向野 (羽曳野市)
向野(むかいの)は、大阪府羽曳野市の地名。現行行政地名は向野一丁目から向野三丁目と大字向野。
向野 | |
---|---|
北緯34度33分45.47秒 東経135度34分41.85秒 / 北緯34.5626306度 東経135.5782917度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 大阪府 |
市町村 | 羽曳野市 |
面積 | |
• 合計 | 0.417656187 km2 |
人口 | |
• 合計 | 1,691人 |
• 密度 | 4,000人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
583-0883[3] |
市外局番 | 072(八尾MA)[4] |
ナンバープレート | 和泉 |
歴史
編集向野村は河内国丹南郡にあり、向野村本村と枝郷皮田村から成る。本村の戸数・人口は不詳だが、皮田村の1872年(明治5年)時の戸数は壬申戸籍により120戸であるから、近世中後期には本村戸数をはるかに越す皮田村戸数・人口であったと見られる。
皮多村に対しては、本村庄屋による皮多支配の権限強化、平人と紛れないように監視する体制の強化、身分内仕置の強化などが行なわれた。
以下の書付は1733年(享保17年)5月に「向野村穢多への申渡し」として出された「お触れ」である。
「河州御領分丹南郡向野村穢多共ニ申渡之書付御写 壱通
庄屋 八郎兵衛」
河州御領分丹南郡向野村穢多共江申渡候事
(1)当村穢多共万端差図之儀先年より庄屋ニ委細申付置之、不依何事不届在之節者庄屋年寄方江召呼吟味之上手掟懸ヶ候様ニ申付間手錠渡置候、くびかねふたあし茂可相渡事
(2)穢多共近年本村小百姓共と馴合、本百姓・穢多之差別急度不相分様ニ及聞候、甚不屈之至候、殊二唯今迄茂 聞候、甚不屈之至候、殊ニ唯今迄茂我儘成儀在之、庄屋二対シ法外之仕方茂在之様二粗相聞候得共、表立庄屋丈助より相断不申候付、此度者以御慈悲差免候、向後猥成事無之様二急度可申付候 若シ穢多共已が身分を不相弁、押而みたりに本村江出入仕候ハゝ吟味之上双方急度可申付候事
(3)穢多共儀者当村庄屋并年寄共江我儘不為仕様二兼而申付置候、以来役人之申付相背 又ハ無法我儘仕候においてハ大庄屋五郎右衛門と申談、厳敷過怠可申付候、御蔵屋敷江不及相伺候、追而吟味之上其科によりて申付品可有之事
(4)御年貢等之儀者不及申諸事村掛り出銀旦又勤方之儀先年より相勤来候之通可申付候、万一申付相背候ハゝ早々可訴出候
(5)穢多共若不叶用事二て他所江於罷出者庄屋年寄江其訳相断可他出候、罷帰候節者又々可相達候、万一於他方不届之儀共仕出し先方より断なと於在之者吟味之上急度可申付候
付庄屋年寄江不相届他所より猥り男女共呼寄差置間敷、若庄屋年寄江不相断他所より呼置、後日二相顕候ハゝ急度其科可申付候、尤御蔵屋敷江不及相達候事
(6)右之一々穢多共不残召呼此書付を以可申渡候、先達而被仰出候御条目相守り急度入念分正敷仕候様可申付候以上
御蔵屋敷
享保十七壬子年五月四日 会所
丹南郡大庄屋
向野村庄屋
同村年寄中
申渡之上二而証文可為仕候事
前書之通穢多共取締り伝来候二付御條目
之写奉差上候以上
嘉永弍年 酉正月日 向野村庄屋
八郎兵衛 ㊞
日置吉郎右衛門 殿
大庄屋見習 同 新十郎 殿
(吉村文書)
(1)向野村穢多の差図は以前から本村庄屋に委任しており、付届きのことあらば吟味を加え手錠程度の刑罰は庄屋の判断で行ってよい。そのため手錠、首かせ、足かせを渡してある。(2)近年穢多のふるまいについて、本村小百姓らとなれあったり、へだてがなくなったり、我侭がすぎると聞く。さらには庄屋への法外のやり方もあるやに聞いている。庄屋が表立って問題にしていないので今回は許すが、今後本村へおおっぴらに立入ったりするならば、穢多側も応じた百姓側も共に罰するから心するように。
(3)穢多は本村庄屋・年寄に服従するよう以前より申付けてある。今後村役人のいいつけに従わず勝手なふるまいをする時は、大庄屋と相談して厳しく罰すること。わざわざ領主まで伺い出るに及ばない。
(4)年貢・村入用に至るまで、出銀から出役まで、本村役人から命じられたものは必ず従うこと。万一背くような場合は庄屋はただちに訴え出ること。
(5)穢多は他出する時、行く前に理由を帰れば届けをすること。他出先で不届きなことを行い、先方より申し出があった時は罰する。
付けたり。村役人に届け出ず他所者を住まわせるようなことがあり、後日露見すれば厳しく罰すること。その場合も御上へ届けるには及ばない。
(6)これらの条文一つ一つを穢多を全員呼び集めて庄屋から申し渡しておくこと。
この1733年(享保17年)5月の「お触れ」から100年以上経た1849年(嘉永2年)になって、改めて庄屋が大庄屋へ宛てその内容全体を「写し」とって上申している。庄屋が自主的に、つまりもう一度同様の皮田取り締まりを求めて提出したのか、大庄屋もしくは領主が先例を踏襲し、再度触れ出す参考に提出を求めたものかは、この史料からだけでは分からない。
