合田 求吾(ごうだ きゅうご、享保8年11月14日1723年12月11日) - 安永2年4月12日1773年6月1日))は、江戸時代中期の医学者。

来歴 編集

讃岐国豊田郡和田浜生まれ(現香川県観音寺市)。父は合田伝右衛門吉盤。弟は合田大介(蘭斉)。名は強、字は千之、通称求吾、温恭、号は巨鼈、鼈山。幼少の時、合田又玄高橋柳哲について医を修め、宝暦2年(1752年)2月京にて松原一閑斎に医と儒を学んだ。宝暦6年(1756年)江戸にて望月三英につき、山脇東洋による『外台秘要方』の開板の校正に携わった。その後、長崎にて吉雄耕牛吉雄蘆風に学んだ後、宝暦12年(1762年)1月長崎より讃岐へ帰る途中の南肥後で永富独嘯庵亀井南冥に出会い、二人に長崎に遊学を勧める。著書に、西洋式解剖書・西洋式内科書をまとめた『紅毛医言』や、『復田求吾書』、『医道聞書』などがある。墓は香川県観音寺市豊浜町和田浜。

弟子に尾藤二洲がいる。

注釈・出典 編集

関連項目 編集