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吉江 宗信(よしえ むねのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将上杉氏長尾氏の家臣。越後国吉江城主。魚津城の戦いにおける守将の一人。

 
吉江宗信
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正2年(1505年
死没 天正10年6月3日1582年7月21日
改名 宗信→宗誾(号)
別名 常陸入道宗ギン
戒名 永輝院殿顕宗義忠居士
墓所 山形県米沢市米沢林泉寺[1]
官位 木工助常陸介
主君 上杉定実謙信景勝
氏族 吉江氏
父母 父:吉江景宗
景資[2]
特記
事項
子・景資との同一人説あり

目次

生涯編集

永正2年(1505年)、越後西蒲原郡弥彦庄吉江の国人吉江景宗の子として誕生。

上杉謙信の下では越中国下野国を転戦した。天正6年(1578年)に謙信が急死し、上杉家の内紛(御館の乱)が起こると、上杉景勝方に付き織田氏配下の柴田勝家軍が越中戦線で攻勢に出、増山城を守備していた宗信は織田方に寝返った石黒成綱の居城木舟城を攻め落とすなど老体に鞭打って奮戦した。天正9年(1581年)には、孫・中条景泰とその弟吉江長忠に越中方面で功を挙げたら隠居分として得た神保四郎左衛門の遺領の内それぞれ500俵、300俵分を分け与える旨の約束をし士気を鼓舞している。

しかし、やがて援兵も頼めない状況となり、物資も枯渇し魚津城に長期にわたって篭城した末、子・景資や孫の寺島長資、中条景泰など一族の多くと、山本寺孝長竹俣慶綱らの諸将と共に自害した。本能寺の変の翌日のことである。享年77。

脚注編集

  1. ^ 移転前の越後林泉寺新潟県上越市中門前
  2. ^ 『『戦国人名辞典』の吉江景資の項の執筆者福原圭一は、花押の形状から宗信が景泰の父景資と同一人であるとする。『上杉年譜』天正2年(1574年)6月20日の条にも「吉江常陸介宗信カ男与次ヲ家督ニ命セラル」とあり、父子としている。一方、祖父であるとの見解は『越佐史料』の比定に基づくものであるが、金子拓氏は各書状の比較検討により景資(織部佑)と宗信(常陸入道宗ギン)が別々に実在したのは間違いないとし『越佐史料』の比定を支持している。(『大日本史料第十編之二十三編纂ノート』)』

出典編集

  • 『越佐史料』
  • 『上杉家御年譜』
  • 『中条家文書』

関連項目編集

外部リンク編集