吉岡 幸雄(よしおか さちお、1946年4月2日 - 2019年9月30日)は日本の染織史家・染色家。染司よしおか五代目当主。美術図書出版「紫紅社」代表。

よしおか さちお
吉岡 幸雄
生誕 (1946-04-02) 1946年4月2日
日本の旗 日本 京都府京都市
死没 (2019-09-30) 2019年9月30日(73歳没)
日本の旗 日本 愛知県春日井市
出身校早稲田大学第一文学部卒
職業染織史家
配偶者吉岡美津子
子供吉岡更紗
1977年6月30日〜 大谷大学文学部卒
吉岡常雄(父)染司よしおか4代目
吉岡俊子(母)
親戚吉岡堅ニ(伯父)
吉岡華堂(祖父)

父、常雄や上村六郎山崎青樹前田雨城の残した研究をもとに、染め師、福田伝士と共に古代の染色技術の復元を行っており、薬師寺東大寺などの文化財の復元などに携わる傍ら、執筆業、講演などの活動も盛んに行った。

経歴編集

  • 1946年 - 京都市に生まれる。
  • 1971年 - 早稲田大学第一文学部卒業。
  • 1971年 - 光村推古書院にアルバイトとして勤務。 父、常雄の口利きによる。
  • 1973年 - 美術図書出版「紫紅社」設立。 
  • 1988年 - 生家「染司よしおか」の五代目当主を継ぐ。
  • 1991年 - きもの文化賞受賞
  • 1993年 - 奈良薬師寺・東大寺の伎楽装束を制作。
  • 2001年 - 獅子狩文錦の復元制作に参加。
  • 2002年 - 鹿草木夾纈屏風の復元制作に参加。
  • 2008年度グッドデザイン賞受賞(インディペンデントディレクターとして参画) - 成田国際空港 第2旅客ターミナルビル サテライト2F 到着コンコース(アート散歩道)
  • 2010年 - 第58回菊池寛賞受賞
  • 2012年 -第63回日本放送協会放送文化賞受賞
  • 2016年 - 英国ヴィクトリア&アルバート博物館からの依頼で制作した永久保存用「植物染めのシルク」が同博物館に収蔵される。
  • 2019年9月30日 - 死去[1]。73歳没。

主な著作編集

  • 『日本の色辞典』紫紅社
  • 『自然の色を染める』紫紅社
  • 『色の歴史手帖』PHP研究所
  • 『染と織の歴史手帖』PHP研究所
  • 『京都色彩紀行』PHP研究所
  • 『和みの百色』PHP研究所
  • 『日本の色を染める』岩波新書
  • 『日本の色を歩く』平凡社新書
  • 『日本人の愛した色』 新潮選書
  • 『失われた色を求めて』岩波書店・遺著

