吉岡 幸雄(よしおか さちお、1946年4月2日 - 2019年9月30日)は日本の染織史家・染色家。染司よしおか五代目当主。美術図書出版「紫紅社」代表。

よしおか さちお

吉岡 幸雄
生誕 (1946-04-02) 1946年4月2日
日本の旗 日本 京都府京都市
死没 (2019-09-30) 2019年9月30日(73歳没)
日本の旗 日本 愛知県春日井市
出身校 早稲田大学第一文学部卒
職業 染織史家
配偶者 吉岡美津子
子供 吉岡更紗
1977年6月30日〜 大谷大学文学部卒
吉岡常雄(父)染司よしおか4代目
吉岡俊子(母)
親戚 吉岡堅ニ(伯父)
吉岡華堂(祖父)
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父、常雄や上村六郎山崎青樹前田雨城の残した研究をもとに、染め師、福田伝士と共に古代の染色技術の復元を行っており、薬師寺東大寺などの文化財の復元などに携わる傍ら、執筆業、講演などの活動も盛んに行った。

経歴 編集

  • 1946年 - 京都市に生まれる。
  • 1971年 - 早稲田大学第一文学部卒業。
  • 1971年 - 光村推古書院にアルバイトとして勤務。 父、常雄の口利きによる。
  • 1973年 - 美術図書出版「紫紅社」設立。 
  • 1988年 - 生家「染司よしおか」の五代目当主を継ぐ。
  • 1991年 - きもの文化賞受賞
  • 1993年 - 奈良薬師寺・東大寺の伎楽装束を制作。
  • 2001年 - 獅子狩文錦の復元制作に参加。
  • 2002年 - 鹿草木夾纈屏風の復元制作に参加。
  • 2008年度グッドデザイン賞受賞(インディペンデントディレクターとして参画) - 成田国際空港 第2旅客ターミナルビル サテライト2F 到着コンコース(アート散歩道)
  • 2010年 - 第58回菊池寛賞受賞
  • 2012年 -第63回日本放送協会放送文化賞受賞
  • 2016年 - 英国ヴィクトリア&アルバート博物館からの依頼で制作した永久保存用「植物染めのシルク」が同博物館に収蔵される。
  • 2019年9月30日 - 死去[1]。73歳没。

主な著作 編集

  • 『日本の色辞典』紫紅社
  • 『自然の色を染める』紫紅社
  • 『色の歴史手帖』PHP研究所
  • 『染と織の歴史手帖』PHP研究所
  • 『京都色彩紀行』PHP研究所
  • 『和みの百色』PHP研究所
  • 『日本の色を染める』岩波新書
  • 『日本の色を歩く』平凡社新書
  • 『日本人の愛した色』 新潮選書
  • 『失われた色を求めて』岩波書店・遺著

エピソード  編集

若年期
小学生1年生から2年間、結核を患い、1日も学校へ登校しなかった。快復した後は病気を感じさせないほどエネルギッシュな言動であった。 他の家庭と違い、たまに父が連れて行ってくれる所は美術館や博物館ばかりで、遊園地に連れて行ってくれなかった。大きくなるまで家族で毎夏、福井県に海水浴に出かけていた。高校生の頃から京都や奈良の寺社巡りや散策を始めた。高校生の頃、フランス映画「シェルブルーの雨傘」を観に行くなど同年代の高校生よりも少し大人びた高校生だった、とは本人の談である。 二浪し、早稲田大学へ進学した。早稲田大学の合格を父に伝えると、二浪もして国公立の大学ではなく、私立の大学へ行くのなら行かなくていい、と激昂され、母の取りなしで入学できた。大学で第二外国語はフランス語と決めていたが人数制限により、ドイツ語の選択を教授から指示された事は後年になっても悔やしい出来事だと語っている。学園闘争が激化した事もあり在学中、ほぼ大学へ通学しなかった。