司空 圖(しくう と、837年 - 908年)は、中国官僚詩人文学評論家詩論家)であり、表聖河中府(現・山西省)出身。司空図とも表記される[1]

咸通10年の進士。その後は官位に就かず、王凝幕僚になった。878年に光禄寺主簿となり、盧携と知り合った。盧携の朝廷入りと共に司空図も礼部員外郎郎中を務めた。僖宗時代に黄巣の乱を避けるため、しばらく僖宗と共に鳳翔に逃げた後に離散となり、故郷の中条山に隠居した。昭宗の要請で再び官位に就いたが、すぐにやめた。朱温後梁を立ち、哀帝を刺殺した消息を聞くと、絶食餓死した。

朝鮮氏族孝令司空氏の始祖でもある。朝鮮の伝説では黄巣の乱新羅に一時避難したが、乱が平定されると中国に帰国した。新羅に残った家族の子孫が司空氏の系統を受け継いだ。

著作 編集

  • 司空表聖文集『一鳴集』10巻
  • 二十四詩品
  • 司空表聖詩集(後世編纂)

参考文献 編集

脚注 編集

  1. ^ 司空図』 - コトバンク