で実直な人物であった[4]

脚注 編集

  1. ^ 黒田二十四騎展4 官兵衛を支えた男たち - 福岡市博物館”. 2014年7月7日閲覧。
  2. ^ 黒田二十四騎”. 播磨の黒田武士顕彰会. 2014年8月5日閲覧。[リンク切れ]
  3. ^ a b 黒田二十四騎ガイド”. kuroda24.com. 2014年7月13日閲覧。[リンク切れ]
  4. ^ 第24話「原弥左衛門種良&竹森新右衛門次貞」”. RKB毎日放送. 2014年7月13日閲覧。[リンク切れ]

参考文献 編集