本村と枝郷皮田村との間に権力が調整・介入する早いものは1731年(享保16年)秋元領(武蔵国川越藩)河内国丹北郡更地村本村庄屋への三ヶ条の「申渡し」(「更池村文書」)であり、これは更地村本村庄屋の親喜右衛門から子の清右衛門へ庄屋跡役を命じた際の申し渡しであるが、その中心的一条として皮田差配が書き記されている。
穢多の事について、百姓共と区別がみだりにならぬ様強く心得ること。もし穢多で無法をいう奴があれば、庄屋、年寄村役人の了簡でもって鎮めること。手錠をかける奴がでても、役所へ伺うことは不用で即時実行し、後で其訳を注進してくればよい。また首かせなどが入用なら早々願い出れば早速渡す。これだけ大きな権限を与えるからは手前勝手の差配や非道のないようにすること。もっとも穢多をいつくしむよう心得べきこと。
更池村と向野村は同じ秋元領であり、この三ヶ条の「申渡し」をさらに具体化し体系化した法令が、翌年向野村に出された「申渡し」といえる。藩と本村と枝郷皮田村との関係を規定した法令としておそらく初見ではないかと考えられるだけでなく、享保17年「申渡し」は内容の点でも具体的かつふみ込んだものである。この藩が居城を武州川越にもつ飛地であることと、向野村が早くから枝郷皮田人口が本村百姓人口をはるかに凌駕する村落構成となっていた二つの特質が、「申渡し」の早い時期の詳細な規定を生んだと考えられる[5]。
向野村と更池村は関西の食肉生産の発祥の地であり、日本の食肉産業の源流でもある。1858年(安政5年)には、向野村枝郷皮多村と更池村枝郷皮多村は、「屠者村」と称され、畿内の皮革産業の中心地である摂津役人村の皮多仲間からも
河州向井之村・更池村右両村之義は屠者村と申し、近国類稀なる下村にて御座候
河内国向野村・更池村は屠畜を専らとする「屠者村」で、皮多村のなかでも希な下々の格下村である
などの侮辱を受けている。同年の別の史料でも、「向野殺生方」と呼ばれていた。また、皮多身分の博労が多数存在していたことも明らかとなっている[6][7][8]。
1868年(明治元年)、向野村本村庄屋が幼年のため、更池村本村庄屋の田中家が更池村枝郷皮多村と共に向野村枝郷皮多村の支配も兼任する[9]。
1920年、向野村本村庄屋であった山上宗近が灌漑用水確保のため、寛永年間に二度池を完成させたことを讃えた「山上宗近流沢碑」が建てられる[10]。
1923年、向野で全国水平社青年同盟が結成されて西浜に本部が置かれた[11]。終戦1年目から3年目あたりにかけては、村をあげての活気と混乱が錯綜していた[12]。牛の内臓(ホルモン)は、上六や天王寺あたりで飛ぶように売れた[12]。
1950年、向野の屠牛数年間1万頭を超した[13]。1956年、屠牛数年間2万頭を超した[13]。1961年、屠牛数年間3万頭を超した[13]。1964年、屠牛数年間5万頭を超した[13]。
この節の加筆が望まれています。 |
世帯数と人口
編集2020年(令和2年)4月30日現在(羽曳野市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
大字・丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
向野 | 138世帯 | 279人 |
向野一丁目 | 238世帯 | 472人 |
向野二丁目 | 295世帯 | 529人 |
向野三丁目 | 226世帯 | 411人 |
計 | 897世帯 | 1,691人 |
人口の変遷
編集国勢調査による人口の推移。
1995年(平成7年) | 2,627人 | [14] | |
2000年(平成12年) | 2,418人 | [15] | |
2005年(平成17年) | 2,093人 | [16] | |
2010年(平成22年) | 1,957人 | [17] | |
2015年(平成27年) | 1,684人 | [18] |
世帯数の変遷
編集国勢調査による世帯数の推移。
1995年(平成7年) | 922世帯 | [14] | |
2000年(平成12年) | 945世帯 | [15] | |
2005年(平成17年) | 870世帯 | [16] | |
2010年(平成22年) | 864世帯 | [17] | |
2015年(平成27年) | 738世帯 | [18] |
学区
編集市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2020年4月時点)[19]。
大字・丁目 | 番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
向野 | 173〜225番地 | 羽曳野市立丹比小学校 | 羽曳野市立河原城中学校 |
245〜527番地 | 羽曳野市立はびきの埴生学園 | 羽曳野市立はびきの埴生学園 | |
向野一丁目 | 全域 | ||
向野二丁目 | 全域 | ||
向野三丁目 | 全域 |
事業所
編集2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[20]。
大字・丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
向野 | 5事業所 | 57人 |