1年の頃は杉並区に住み、その後、映画「若大将シリーズ」を観た影響もあり、湘南に憧れて湘南に移り住んだ。 若大将シリーズに出演の女優、星由里子は明るくてとても綺麗だったと後年、褒めていた。 大学2年時に、親から突然話しがあるからと帰郷してこいと言われ、実家に戻ると、弟が染め屋の仕事を継ぐが異論はないかの確認を受けた。もとより辛気臭い家業を継ぐ意志などなく、快諾した。家業を継ぎたくない事もあり、京都から遠い東京の大学、文学部へ進学したぐらいである。 父が染色研究の為、海外を訪れた先で借入したお金を返却しに、新橋にあったNHKなどつかいに行かされていた。就職活動でNHKや出版社を受けたがことごとく落ちてどこも入社できなかった。この時代、後にNHKの女性アナウンサーとなる山根基世とも知り合い、ずっと懇意にしていた。団塊世代の為、大学受験の競争率が60倍、就職も然りだったと弁明している。 京都へ戻り、父の口利きで京都市内にある「光村推古書院」にアルバイトとして入社、約2年間勤務した。 会社生活が肌に合わず、自分はサラリーマン生活に向いていない、誰とでも上手く立ち回れない、と自己嫌悪気味に呟いていた。美術図書専門の出版社「紫紅社」を創業した。開業当初、伯父の吉岡堅ニが出版だけでは食べていけないだろうと、知り合いを紹介してくれ、仕事をもらっていた。 そして、電通の著名な広告マンと知己となった。その関係もあり、電通のカレンダーを十数年以上、亡くなる年まで絵を選んでいたのは吉岡であった。 これより少し前に高校の同級生でもある親友の紹介で知り合った美津子と結婚している。そして、二人の新居の引っ越しの手伝いにきたその親友は妻の美津子の妹と出会い、後に婚姻、親友と義理の兄と弟となった。美津子の一番上の姉よりも幸雄の方が年齢が上の為、事あるごとに妻の姉は「義理の弟と言っても私よりも年上なのよ。」と周囲に漏らしていた。染織関係の制作では父、常雄の人脈をフルに活用していた。 父も本人も行きつけの店、先斗町「ますだ」の女将に、ますだへ通ってくる司馬遼太郎や水上勉を紹介してもらった。 水上勉とは交流が続き、自身の初めての単行本出版時に本の帯文を寄稿してもらっている。

中年期から晩年

紫紅社での出版、編集を行う一方で京都書院が発行する「染織の美」の編集に携わったり、美術展の企画、松屋銀座へ有機野菜のトマトへの卸など、多彩に精力的に仕事をこなしていく。 体調の優れない父の南米への研究旅行にもサポートと自身の仕事を兼任する形で随行している。 また、父が依頼された本の出筆も書けないなら引き受けなければいいものをと憤慨しながら代理で書き上げたという。親としての常雄が気を遣って仕事を取ってきたかもしれないとは思えないと幸雄は晩年まで興奮気味に話している。 現地で日本では禁止されている薬草の喫煙や珍しい食材を食べるなどかなり現地に親しんでいた。 後年、もう一度、訪れたい土地として、ペルー、スペインをあげている。 生涯で唯一、顎髭を伸ばしたのもこの旅行だけである。 仕事が軌道に乗っていた頃、よしおか工房を継いでいた弟からある日、突然、「お兄さん、そろそろこの仕事、お兄さんに返しますわ。仕事が合わない。」と言われた。 青天の霹靂の出来事だったが、東大寺に奉納しているのりこぼし(和紙から作られる椿の造花)の染めをよしおかが奉納を止めれば、また色紙のようなのりこぼしに戻るだろう。 一旦、引き受けたからには自分で全て代金をまかなう無料での奉納とはいえ、絶やすのは忍びないと思った。 父の代からいる染師、福田伝士(旧姓が吉岡と言い、吉岡とは遠い縁戚関係である。また、この頃は伝次と名乗っている。)に相談したところ、福田が主に染め、吉岡が前に出て営業などを受け持つという、得意分野の分業を行えばどうにかやっていけるだろうとの事だった。 