司馬 駿(しば しゅん、233年 - 286年)は、西晋皇族子臧司馬懿の第6子。生母は伏貴妃司馬師司馬昭の異母弟。司馬亮司馬伷司馬京の同母弟。司馬榦司馬肜司馬倫の異母兄。子は司馬暢司馬歆ら10人。

要職を歴任し、幾度も西方の異民族の反乱鎮圧で大功を立てた。

生涯編集

景初3年(239年)に斉王曹芳が皇帝に即位すると、幼年でありながら散騎常侍侍講となり、ほどなく歩兵校尉や屯騎校尉になったが、散騎常侍の官位はもとのままだった。

平陽郷侯に進爵し、地方に出て仮節・都督淮北諸軍事・平南将軍になり、平寿侯に改封されて安南将軍に異動した。

咸熙元年(264年)、東牟侯にうつり、安東大将軍に昇進し、許昌を鎮守した。

泰始元年(265年)12月、汝陰王に進封し、食邑は一万戸で、都督豫州諸軍事となった。

泰始4年(268年)11月、の武将の丁奉らが芍陂に進軍した。安東将軍・汝陰王司馬駿と太尉・義陽王司馬望がこれを攻撃、敗走させた。使持節・都督揚州諸軍事にうつり、石苞に代わって寿春を守った。すぐに都督豫州諸軍事に戻って、許昌に帰還した。

泰始6年(270年)7月、使持節・鎮西大将軍・都督雍涼等州諸軍事に昇進して、禿髪樹機能の反乱鎮圧に失敗し職を解かれた兄の汝南王司馬亮に代わって関中を鎮守し[1]、袞冕侍中の服を加えられた。部下と諸葛亮の人物論を交わしたという[1]

司馬駿は民衆を心服させるのが上手で、威服と恩恵があり、農業を押し進め、士卒と苦役を分け合い、自分や同僚並びに将帥兵士にいたるまで私有地を十畝に限定し、詳細を上表した。詔がすべての州県に遣わされ、各自が農作業をおこなうことになった。

泰始10年(274年)8月、涼州の蛮族が金城郡に侵攻した。鎮西大将軍・汝陰王司馬駿がこれを討伐し、その首領の金文泥らを斬首した。

咸寧元年(275年)5月、禿髪樹機能らが挙兵し、鎮西大将軍・汝陰王司馬駿が北胡を討伐し、三千あまりの首級を挙げその首領の吐敦を斬首した。

10月、汝陰王司馬駿を征西大将軍とし、府を開いて招聘することが許され、儀同三司となり、使持節・都督雍涼等州諸軍事はもとのままとされた。

さらに司馬駿に詔が下され、七千人が派遣されて涼州の守備兵と交代になった。禿髪樹機能や侯弾勃たちは先に屯田兵を攻撃しようと企てたが、司馬駿は平虜護軍文鴦に命じて涼州・秦州雍州の諸軍を率いて各の駐屯地に進軍させて、慰撫させた。

咸寧3年(277年)、禿髪樹機能は配下の二十部を遣わし、侯弾勃は後ろ手を縛って投降し、両者は子を人質として差し出した。安定郡北地郡・金城郡の諸胡の吉軻羅・侯金多や北虜の熱冏などは二十万の民衆を連れて帰順した。

この年入朝し、8月、扶風王に移封され、さらに国境周辺に住む氐族の戸数を増封され、羽葆・鼓吹を賜った。

太康元年(280年)、驃騎将軍に昇進し、開府・使持節・都督雍涼等州諸軍事はもとのままとされた。

司馬駿は親孝行で、母の伏太妃が兄の司馬亮の赴任に従ったとき、司馬駿はいつも涙を流して母を思慕し、もし病気だと聞くと、心配のあまり絶食し、あるときは官に職務を委ねて母のもとを訪ねた。幼い頃から学を好み、著作をよくし、荀顗と仁と孝の前後に関して論じ、文章も評判が高かった。

太康3年(282年)、武帝が皇弟である斉王司馬攸を封国に追い出そうとした際には武帝を諌めたが聞き入れられず、そのため発病したという。

太康7年(286年)9月戊寅、54歳で死去し、仮黄鉞・大司馬侍中を追贈された。

西方地域は司馬駿が薨じたと聞くと、泣く者は道に溢れ、民衆は司馬駿のために碑を建てた。長老は碑を見ると拝礼しないことはなかった。司馬駿が死後に遺した仁徳はこのようなものであったのだ。十人の子がいて、中でも順陽王司馬暢・新野王司馬歆が最も有名だった。

学問を好み封国で善政を敷いたので、死後に彼を悼んで各地で碑が建てられた。

彼の子孫は永嘉の乱で殺されるか行方不明になっている。

脚注編集

  1. ^ a b 中国の思想刊行委員会編 『三国志全人名事典』 徳間書店、1994年11月、136頁。