向野一丁目 | 7事業所 | 21人 |
向野二丁目 | 34事業所 | 468人 |
向野三丁目 | 49事業所 | 418人 |
計 | 95事業所 | 964人 |
経済
編集産業
編集食肉業が盛んである。
- 店・企業
- 尼丁建設
- 竹田屋
- 精研
- 美喜
- タケダハム
- ハンダミート
- 中辻商店
- 丸福畜産
- 竹成畜産
- 阪南畜産
- 繁田総本店
- 萬野総本店 - 食肉卸し
- 大阪プロセスセンター
- オオクボ
- 龍インターナショナル
- テラオカ・グループ卸部、小売部
- 山繁うつみ商事
- ファミリーマート羽曳野島田病院前店
- サンプラザ埴生店 - スーパーマーケット
この節の加筆が望まれています。 |
地域
編集教育
編集- 羽曳野市立保育園向野保育園
健康
編集- 埴生診療所
- 向野診療所
- 東浦歯科クリニック
施設
編集- 宗教
- 西称寺(浄土真宗本願寺派)
- 組合
- 羽曳野市同和食肉事業協同組合
- 南大阪食肉卸商業協同組合
- その他
- 羽曳野市立社会福祉施設人権文化センター[21]
- 羽曳野市立老人福祉施設向野老人いこいの家
- 羽曳野市立児童福祉施設子育て支援センターむかいの
- 羽曳野市立南食ミートセンター
- 部落解放同盟大阪府連合会向野支部
- わじま文化会館
- 今井利三事務所
記念碑
編集出身・ゆかりのある人物
編集政治・経済
編集- 浅田浅太郎 - 食肉卸・浅田商店設立[13]。浅田満の父。
- 浅田満(実業家) - 食肉卸・ハンナンの元会長。
- 浅田暁(実業家) - ハンナンの元社長[23]。浅田満の弟[23]。
- 今井利三(政治家) - 羽曳野市議会議員。
- 萬野兼吉(食肉業者) - 南大阪食肉卸商業協同組合理事長、日本食肉協会理事、大阪府畜産協同組合専務理事などを歴任[24]。
法曹
編集学術
編集芸能・文化
編集その他
編集その他
編集日本郵便
編集脚注
編集- ^ “大阪府羽曳野市の町丁・字一覧”. 人口統計ラボ. 2020年5月17日閲覧。
- ^ a b “人口と世帯数(毎月更新)”. 羽曳野市 (2020年5月13日). 2020年5月17日閲覧。
- ^ a b “向野の郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月15日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
- ^ 幕藩制度国家と皮田村の位置のびしょうじ 部落解放研究102号(1995年2月号)
- ^ 『大阪の部落史』第十巻(本文編)近世の概要寺木伸明(大阪の部落史委員会企画委員・近世担当) 大阪の部落史通信・44号(2009.03)
- ^ 第三巻からみえる新しい大阪の部落史像臼井壽光(第三巻編集担当)大阪の部落史通信・40号(2007.03)
- ^ 食肉の村の形成のびしょうじ(大阪の部落史委員会委員) 大阪の部落史通信・33号(2003.8)
- ^ 明治初期河内国におけるかわた村と在地社会―「草場」の紛争を事例にアベレ・マイケル 2016年03月09-10日 URP特別研究員(若手・先端都市)及びUCRC研究発表会(合評会)兼大阪マニラ都市研究フォーラム 大阪市立大学都市研究プラザ
- ^ 西田孝司「大阪南部に残る泊園書院藤澤南岳・黄鵠・黄坡の揮毫と碑文 : 中河内郡恵我村別所の中山家資料を中心に」『なにわ・大阪文化遺産学研究センター2007』、関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター、2008年3月、1-22頁、CRID 1050282677888751360、hdl:10112/1411、NAID 120005683809。
- ^ 部落解放同盟とは、大阪府水平社の創立、部落解放同盟大阪府連合会公式サイト。
- ^ a b 『食肉の帝王 - 巨富をつかんだ男 浅田満』5-9頁。
- ^ a b c d e 『食肉の帝王 - 巨富をつかんだ男 浅田満』242-261頁。
- ^ a b “平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ “羽曳野市立学校の通学区域に関する規則”. 羽曳野市. 2020年5月17日閲覧。
- ^ “平成28年経済センサス-活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。
- ^ 人権文化センター羽曳野市。2021年5月31日閲覧。
- ^ 山上九郎左衛門宗近という人
- ^ a b 『食肉の帝王 - 巨富をつかんだ男 浅田満』34-37頁。
- ^ 『食肉の帝王 - 巨富をつかんだ男 浅田満』61-62頁。
- ^ a b 人権を語るリレーエッセイ、第40回 もてる力を持ち寄ってつくる「ぬくもりのまち」、一般財団法人 大阪府人権協会公式サイト。
- ^ “郵便番号簿 2019年度版” (PDF). 日本郵便. 2019年11月4日閲覧。
参考文献
編集- 溝口敦『食肉の帝王 - 巨富をつかんだ男 浅田満』講談社、2003年。