最悪、工房が駄目になっても出版の仕事が残るという算段もあった。 広告の仕事などですぐに継ぐ事が難しいため、調整期間として1年間待ってほしいと告げ、後継準備を始めた。 そうこうして約束の1年も経たない内に折り悪く、前々から持病を患っていた父の常雄が心不全で亡くなり、5代目としてよしおか工房の仕事を継ぐ事となった。 葬儀を終えてすぐに1ヶ月間、群馬県の知り合いの家を借りて籠り、源氏物語の原文、現代文を読み込んだ。 父が発起人の一人として登壇するはずだった福井県の源氏物語アカデミーの講師として常雄の代わりに登壇する為だった。 そして、全面的に科学染料から自然から採取される染材に切り替える決断を行った。 染めの仕事を合理的に進めようと福田に聞きながら考案した機械をつくった。 だが上手に染まらない。 人の手で微妙な調整を行いながら行わなければ美しくは染まらない事に気がついた。 また、染めても客の意に沿わない染め上がりになったりする事もある為、電話注文だけやインターネットの販売はこの頃から行わないのを鉄則としている。結構な頻度で苦情があり、その対処に苦慮したという。現代のように鮮やかに染め上げる植物染めなどの認知力が世間にはなかった為だという。 NHK側からの提案により奈良県法隆寺の国宝、四騎獅子狩文錦の復元を行うことになった。 この時の統括者には後に、6代目更紗に織りの技術を教えてもらう事となり、感謝していた。 NHKからもらった復元料だけでは賄う事は到底厳しく、資金投入をかなり注ぎ込んだ。 これより後に復元を行った 奈良県東大寺の正倉院の「花樹双鳥文夾纈」は父、常雄が完全に復刻しえなかったものを再現することに成功した。 この時、染め用に用意した布は3枚。福田は1回で成功できると意気込んだが、吉岡は3回目で成功だろうと睨んでいたがその通りとなった。 昔の人に挑戦し続けているが口癖だった吉岡と高度な技術を持っている染師、福田の執念が結実した作品だった。(技術の再現は明治時代の先人たちも試みて成功させている為、吉岡が初めてではない。)同時に染師として父、常雄がなしえなかったものを成功させた喜びはひとしおだったという。自分は父のように染織の専門学校に行ったわけでも習ったわけでもない為、染師や研究家だとは認識されていないからだそうだ。編集などの仕事の片手間に染めをやっていると思われていたからだ。事実、その事で娘の更紗に何度となく指摘され、衝突している。工房に入った頃は、はいはい、と素直に聞いていたが、最近は生意気になってご覧のとおり偉そうで、ちっともこちらの言うことに耳を貸さないと、よく外でこぼしていた。 また、この時期になると貴重な染めの材料、紫草、紅花、刈安ほかが安定して工房に納入されてくるようになる。特に紅花は山形県から購入しているがその年の生産量の1%の購入しか認められずらとても需要に追いつない為、知り合いを通じて三重県伊賀市の農園で工房専用の紅花を栽培してもらうようになった。 また、様々な分野から講演の依頼やコラボレーションの話しが舞い込んできたのもこの時期からである。 よしおかの店の二階では、布の勉強会など、サロンを開いていた。しかし、荷物置き場になって座る場所がなくなった為、勉強会は開かれなくなった。 新しく改修した店の奥には茶室があり、ここで勉強会を復活させる予定だった。 また、カンヌ映画祭の常連である映画監督、河瀬直美の作品「朱華の月」の主人公が染師の為、工房をロケ地として提供した事があった。 それが縁でカンヌ映画祭で着る着物を貸してほしいと言われ、更紗の振袖を貸し、更紗本人も着付けのためにカンヌに飛んだ。(3人の娘に成人式の着物を染めたりはしておらず、妻と子供が相談して用意したとは本人の談だが、更紗は赤系の着物を染めて貰ったと雑誌で話している。) ドキュメンタリー映画「紫」を撮った川瀬美香といにしえの色の再現にかける吉岡と工房を追ったNHKのドキュメンタリー番組「失われた色を求めて」の仕事でも一緒に携わっている。 