名古屋市立砂田橋小学校

名古屋市東区の小学校

名古屋市立砂田橋小学校(なごやしりつ すなだばししょうがっこう)は、名古屋市東区にある公立小学校砂小(すなしょう)の愛称で呼ばれている。

名古屋市立砂田橋小学校
砂田橋小学校正門
地図北緯35度11分19.33秒 東経136度57分33.96秒 / 北緯35.1887028度 東経136.9594333度 / 35.1887028; 136.9594333座標: 北緯35度11分19.33秒 東経136度57分33.96秒 / 北緯35.1887028度 東経136.9594333度 / 35.1887028; 136.9594333
国公私立の別 公立学校
設置者 名古屋市
校訓 進んでします
仲よくします
たくましくなります
働くことを大切にします
自分でします
設立年月日 1979年(昭和54年)4月1日
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
学校コード B123210000236 ウィキデータを編集
所在地 461-0045
名古屋市東区砂田橋三丁目1番13号
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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学区内に集合住宅が多数建設され人口の急増が見込まれたことから、名古屋市立矢田小学校の学区を分離する形で開校した。

概要 編集

名古屋市東区の最も東の地域を学区とする公立小学校であり、昭和50年代に同地域の矢田川沿いに集合住宅群が建設され人口が急増したことにより名古屋市立矢田小学校の学区を分離する形で1979年(昭和54年)4月に設立された。その後1984年(昭和59年)10月に住居表示が実施されたことにより、砂田橋小学校の学区は砂田橋一丁目から砂田橋五丁目までの地域となり[注 1][1][2]小学校名と学区の町名が完全に一致する形となっている。

設立の経緯にもあるように、学区内には集合住宅が多く、在校児童の小学校への通学分団も集合住宅の棟を単位として編成されていることが多い。

沿革 編集

経緯 編集

名古屋市東区の矢田川沿いの地域に矢田川パークハウス・大幸東団地などの集合住宅が建設されたことにより、従来名古屋市立矢田小学校の学区であった同地域の人口急増が見込まれることから、1978年4月に「矢田学区鍋屋上野方面[注 2]小学校」が作られることとなった。同年6月に地元向け説明会開催、9月に起工式が行われ、10月には校名が「名古屋市立砂田橋小学校」に決定した[注 3][3]。工事の進捗状況が危ぶまれていた校舎も開校直前の1979年3月中に何とか完工し[注 4]、4月3日には開校宣言式、4月4日には入学式、4月5日に始業式が行われ、名実共に砂田橋小学校がスタートした。開校時の全校生徒は333人であった。

※ 記述にあたっては、『創立5周年記念誌 砂田橋』[3]他を参照した。

年表 編集

  • 1979年 - 4月、開校する。
  • 1981年 - 校歌「さわやかな朝」制定。福島佐松作詞、森一也作曲。
  • 1985年 - 校舎防音工事実施、全館空調開始。
  • 1999年 - 特別支援学級開設。通称「すなっ子学級[注 5]」。
  • 2001年 - トワイライトスクール開設。

児童数の変遷 編集

『愛知県小中学校誌』(1998年)によると、児童数の変遷は以下の通りである[4]

1979年(昭和54年) 355人
1987年(昭和62年) 740人
1997年(平成9年) 473人

教育方針 編集

教育目標として、「教育基本法の精神にのっとり、地域性を考えて、進んで協力し合い、心身共にたくましく、実行力と責任感の強い児童の育成を目指す。」としている。

校訓としては、

  •  進んでします
  •  仲よくします
  •  たくましくなります
  •  働くことを大切にします
  •  自分でします

を掲げている。

教育目標・校訓は開校時の校長の「学校がスタートした以上早々にこれらを決める必要がある」との見解から、開校時の教諭陣の話し合いにより急ぎ決められた。校訓の設定は開校後一月以内の1979年4月26日とされている[注 6][3]

※ 記述にあたっては、『開校30周年記念学校要覧』[5]を参照した。

通学区域 編集

 
矢田川沿いの集合住宅群
愛知県道30号関田名古屋線宮前橋上から撮影、画面上部はゆとりーとライン(2012年5月)
名古屋市東区
  • 砂田橋一丁目・二丁目・三丁目・四丁目・五丁目の全部
  • 当学区は全域にわたって住居表示が実施された[注 7][1]地域である。

