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吉備 泉(きび の いずみ)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿右大臣吉備真備の子。官位正四位上参議

 
吉備泉
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 天平15年(743年
死没 弘仁5年閏7月8日814年8月26日
官位 正四位上参議
主君 称徳天皇光仁天皇桓武天皇平城天皇嵯峨天皇
氏族 吉備氏
父母 父:吉備真備
兄弟 由利、与智麻呂、書足、稲万呂、
真勝
全継、当継、吉足
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経歴編集

近衛将監を経て、天平神護2年(766年)に従五位下叙爵し、翌天平神護3年(767年大学員外助を兼ねる。同年従五位上、神護景雲3年(769年正五位下左衛士督、神護景雲4年(770年)7月には従四位下に叙任されるなど、称徳天皇の信頼が篤かった右大臣・吉備真備の子息として称徳朝では順調に昇進を重ねた。

神護景雲4年(770年)8月に称徳天皇が崩御して間もなく大学頭に転じるが、光仁朝では叙位に与ることはなく、称徳朝から一転して昇進は停滞する。天応元年12月(782年1月)の光仁天皇崩御に際して山作司を務めた。

桓武朝に入ると、天応2年(782年)に伊予守として地方官に転じる。しかし、下僚と協調できずにしばしば告訴されたため、延暦3年(784年朝廷から詔使が派遣され訊問を受ける。泉は詔使に対してに不敬な対応をした上で、承伏しなかったことからに、官司が法に則って処罰を求める騒ぎとなった。遂には桓武天皇のにより、功臣(吉備真備)の子であることをもって罪は許されるものの、伊予守の官職は解任される。その後さらに譴責を受けて、延暦4年(785年)には佐渡権守に左遷された。延暦14年(795年)には父祖の出身地である備中国に移されるが、桓武朝末の延暦24年(805年)に赦免されて帰京するまで、桓武朝では不遇を託った。延暦25年(806年)桓武天皇崩御の際に山作司を務める。

大同元年(806年)に平城天皇が即位し、観察使が設置されると、南海道観察使に任ぜられ、さらに准参議右大弁に抜擢されて公卿に列す。大同3年(808年)に38年ぶりの昇叙で従四位上となると、同年11月には正四位下に続けて昇叙されるなど、平城朝では順調に昇進する傍ら、左右大弁・右京大夫刑部卿などを歴任した。

嵯峨朝に入り、大同5年(810年)観察使制度の廃止により参議となるが、同年9月に発生した薬子の変の最中に左大弁を解任されている。嵯峨朝では刑部卿・左衛門督などを兼帯し、この間の弘仁4年(813年)正四位上に叙せられている。

弘仁5年(814年)閏7月8日卒去。享年72。最終官位は散位正四位上。

人物編集

学者の家の子として幼い頃より学才があると評判があった。性格はかたくなで短気であり、物事に逆らうことが多かった。大同年間に賢臣の子であることをもって観察使に任ぜられるが、政務を行うにあたり原則を踏まえず処置するなど、強情で心がねじけている様子は、老いても変わることがなかったという[1]

官歴編集

六国史』による。

系譜編集

脚注編集

  1. ^ 『日本後紀』弘仁5年閏7月8日条
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 公卿補任
  3. ^ a b c 鈴木真年『諸系譜』第13冊,吉備氏

参考文献編集

  • 宇治谷孟『続日本紀 (中)』講談社講談社学術文庫〉、1992年
  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社〈講談社学術文庫〉、1995年
  • 森田悌『日本後紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
  • 森田悌『日本後紀 (中)』講談社〈講談社学術文庫〉、2006年
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年