また、賞の受賞歴もあり、グッドデザイン賞2回にも貢献(成田国際空港のインディペンデントディレクターとしてインスタレーション業務を行い、2008年度グッドデザイン賞を受賞、直接ではないが2011年度に住友林業が駒沢第二展示場木造住宅の薄墨色の障子、その関係で毎年、住友林業が古民家の保存に努めている活動の一環として吉岡が講演を行っていた。)に始まり、菊池寛賞などを受賞している。 最後の受賞となった京都市での受賞式では珍しくネクタイを締めたスーツ姿だった。 NHKの評議員も勤めていた為、テレビ番組を何本も視聴して、会議のたびに放送に関しての意見を行っていた。自身もNHKへの就職希望、共同制作によるドキュメンタリーの仕事、次女がNHKに勤務するなどNHKとは縁が深い。 編集者としての仕事も行いつつ、様々なところで寄稿し、中でもJALのエグゼクティブ向けの雑誌「AGORA」への執筆に傾注もし、誇りを持っていた。 だが、何分にも遅筆で締切日を守らない事が多く、編集者泣かせであった。その締切日を守れなかった時の言い訳として、締め切りの催促への電話には出ない、「今日が締め切りとは聞いていない。」などなど、いくらでも言い逃れの手があるんや、とのらりくらりしていた。編集者自身である幸雄は若手の現役編集者を困惑させていることに対してどう思うのか、という質問を受けた時にしどろもどろになっていた。 海外でも鮮やかに染まる植物染めは注目を浴び、ドイツ、アメリカ、イギリスなどでも講演や展覧会を行った。 フランスのパリに支店をもつ和菓子の名店、虎屋の前社長の黒川光博氏にはパリでの講演時、とてもお世話になったといい、感謝していると言い続けていた。(時折、京都市の虎屋のカフェはとても落ち着いていい所だと、立ち寄る事があった。) その後もシャネルより口紅の色と染料での仕事を引き受けた。染料がフランスでは製造が許されいないものが含まれていた為、日本だけの発売となった。 この時、共に開発に携わったシャネルのフランス人は直接、シャネルから学んだ最後の弟子と言われる人物で、シャネルから引退する年に、最後、好きなところを訪ねていいと言われ、よしおか工房をあげ、シャネルの前社長と共に訪れている。 多忙がたたったのか、大病により倒れ、しばらくの間、休養せざるを得なかった。 その間、娘の更紗や妻や工房の人間が吉岡に変われるものは変わって仕事を行っていた。病の後遺症、歩行障害、痙縮、記憶障害などの症状があらわれ、吉岡を苦しめたが、表向きは何でもないように振る舞っていた。 また、仕事に差し障りがあるからと倒れた事は絶対の秘事として伏せられていたが、症状が重くなると隠しきれず、その時は腰痛と頚椎を痛めているからと誤魔化していた。 その他、京都精華大学 講師など色々と兼任していた。 亡くなる年まで講師や生徒の受け入れを行ない、お気に入りのベッカライのパンを工房に研修にくる大学生のお昼としてこのパンを振る舞っていた。 他には東京オリンピックのロゴの藍色について博報堂から見解を求められ助言した。 奈良県の五条市の町おこしとして日本茜の栽培を横浜芸術大学の加藤教授がおこなっていたもののうまくいかず、吉岡にサポートの依頼がきた。 その縁で晩年の中国への出張時に加藤教授と共に訪中している。 英国のロンドンにある国立のヴィクトリア&アルバート博物館は現代の優れた工芸品を収集し後の世に伝えるという博物館だが、そこにしかまファインアーツのしかま氏が英国で仕事を行なっていた人脈を使い、吉岡の染めの製品が収蔵されるよう便宜を計らった。 