吉備品遅部雄鯽(きび の ほむちべ の おふな)は、古墳時代豪族仁徳天皇舎人(とねり)であろうと想定される。

経歴 編集

「品遅部」(ほむちべ)とは、『古事記』の本牟智和気王(ほむちわけ の おおきみ)の挿話で、皇子がしゃべれるようになった際に設置された品部名代)である[1]。『日本書紀』には「誉津部」(ほむつべ)とあり、なぜここで『古事記』の方の表記が用いられたのかは不明である。誉津部は大和国山背国伊勢国越前国越中国但馬国出雲国播磨国備後国周防国阿波国に分布し、因幡国安芸国にも地名よりその存在が想像される。この部の伴造のは中央では「君」、地方では「君・公・首」などであったという[2]

仁徳天皇40年、天皇が妃の候補とした雌鳥皇女(めとりのひめみこ)が隼別皇子(はやぶさわけのみこ)と逃亡したとき、天皇の命で佐伯阿俄能胡(さえきのあがのこ)とともに二人を追跡し、伊勢(いせ)の蒋代野(こもしろの)で追いついて殺し、廬杵河(いおきがわ)のほとりに埋めたという。

その際に、皇后八田皇女から、「皇女の齎(も)たる足玉手玉をな取りそ」と命じられていた。しかし、雄鯽らは皇女の玉を探って、の中から玉を手に入れた。八田皇后から、皇女の玉を見たのかと尋ねられても「見ず」と偽証して答えた、という。

のちに玉は近江山君稚守山の妻と、采女磐坂媛が身につけた状態で発見された。新嘗祭のあった11月に豊明節会があり、五位以上のものだけが参加できる酒宴の席での出来事であった。二人は、玉は佐伯阿俄能胡の妻のものだと証言した[3]

察するに、雄鯽が死者の所持品を我が物にすることを厭い、阿俄能胡に献上し、それを近江山君稚守山の妻と采女磐坂媛が借りて、公式の場に出てきたのである。

以後、佐伯阿俄能胡は罰せられたが、彼が罪に服したという記述は『日本書紀』には掲載されていない。『古事記』では、彼と阿俄能胡の役割を、「山部大楯連」(やまべ の おおたて の むらじ)が行っている。

脚注 編集

  1. ^ 『古事記』中巻、垂仁天皇条より
  2. ^ 『日本書紀』(二)補注p349、岩波文庫、1994年
  3. ^ 『日本書紀』仁徳天皇40年2月条

参考文献 編集

関連項目 編集