エピソード 編集

若年期
小学生1年生から2年間、結核を患い、1日も学校へ登校しなかった。快復した後は病気を感じさせないほどエネルギッシュな言動であった。 高校生の頃から京都や奈良の寺社巡りや散策を始めた。高校生の頃、フランス映画「シェルブルーの雨傘」を観に行くなど同年代の高校生よりも少し大人びた高校生だった、とは本人の談である。 二浪し、早稲田大学へ進学した。早稲田大学の合格を父に伝えると、二浪もして国公立の大学ではなく、私立の大学へ行くのなら行かなくていい、と激昂され、母の取りなしで入学できた。大学で第二外国語はフランス語と決めていたが人数制限により、ドイツ語の選択を教授から指示された事は後年になっても悔やしい出来事だと語っている。学園闘争が激化した事もあり在学中、ほぼ大学へ通学しなかった。1年の頃は杉並区に住み、その後、映画「若大将シリーズ」を観た影響もあり、湘南に憧れて湘南に移り住んだ。 若大将シリーズに出演の女優、星由里子は明るくてとても綺麗だったと後年、褒めていた。 大学2年時に、親から突然話しがあるからと帰郷してこいと言われ、実家に戻ると、弟が染め屋の仕事を継ぐが異論はないかの確認を受けた。もとより辛気臭い家業を継ぐ意志などなく、快諾した。家業を継ぎたくない事もあり、京都から遠い東京の大学、文学部へ進学したぐらいである。 父が染色研究の為、海外を訪れた先で借入したお金を返却しに、新橋にあったNHKなどつかいに行かされていた。就職活動でNHKや出版社を受けたがことごとく落ちてどこも入社できなかった。団塊世代の為、大学受験の競争率が60倍、就職も然りだったと弁明している。 京都へ戻り、父の口利きで京都市内にある「光村推古書院」にアルバイトとして入社、約2年間勤務した。 会社生活が肌に合わず、自分はサラリーマン生活に向いていない、誰とでも上手く立ち回れない、と自己嫌悪気味に呟いていた。美術図書専門の出版社「紫紅社」を創業した。開業当初、伯父の吉岡堅ニが出版だけでは食べていけないだろうと、知り合いを紹介してくれ、仕事をもらっていた。 そして、電通の著名な広告マンと知己となった。その関係もあり、電通のカレンダーを十数年以上、亡くなる年まで絵を選んでいたのは吉岡であった。 これより少し前に高校の同級生でもある親友の紹介で知り合った美津子と結婚している。そして、二人の新居の引っ越しの手伝いにきたその親友は妻の美津子の妹と出会い、後に婚姻、親友と義理の兄と弟となった。美津子の一番上の姉よりも幸雄の方が年齢が上の為、事あるごとに妻の姉は「義理の弟と言っても私よりも年上なのよ。」と周囲に漏らしていた。染織関係の制作では父、常雄の人脈をフルに活用していた。 父も本人も行きつけの店、先斗町「ますだ」の女将に、ますだへ通ってくる司馬遼太郎や水上勉を紹介してもらった。 水上勉とは交流が続き、自身の初めての単行本出版時に本の帯文を寄稿してもらっている。
食へのこだわり
「レールに乗ったものは買わへん」を信条とした祖母の影響を受け、無農薬、手作りの食にこだわり続けた。 食通としても知られ、旬の食材を手間を惜しまず作られた料理を食すのを好んだ。 食の好みは人柄を映し出すといい、「私は食の細い人は信用していない。」と語っていた。 牛肉、鮒ずし、鱧、鮎が好物である。 中でも牛肉のこだわりは若い時分から相当なもので、京都の「三嶋亭」か「森鶴」のものしか、美味しいと言わなかった。 甘いものはあまり好きではなく、自ら進んで食する事はなかったが、晩年、「どうしてか甘いものが食べたくなる。」と言って食べる事があった。 美味しいと評判の店はお茶屋の女将や芸妓の姐さんに聞くのが一番と言い、客人の舌を満足させる為、晩年でも情報を絶やさずにいた。 健啖家で晩年まで好き嫌いなく食し、「世界中のどこでも暮らせる自信がある。何でも食べれるから。」と豪語していた。 行きつけの店は祇園のうどん屋「萬屋」板前割烹「貴久政」、先斗町「ますだ」、上京区「神馬」、伏見「おこぶ北清」、ワインバー 「Enoteca C.d.G」、名古屋「大甚」、東京「青山鮨孝」、「新井商店」国分寺の寿司屋などがある。 40年以上通っていた萬屋では特別におぼろ昆布を入れてもらい、それがいつしか店のメニューになった。その名もずばり「よしおか」である。 おこぶ北清では自身が考案したメニューが数点ある。 父の行きつけのお店でもあったますだで、浪人や大学生の頃、友人とツケで飲み、後日、請求書が母の手元に届き、どうしてこんなに飲んだのか、とかなり叱責された、と苦笑しながら話していた。 中でも大阪千里山にある和食の名店「柏屋」を「日本で一番の店だ。」と大絶賛していた。 ミシュランの三ツ星を長年連続して獲得している店で、「ミシュランの星がついている店に通い続けるという事はしない口だが、ここだけは違う。」と常々、口にしていた。 また、本店と閉店した香港店の一部の設えに携わっていた。 店のオーナーで料理人でもある松尾氏は、植物染めからインスパイアされた菓子「かさね」を創作した。 そして、吉岡亡き後、2020年には吉岡幸雄の名を一字取った「こうふう(幸風)」という菓子が誕生している。 お酒は何でもいける口であった。 好みはスコッチウィスキーのシングルモルト「Wolfburn Northland」日本酒は辛口「七本槍」「奥播磨」、焼酎「青酎」、ワインはイタリア産赤ワインなどである。 最初の一杯目は必ず、サントリーのザ・プレミアム・モルツかYEBISUビールと決まっていた。 イギリス ハイランド地方のスコッチウィスキー、ウルフバーンが設立して間もない頃、古希の自分へのご褒美として樽買いをし、熟成して出荷を楽しみに待っていた。 出荷時にイギリスでは樽ごと海外へ輸出する事が禁止と判明し、樽から一瓶毎に移し替える為、荷造り運賃費がとても高くつく事となった。 その事を知った家族からどうしてそんな高額なものを買ったのか、とえらい大目玉を食らった、と自嘲気味に談じていた。 家族の反対にもめげず、亡くなるまでの8年間、毎年、ウィスキーの瓶を輸入していた。 また、貴久政、おこぶ北清では自分で購入したお気に入りの徳利とお猪口を預け、「お預け徳利の店がある。」と得意げであった。