学芸員が収納された品物に対し、対価の話しをはじめると遮り、名誉な事なので、代金はいらない、製品のメンテナンスはよしおかが責任を持って無料で行うと宣言した。 2017年12月末で工房の仕事をあらかた引退すると周囲には宣言してその通りにしていた。 講演や出筆等に注力する為と、病気や老齢による工房仕事をこなす体力の衰えを感じ、後継者の6代目、娘の更紗による希望を聞いての事だった。 だが、2018年の夏、人的ミスにより藍染用の染液とすべく藍の葉を浸していた甕の中の溶液が全て流れ去ってしまった。 その為、藍の葉をもう一度買い直さなければならず、風水害や天候不順により、藍の葉が全国的に不足し、金額、量共に購入が難儀した。 折角、工房の仕事を譲った矢先の出来事に落胆の暇はないとこぼしていた。 また、同年の夏、西日本を襲った台風で、町屋づくりの紫紅社の屋根瓦がとび、人が住めない状況となり、引っ越しを余儀なくされた。 2019年4月、祇園の古門前通りから清水五条駅付近のビルに移転した。 看板もなく入り口のドアにガムテープの上に黒マジックで紫紅社と書かれたのみである。 ゆくゆくは知り合いの竹細工作家に自身がデザインした看板がわりのオブジェを制作依頼する予定であった。 亡くなる2ヶ月前から体調が思わしくなく、逝去の数日前、ザ・プリンスギャラリー 東京紀尾井町のバー「The Bar illumiid」で京都 伏見をイメージするカクテル「京紫」の試飲時に、体調が悪いからと一口も口をつけていない。バーテンダーが訪れた伏見の酒、クラフトジン「季の美」とよしおか工房の染料からインスパイアされたオリジナルカクテルである。酒が好きな吉岡にとっては嬉しいはずであった。この後、あまりにも体調が悪いからと滞在予定を早く切り上げて東京から京都へ帰っている。 そして、亡くなる2日前、体調不良のまま岐阜県恵那の講演の為に移動し、夜は酒を飲み、松茸に舌鼓をうった。だがやはり体調が回復せず、翌日の朝、講演を中止し、救急車を呼んだところ専門医のいる総合病院への緊急搬送が必要と判断され、ドクターヘリーで愛知県の春日井市の病院へ運ばれた。もう少し早く来院していたら手の施しようがあったと医師から告げれる。病院に行く事と西洋医術による処方された薬を飲む事が何よりも苦手な吉岡だった為、致し方のない事だったといえる。 翌日の夜10時に永眠。 亡くなる3ヶ月前には長生きして研究をもっと行いたいと婦人雑誌主催の講演で宣言した矢先の出来事であった。 持病の悪化による死亡であり、急逝ではない。 生前に自分で誂えた家紋を金で縁取りした裃をまとい、彼岸へ出立した。


6代目 娘 更紗のこと
恥ずしさが先立ち褒め言葉をかけないという典型的な頑固親父、経営者、指導者であったが、更紗の性格を見抜いての事でもあった。(更紗以外には褒め言葉をかけている) シャネルと口紅の仕事やテレビの取材などを受けるなど華やかな部分をみて、継ぐことを決めたのではないか、と危ぶんでいた。 文学部出身の更紗は就職氷河期の為、就職先がなく、友人の著名な電通マンに口利きをしてもらい、三宅一生の販売員として就職。(文系は就職氷河期が長かったが理系他は募集率もそう変わらず、氷河期ではなかった。)更紗はかなり歯の咬合が悪く、歯を出して笑うことを避けていたが、直接人と接する販売員時代には矯正せず、工房勤務をはじめて給与所得が下がり、取材を受け始めてから歯をインプラントを行い、まつ毛のエクステ、眉毛を赤茶に染める等、見栄えを気にしているのは個人の自由として致し方がないとしても後継者として学ぶべき事柄が多いはず、そちらの方に時間を割くべきではと、心配する気持ちの方が大きかった。 更に目が悪い更紗は青色が着色されているコンタクトを装着する事により、色そのものを見る事ができず、ものを見る際にコンタクトブルーの色越しに色を見ることになれば、色を扱うものとしての基本的姿勢に欠けると思っていた。