通学区域の詳細 編集

2010年(平成22年)国勢調査によると、学区の面積は0.490km2、世帯数は2835世帯、人口は6156人である。km2あたりの人口密度は12563人と、東区内の9小学校区[注 8]においてトップである。

学区内は矢田川沿いの集合住宅群を中心とした住宅地としての色彩が強い。集合住宅以外の住宅は砂田橋五丁目内に見られる程度である。また、砂田橋二丁目には名古屋中学校・高等学校、敷地面積は広いが居住者はいないこれらの施設により上記の人口密度の値が押し下げられているため、学区内の人口密度は実態としてはさらに高いものと考えられる。

※ 記述にあたっては、『名古屋の町(大字)・丁目別人口(平成22年国勢調査)』行政区別統計表[2]を参照した。

隣接する公立小学校区 編集

いずれも名古屋市立の小学校である。

  • 矢田小学校(東区) - 当学区の西側、砂田橋小学校と2校で名古屋市立矢田中学校区を構成する[注 9]
  • 廿軒家小学校(守山区) - 当学区の北側、矢田川の対岸となる。
  • 千代田橋小学校(千種区) - 当学区の東側。
  • 富士見台小学校(千種区) - 当学区の南東側。
  • 上野小学校(千種区) - 当学区の南側。

進学先中学校 編集

名古屋市では公立学校選択制が導入されていないことから、砂田橋小学校を卒業した児童の公立中学校進学先は名古屋市立矢田中学校となる[注 9](進学時に学区の変更を伴う転居などがない場合)。

学区内の主な施設 編集

交通アクセス 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 『なごやの町名』P144参照。
  2. ^ 砂田橋小学校の校地は当時「東区鍋屋上野町字土橋1527番地の9」であった。
  3. ^ 名古屋市側は当初は「矢田小学校分校」としての設置を考えていたが、当時の矢田小学校校長の「独立校とすべき」との意見もあり、学区内在住であった区政協力委員長などの働きかけにより独立校となったと『創立5周年記念誌 砂田橋』には記されている(「座談会 砂田橋小の5年間」)。
  4. ^ 開校後もプール・体育館などの設備の建設は引き続き行われた。プール完成は1979年6月30日、体育館完成は同8月31日であった。
  5. ^ 砂田橋小学校公式サイト記述より。
  6. ^ 『創立5周年記念誌 砂田橋』P20参照。
  7. ^ 東区における住居表示は昭和50年代にその大半が実施されている。砂田橋小学校区における住居表示実施は1984年(昭和59年)10月である。
  8. ^ 東桜・山吹・東白壁筒井旭丘明倫矢田・砂田橋の9小学校区である。
  9. ^ a b 矢田中学校の開校は、砂田橋小学校の矢田小学校からの分離独立と同じ1979年4月である。それ以前においては、現砂田橋小学校区在住の矢田小学校卒業児童の進学先中学校は、名古屋市立桜丘中学校であった。現砂田橋地区在住の小学校児童・中学校生徒にとっては、1979年4月において通学事情が大幅に改善したこととなる。

出典 編集

  1. ^ a b 『なごやの町名』(名古屋市計画局 1992年3月31日発行)。
  2. ^ a b “名古屋の町(大字)・丁目別人口(平成22年国勢調査)統計表(区別)(2)東区”. 名古屋市総務局企画部統計課. (2011年4月22日). https://www.city.nagoya.jp/somu/page/0000023639.html 2012年5月7日閲覧。 
  3. ^ a b c 『創立5周年記念誌 砂田橋』名古屋市立砂田橋小学校記念誌発行準備委員会編 1984年3月1日発行。
  4. ^ 六三制教育五十周年記念愛知県小中学校誌編集委員会 1998, p. 286.
  5. ^ 『開校30周年記念学校要覧』名古屋市立砂田橋小学校

参考文献 編集

  • 六三制教育五十周年記念愛知県小中学校誌編集委員会 編『六三制教育五十周年記念愛知県小中学校誌』1998年3月1日。 

関連項目 編集

外部リンク 編集