色彩について
一番好きな色は紫。染めるのが一番難しい色だからという所以である。創立した美術図書の出版社名も「紫紅社」と紫の名が入っている。晩年、憲法黒をもう一度、研究したいと取り組み始めていた。 また、京都の藍は田舎の藍とは違い、上品で洗練された美しさがあると、京都で染める藍の色へのこだわりがあった。よく季(とき)にあいたる色を着てください、黒や白などの無彩色ではなく鮮やかな色をぜひ、着てくださいと話していた。 だが自身がよく着用していた服の色は茶色や黒が多かった。
骨董
「ほんま、もう病気やな。」と自制が効かぬほど骨董への偏愛があった。 やはり多く購入したものは裂である。 購入したものの多くは吉岡コレクションとして御香宮神社内の蔵に収蔵されている。 祇園の「今昔西村」「ちんぎれや」奈良・法隆寺の「古裂ギャラリー大谷」荻窪の「呂藝」をはじめとした店から古布を買い求めた。 滅多に値切るなどせず、提示された額で購入したと、何度か吉岡と随行した人が言う。 ご自慢は、野村正治郎が扱った「小袖屏風」(小袖切れを押し絵貼りした二曲一隻の屏風)の裂帖、正倉院裂、特に茶屋辻は一番の家宝と言っていた。2018年第11回国際絞り会議in名古屋で、会場の一つであった古川美術館に展示品として、また、年々、人々の高まりゆく正倉院展への関心等を考慮し、正倉院裂を購入したものである。加えて、更紗、のしめ、藍染め、丹波布も好みであった。
その他
様々な事に興味を持ち、多趣味であった。 競馬にも詳しく、どこそこの馬、馬主、調教師、騎手の話しをしてもタイムリーであった。 ある時は御茶ノ水の山の上ホテルで1日に100句を発句しなければいけない句会に参加したことがあった。その時には天ぷらで有名なホテルに泊まっているのに、食べる暇もなかった位しんどかったと言っていた。 これが食べたいと思えば、自ら料理も作っていた。料理の腕前は大した事ないと謙遜していたが、食した人の評では中々のものであったようである。 貰い物や取り寄せた品物が増えると、友人や知り合いを自宅に迎えたり、馴染みの店で宴会を開くほど、みんなで楽しく過ごすことを好んだ。 月に一回は同級生に声がけし、同窓会を開くほどであった。 ユーモアを交えた話しをするのがうまく、よく次のことを言っていた。「京都生まれの奈良育ちの吉岡です。」「講座の内容はともかく、人を集める事には自信があります、というのが僕の売りで、集客には自信があるんです。」「外国のブランドばかり買わないでぜひ日本の物を買ってください。もちろん「よしおか」のものもどんどん買ってください。」好きな上方落語を聞いて冗談の話術が鍛えられたのかもしれない。
自然を愛し、特に花に心を寄せていた。 5月を藤、杜若、桐の花など紫色の花が咲き誇る為、紫の月と呼んでいた。 また、「深山に1本だけぽっと桜の木か、藤の花が咲いている景色は何とも風情があってよい。その花を見つけた時、その美しさに眼と心を奪われる。」と自然の美しさを愛でていた。 伝統工芸の次世代への継承に心を砕き、伊勢神宮の式年遷宮などで奉納品を納める工芸家の名前の公開を宮内庁に強く呼びかけ、名前を一部だけ公表してもよい事になったと話していた。 また、日本の象徴的存在である宮家の方々にも植物染めの着物をお召しいただきたいと思い、秋篠宮家に紫色の着物はいかがか、と伺いを立てたところ断られてしまったと残念そうに言っていた。 そして、「奈良の東大寺の修二会(お水取り)、祇園祭、石清水八幡宮の勅祭(石清水祭)、春日大社の春日若宮のおん祭りを観ていない人は、私は日本人だとは思いません。こう言えば、悔しいな観てやろうと人は思い、観に行くだろう。そうすれば、伝統を絶やさない一助になるかもしれない。」と少しひねった提言もしていた。 消えていく日本の伝統工芸を絶やさない為にも率先して藤蔓製のジャケット、日本産の絹織物や麻やシルクのシャツを着用していた。そして、「シルクを着なさい。シルクは温かくて、軽くていいですよ。」と事あるごとに呼びかけていた。 仕事で自分のプレゼンテーション能力は我ながらすごいと思う、と自負していた。 例として、小さいところでは、自分で染めた着物を着て祇園で飲んでいたら、その場で着物と帯など3組み売れたことがある。大きなところでは、成田国際空港の第二ターミナルの内装、インスタレーションのコンペ、石清水八幡宮の御花神饌(おはなしんせん/春夏秋冬の花や生き物をあしらったものを毎年9月15日からの勅祭に頓宮前に供される特殊神饌)かな、と話していた。

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ “吉岡幸雄氏が死去 染色家、伝統の色追求”. 京都新聞. (2019年10月1日). https://this.kiji.is/551645504870892641?c=39546741839462401 2019年10月1日閲覧。 

外部リンク編集