(眼鏡をかけて作業する際に、曇ったりなどの不便はあったとしても使い分けをする心がけがほしかったそうだ。) 大学卒業後の就職先でも口利きでの入社の為、厚遇され、工房では跡継ぎだからと優遇されている為、厳しくしないと駄目だと思っていた。 父から自分へそして娘へと継げた事は自分としてはそれだけは責任を果たしたと思っていた。 ただ、家業が200年以上続くと言っても3代目は祖父の吉岡華堂の兄弟が継いでおり、その後を継いだのかが不明であり、祖父が亡くなった後、家計のため3代目から悉皆の仕事をもらって働いていた祖母が事の他、手先が器用でそれを見て育った父、常雄が高崎の学校で染色を習い、染め屋を始めたので、正確には自分が2代目で100年いっていないと言っていた。 だから初代からの台帳や染め帳がない、明治維新前後の動乱期には大八車を引いて愛宕山に避難していたから大事なものは残っているはずだと話していた。その為、父方の親戚のおじと一緒に2018年冬、自身のルーツを探る為、兵庫県出石を訪ねている。 また、後年、仕事で自分を通さず、勝手に仕事を受注してくることがあり、客から何々のことですがと尋ねれて苦慮する事が度々あったという。 仕事は常々、FAX、面談、電話でやりとりする事にしていたが、外出しがちな幸雄にかわり、妻か更紗が主に対応していた。(後年、病気による記憶障害の弊害ではない事を明記) 講演会時に全くパソコンが使用できない幸雄にかわり、娘が操作要員兼販売員として随行したが、その時の幸雄や一般人に対する言動は周囲を冷や冷やさせた。 更紗が父親としても師匠としても尊敬し、大好きだと言っていたのが嘘のようだと幸雄は嘆いている。 作品の出来とコストのバランスを取ることは経営者としては鉄則だが時にはコストを度外視した仕事をしないと良いものに仕上がらないと娘に説いていたが理解してもらえないと言っていた。 染め屋の娘に産まれたとしても他の職人より恵まれた環境で働き、あまり苦労もせず、取材されて注目を浴びている事で何か自分が偉くなったように感違いしていないか戒めていた事が口うるさい親父の戯言にしか聞こえていなかったとしたら悲しいものだと呟いていた。 更紗の次の世代、7代目の後継者は吉岡と血縁関係のない人が継いでも構わないからどうかその人が継げるまで持ち堪えられればと祈るような気持ちでいた。 また、売上に困らないように、中近東の大使館員の人や百貨店、新聞社、雑誌、あらゆる人たちに無料で工房で染めの体験等を行い、仕事を知ってもらう事により、仕事の受注を絶えずくるようにしていた事をお金と時間の無駄づかい、仕事の邪魔になるといって娘が快く対応してくれないのを残念がっていた。 6代目を幸雄に断りなく更紗が勝手に名乗っていても事実にかわりないので構わず、大病して倒れた時に、自分の代わりをしてもらった事もあるからと鷹揚に構えていた。 更紗のいう現代のセンス、美意識と、幸雄のとなえる美意識とは異なった為、自分の考えや美的センスはもう現代に通じず、古臭いのだろうかとかなり苦悩していた。
食へのこだわり
「レールに乗ったものは買わへん」を信条とした祖母の影響を受け、無農薬、手作りの食にこだわり続けた。 食通としても知られ、旬の食材を手間を惜しまず作られた料理を食すのを好んだ。 食の好みは人柄を映し出すといい、「私は食の細い人は信用していない。」と語っていた。 牛肉、鮒ずし、鱧、鮎が好物である。 中でも牛肉のこだわりは若い時分から相当なもので、京都の「三嶋亭」か「森鶴」のものしか、美味しいと言わなかった。 甘いものはあまり好きではなく、自ら進んで食する事はなかったが、晩年、「どうしてか甘いものが食べたくなる。」と言って食べる事があった。 