司馬消難
司馬 消難(しば しょうなん、生没年不詳)は、中国の南北朝時代の政治家・軍人。字は道融[1][2]。本貫は河内郡温県[3][4][5]。
経歴
編集司馬子如の子として生まれた。北斉に仕えて著作郎を初任とした。父の司馬子如が北斉の朝廷で高位に上ると、消難も賓客を好んで、邢卲・王元景・魏収・陸卬・崔贍らと交遊した。中書・黄門郎を歴任した。駙馬都尉・光禄卿に任ぜられ、北豫州刺史として出向し、虎牢に駐屯した。州における汚職のため御史に弾劾された。また妻の公主との仲は険悪だった[6][7][2]。
天保9年(558年)4月[8][9][10][11]、消難は上党王高渙とのつながりを文宣帝に疑われ、北周に亡命した。晋公宇文護が達奚武と楊忠を派遣して消難を迎え、達奚武とともに入朝した。大将軍に任ぜられ、滎陽郡公に封ぜられた[1][12]。天和6年(571年)4月、柱国となった[13][14]。建徳2年(573年)5月、大司寇に進んだ[15][16]。建徳4年(575年)7月、前二軍総管となり、武帝に従って北斉を討った[17][18]。閏月、梁州総管に任ぜられた[19]。大象元年(579年)7月、大後丞に転じた。娘の司馬令姫を後宮に入れて静帝の正陽宮皇后に立てさせた[20][21]。まもなく鄖州総管として出向した[1][12]。
大象2年(580年)、楊堅が北周の丞相となると、消難は尉遅迥の乱に呼応して挙兵した。開府の田広らを腹心とし、総管長史の侯莫陳杲や鄖州刺史の蔡沢ら40人あまりを殺した。所管する鄖・随・温・応・土・順・沔・環・岳の9州と魯山・甑山・沌陽・応城・平靖・武陽・上明・溳水の8鎮は乱に従った。子の司馬泳を人質として南朝陳に送り救援を求めた。楊堅は襄州総管の王誼を元帥として消難を討たせた。8月、消難は王誼の軍がやってきたと知ると、夜のうちにその麾下を率いて、陳に亡命した[1][12]。陳の宣帝は消難を都督鄖随九州八鎮・車騎将軍・司空に任じ、随国公に封じた[22][12][23][24]。まもなく陳の大都督水陸諸軍事となった[23][24]。陳軍を率いて北周の江州を攻撃し、北周の江州刺史成休寧に撃退された[25]。
禎明3年(589年)、隋が陳を攻撃すると、湘州刺史の施文慶とともに陳の大監軍となった[26]。建康が陥落すると、隋軍に捕らえられて長安に連行された。特別に死罪を許されて、楽戸に配属された。20日してそれも許され、旧恩により文帝の引見を受けた。まもなく家で死去した[27][12]。
子女
編集脚注
編集- ^ a b c d 周書 1971, p. 354.
- ^ a b 北史 1974, p. 1948.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 239.
- ^ 北斉書 1972, p. 238.
- ^ 北史 1974, p. 1947.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 243.
- ^ 北斉書 1972, p. 240.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 95.
- ^ 北斉書 1972, p. 65.
- ^ 周書 1971, p. 54.
- ^ 北史 1974, p. 255.
- ^ a b c d e f 北史 1974, p. 1949.
- ^ 周書 1971, p. 78.
- ^ 北史 1974, p. 356.
- ^ 周書 1971, p. 82.
- ^ 北史 1974, p. 358.
- ^ 周書 1971, pp. 92–93.
- ^ 北史 1974, p. 362.
- ^ 周書 1971, pp. 93–94.
- ^ 周書 1971, p. 120.
- ^ 北史 1974, p. 376.
- ^ 周書 1971, pp. 354–355.
- ^ a b 陳書 1972, p. 97.
- ^ a b 南史 1975, p. 299.
- ^ 隋書 1973, p. 6.
- ^ 南史 1975, p. 308.
- ^ 周書 1971, p. 355.
伝記資料
編集参考文献
編集- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『周書』中華書局、1971年。ISBN 7-101-00315-X。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
- 『隋書』中華書局、1973年。ISBN 7-101-00316-8。
- 『陳書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00312-5。
- 『南史』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00317-6。