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司馬 消難(しば しょうなん、生没年不詳)は、中国南北朝時代政治家軍人は道融。本貫河内郡温県

経歴編集

司馬子如の子として生まれた。北斉に仕えて著作郎を初任とした。父の子如が北斉の朝廷で高位に上ると、消難も賓客を好んで、邢卲王元景魏収・陸卬・崔贍らと交遊した。中書・黄門郎を歴任した。高歓の庶出娘を妻に迎えて、駙馬都尉・光禄卿に任ぜられ、北豫州刺史として出向し、虎牢に駐屯した。州における汚職のため御史に弾劾された。また妻の公主との仲は険悪だった。

558年4月、消難は上党王高渙とのつながりを文宣帝に疑われ、北周に亡命した。晋公宇文護達奚武楊忠を派遣して消難を迎え、消難は達奚武とともに入朝した。大将軍に任ぜられ、滎陽郡公に封ぜられた。大司寇に累進した。武帝に従って北斉を討ち、梁州総管に任ぜられた。579年、大後丞に転じた。娘の司馬令姫を後宮に入れて静帝の皇后に立てさせた。まもなく鄖州総管として出向した。

580年楊堅が北周の丞相となると、消難は尉遅迥の乱に呼応して挙兵した。開府の田広らを腹心とし、総管長史の侯莫陳杲や鄖州刺史の蔡沢ら40人あまりを殺した。所管する鄖・随・温・応・土・順・沔・環・岳の9州と魯山・甑山・沌陽・応城・平靖・武陽・上明・溳水の8鎮は乱に従った。子の司馬泳を人質としてに送り救援を求めた。楊堅は襄州総管の王誼を元帥として消難を討たせた。8月、消難は王誼の軍がやってきたと知ると、夜のうちにその麾下を率いて、陳に亡命した。陳の宣帝は消難を都督鄖随九州八鎮・車騎将軍司空に任じ、随国公に封じた。

589年軍が陳を攻撃すると、消難は湘州刺史の施文慶とともに陳の大監軍となった。建康が陥落すると、隋軍に捕らえられて長安に連行された。特別に死罪を許されて、楽戸に配属された。20日してそれも許され、旧恩により文帝の引見を受けた。まもなく家で死去した。

子女編集

伝記資料編集

  • 北斉書』巻十八 列伝第十
  • 周書』巻二十一 列伝第十三
  • 北史』巻五十四 列伝第四十二