美味しいと評判の店はお茶屋の女将や芸妓の姐さんに聞くのが一番と言い、客人の舌を満足させる為、晩年でも情報を絶やさずにいた。 健啖家で晩年まで好き嫌いなく食し、「世界中のどこでも暮らせる自信がある。何でも食べれるから。」と豪語していた。 行きつけの店は祇園のうどん屋「萬屋」板前割烹「貴久政」、先斗町「ますだ」、上京区「神馬」、伏見「おこぶ北清」、ワインバー 「Enoteca C.d.G」、名古屋「大甚」、東京「青山鮨孝」、「荒井商店」国分寺の寿司屋などがある。 40年以上通っていた萬屋では特別におぼろ昆布を入れてもらい、それがいつしか店のメニューになった。その名もずばり「よしおか」である。 おこぶ北清では自身が考案したメニューが数点ある。 父の行きつけのお店でもあったますだで、浪人や大学生の頃、友人とツケで飲み、後日、請求書が母の手元に届き、どうしてこんなに飲んだのか、とかなり叱責された、と苦笑しながら話していた。 中でも大阪千里山にある和食の名店「柏屋」を「日本で一番の店だ。」と大絶賛していた。 ミシュランの三ツ星を長年連続して獲得している店で、「ミシュランの星がついている店に通い続けるという事はしない口だが、ここだけは違う。」と常々、口にしていた。 また、本店と閉店した香港店の一部の設えに携わっていた。 店のオーナーで料理人でもある松尾氏は、植物染めからインスパイアされた菓子「かさね」を創作した。 そして、吉岡亡き後、2020年には吉岡幸雄の名を一字取った「こうふう(幸風)」という菓子が誕生している。 お酒は何でもいける口であった。 好みはスコッチウィスキーのシングルモルト「Wolfburn Northland」日本酒は辛口「七本槍」「奥播磨」、焼酎「青酎」、ワインはイタリア産赤ワインなどである。 最初の一杯目は必ず、サントリーのザ・プレミアム・モルツかYEBISUビールと決まっていた。 イギリス ハイランド地方のスコッチウィスキー、ウルフバーンが設立して間もない頃、古希の自分へのご褒美として樽買いをし、熟成して出荷を楽しみに待っていた。 出荷時にイギリスでは樽ごと海外へ輸出する事が禁止と判明し、樽から一瓶毎に移し替える為、荷造り運賃費がとても高くつく事となった。 その事を知った家族からどうしてそんな高額なものを買ったのか、とえらい大目玉を食らった、と自嘲気味に談じていた。 家族の反対にもめげず、亡くなるまでの8年間、毎年、ウィスキーの瓶を輸入していた。 また、貴久政、おこぶ北清では自分で購入したお気に入りの徳利とお猪口を預け、「お預け徳利の店がある。」と得意げであった。
色彩について
一番好きな色は紫。染めるのが一番難しい色だからという所以である。創立した美術図書の出版社名も「紫紅社」と紫の名が入っている。晩年、憲法黒をもう一度、研究したいと取り組み始めていた。 また、京都の藍は田舎の藍とは違い、上品で洗練された美しさがあると、京都で染める藍の色へのこだわりがあった。よく季(とき)にあいたる色を着てください、黒や白などの無彩色ではなく鮮やかな色をぜひ、着てくださいと話していた。 だが自身がよく着用していた服の色は茶色や黒が多かった。
骨董
「ほんま、もう病気やな。」と自制が効かぬほど骨董への偏愛があった。 やはり多く購入したものは裂である。 購入したものの多くは吉岡コレクションとして御香宮神社内の蔵に収蔵されている。 祇園の「今昔西村」「ちんぎれや」奈良・法隆寺の「古裂ギャラリー大谷」荻窪の「呂藝」をはじめとした店から古布を買い求めた。 滅多に値切るなどせず、提示された額で購入したと、何度か吉岡と随行した人が言う。 ご自慢は、野村正治郎が扱った「小袖屏風」(小袖切れを押し絵貼りした二曲一隻の屏風)の裂帖、正倉院裂、特に茶屋辻は一番の家宝と言っていた。2018年第11回国際絞り会議in名古屋で、会場の一つであった古川美術館に展示品として、また、年々、人々の高まりゆく正倉院展への関心等を考慮し、正倉院裂を購入したものである。加えて、更紗、のしめ、藍染め、丹波布も好みであった。
その他
様々な事に興味を持ち、多趣味であった。 競馬にも詳しく、どこそこの馬、馬主、調教師、騎手の話しをしてもタイムリーであった。 ある時は御茶ノ水の山の上ホテルで1日に100句を発句しなければいけない句会に参加したことがあった。その時には天ぷらで有名なホテルに泊まっているのに、食べる暇もなかった位しんどかったと言っていた。 これが食べたいと思えば、自ら料理も作っていた。料理の腕前は大した事ないと謙遜していたが、食した人の評では中々のものであったようである。 貰い物や取り寄せた品物が増えると、友人や知り合いを自宅に迎えたり、馴染みの店で宴会を開くほど、みんなで楽しく過ごすことを好んだ。 月に一回は同級生に声がけし、同窓会を開くほどであった。 ユーモアを交えた話しをするのがうまく、よく次のことを言っていた。「京都生まれの奈良育ちの吉岡です。」「講座の内容はともかく、人を集める事には自信があります、というのが僕の売りで、集客には自信があるんです。」「外国のブランドばかり買わないでぜひ日本の物を買ってください。もちろん「よしおか」のものもどんどん買ってください。」好きな上方落語を聞いて冗談の話術が鍛えられたのかもしれない。
自然を愛し、特に花に心を寄せていた。 5月を藤、杜若、桐の花など紫色の花が咲き誇る為、紫の月と呼んでいた。 また、「深山に1本だけぽっと桜の木か、藤の花が咲いている景色は何とも風情があってよい。その花を見つけた時、その美しさに眼と心を奪われる。」と自然の美しさを愛でていた。 伝統工芸の次世代への継承に心を砕き、伊勢神宮の式年遷宮などで奉納品を納める工芸家の名前の公開を宮内庁に強く呼びかけ、名前を一部だけ公表してもよい事になったと話していた。 また、日本の象徴的存在である宮家の方々にも植物染めの着物をお召しいただきたいと思い、秋篠宮家に紫色の着物はいかがか、と伺いを立てたところ断られてしまったと残念そうに言っていた。 そして、「奈良の東大寺の修二会(お水取り)、祇園祭、石清水八幡宮の勅祭(石清水祭)、春日大社の春日若宮のおん祭りを観ていない人は、私は日本人だとは思いません。こう言えば、悔しいな観てやろうと人は思い、観に行くだろう。そうすれば、伝統を絶やさない一助になるかもしれない。」と少しひねった提言もしていた。 消えていく日本の伝統工芸を絶やさない為にも率先して藤蔓製のジャケット、日本産の絹織物や麻やシルクのシャツを着用していた。そして、「シルクを着なさい。シルクは温かくて、軽くていいですよ。」と事あるごとに呼びかけていた。 仕事で自分のプレゼンテーション能力は我ながらすごいと思う、と自負していた。 例として、小さいところでは、自分で染めた着物を着て祇園で飲んでいたら、その場で着物と帯など3組み売れたことがある。大きなところでは、成田国際空港の第二ターミナルの内装、インスタレーションのコンペ、石清水八幡宮の御花神饌(おはなしんせん/春夏秋冬の花や生き物をあしらったものを毎年9月15日からの勅祭に頓宮前に供される特殊神饌)かな、と話していた。(実際には紫紅社に勤務していた編集者の小野久仁子の夫が石清水八幡宮に縁があり、そのつてによって石清水八幡宮の宮司と知り合い、御花神饌の作成へと繋がっていく。)

脚注 編集

  1. ^ “吉岡幸雄氏が死去 染色家、伝統の色追求”. 京都新聞. (2019年10月1日). https://this.kiji.is/551645504870892641?c=39546741839462401 2019年10月1日閲覧。 

外部リンク 編集